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日蓮大聖人・池田大作

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平和の連帯「SGI」(下) 「世界広布の基盤」は堂々と完成

2009.1.25 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

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1   君もまた
    私も共に
      敢然と
    世界広布の
      肩組む嬉しさ
 一九七四年の私の北中南米訪問では、三度目となるブラジル行きの予定も入っていた。しかし、当時の軍事政権は、"同行者に危険人物がいる"などの悪辣なデマ情報に踊らされてしまった。結局、入国は許可されず、中止を余儀なくされた。
 「からんは不思議わるからんは一定」である。
 驚くこともなければ嘆くこともない。ただ、ブラジルで待ちわびてくれていた友が不憫でならなかった。私は、電話口で鳴咽するロベルト・サイトウさん(当時、ブラジルの理事長)らを、懸命に励ました。
 仏典には「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず」と仰せである。
 魔というものは、紛らわしい形をとって競い起こる。その魔を魔と見破りさえすれば、必ず打ち勝てるのだ。恐れなく「来るなら来い」と迎え撃った時に、魔は退散する。嵐のあとの青空の如く、晴れ渡る大境涯が開かれていくのだ。
 「最大の危機に、最大の勇気が見られる」とは、私の大好きなブラジルの箴言である。
 ブラジル広布の英雄たちは、師弟直結の団結で、敢然と三障四魔をはね返してくれた。十年後、私の訪伯は晴れ晴れと実現した。
 なかでもブラジルの婦人部長をはじめ、絶対勝利の誓願の題目を続けてくださった、尊き婦人部の大恩に、私と妻は生涯、感謝を捧げ抜く決心だ。
 今、ブラジルSGIは、世界広布の模範の人材城と輝いていることは、ご存じの通りだ。
2  フランスの文豪ビクトル・ユゴーは喝破した。
 「孤立した力は自滅する」(「シエクスピーヤ」本間武彦訳、『ユーゴー全集』12所収、冬夏社)
 大事なのは「連帯」だ。負けないために、そして勝っていくためには、正義の連帯をつくることだ。
 宗教といえば、独善的で、どことも付き合わないという偏見がある。
 しかし、御聖訓には──「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せである。
 仏法が志向するのは、人間性の極意の振る舞いだ。正しき仏道修行の深まるところ、いかなる差異も超え、どんな人たちとも心を開いて、仏縁を結ぶことができる。出会った人と、笑顔で友情を結び、仲良く心を通わせることができるのだ。そして、良き人びととの連帯を広げ、平和と文化と教育の価値を創造していくことができる。これが、大仏法の人間主義である。民衆と民衆の「平和の大連帯」──これが、我らSGIである。
3  私が忘れ得ぬ対話の歴史を残した一人が、アメリカの大経済学者のガルブレイス博士である。博士は、あの大恐慌の時代、ルーズベルト大統領のもと、迅速なニューディール(新規まき直し)政策の推進に関わったことを誇りとしていた。
 ルーズベルト大統領も、語っている。
 「有効と思われる解決方法は多くありますが、ただそれについて議論しているだけでは何の解決にもなり得ません。我々は行動しなければならないのです。迅速に行動しなければならない」(井上一馬編著『後世に伝える言葉 新訳で読む世界の名演説45』小学館)
 万事において、大切なのは「スピード」である。
 一九七四年、北中南米から戻った後も、私は疾風の如きスピードで動いた。
 この年の五月には、初めて中国の大地を踏んだ。
 九月には、ソ連(当時)に飛び、コスイギン首相と会談した。
 続く十二月には再び中国へ。深刻な中ソ対立の溝を埋めるため、私は、コスイギン首相から託された"不戦"の意思を、鄧小平副総理ら中国の首脳に伝えた。周恩来総理から入院中の病院にお招きいただき、日中友好、世界平和の未来を展望したのも、この時であった。
 国家指導者にも、一人の市民にも、そして少年少女にも、私は同じ真剣さと誠実さで語りかけた。胸襟を開いた一個の人間との対話にこそ、一切の友好と平和の基盤があるからだ。
4  翌一九七五年(昭和五十年)も、年明け早々の一月六日、電光石火でアメリカヘ向かった。
 小雪舞うワシントンDCでは、国際関係のカギを握るキッシンジャー国務長官と会談した。続いてシカゴ、ロサンゼルスを経て、ハワイヘ、そしてグアムに入ったのである。
 一年間での訪問は、延べ十一カ国・地域。海外の滞在は実に百日を超えた。
 東西冷戦下の対立や不信の氷壁をとかし、人と人を結び続けた激動の一年であった。時をつくり、対話の大潮流を起こしゆく一日一日であった。
 原点を刻む七五年一月二十六日、グアムでの「SGI結成」の集いには、五十一カ国・地域の代表百五十余人の上気した顔が光っていた。
 嬉しいことに、後継の青年たちの姿も多かった。
 その中には、香港の青年部長などを務めていた香港SGI理事長もいた。
 私は句を綴り、彼にそっと贈った。
  「辛くとも
     アジアの土たれ
       弟子なれば」
 彼は緑深き東京・目黒区出身の英才である。苦学して香港中文大学に留学し、愛する香港に骨を埋める覚悟で、自ら中国名を名乗っていた。私は、何としても勝利してほしかった。
 日本から雄飛した友。そしてまた、世界各地で仏法に巡りあった、尊き使命の盟友たち。さらに、わが国際本部をはじめ、通訳や翻訳、国際交流に献身してくださる大切な同志たち──生涯、青年の心で世界広布を開拓しゆく功労の友たちの英姿を、私は決して、決して忘れない。
5  「たねと申すもの一なれども植えぬれば多くとなり」と日蓮大聖人は仰せである。
 「世界に平和の種を!」と誓い合った、わがSGIの出発は、小さな小さな集いであった。しかし、師弟一体の勇気と忍耐で植え続けた「種」は、妙法の慈雨を受けて生い茂り、今や、壮大な人材の「森」となって広がっている。
 ともかく、種を蒔くことだ。自らが種となって、乾いた大地に飛び込むことだ。手を打ち続ける以外に、広宣流布の前進はない。幾多の頼もしき青年も、世界中から地涌の誇りを胸に躍り出て来た。心美しき乙女たちが集う「池田華陽会」のスクラムもまぶしい。後継の陣列は、二陣三陣と続いている。私が八十歳までの目標として誓願した通りに、「世界広布の基盤」は、完璧に完成したのである。
6  それは、私が二十七歳、一九五五年(昭和三十年)の一月二十六日のことであった。夕刻、急きょ恩師・戸田先生に呼ばれ、隼のようにご自宅に馳せ参じた。
 次代の学会の飛躍を期す重要なご指導を賜った夜、私は日記にこう記した。
 「真に生命を賭した時、悠然たる力が湧く」(『若き日の日記』上、本全集第36巻収録)
 「不惜身命」で祈り戦ってこそ、沸々と現れる力と智慧がある。その満々たる大信力と大行力をもって、初めて破れる壁がある。
 その師弟不二の「法華経の兵法」をもって、私は、一切の戦いに勝ってきた。
 「平和の世紀」「生命の世紀」「人道の世紀」「民衆の世紀」を開くために!
 仏法は、「末法万年尽未来際」と説く。平和と幸福に輝く地球の未来を築きゆく、創価の「青年の時代」が、いよいよ開幕した!
 恩師は言われた。
 「青年ならば、全世界の運命の中に自分を置いて、発想し、行動するのだ」
 青年よ!若人たちよ!
 私は、君たちに燦然たる世界広布の大道を開き、広げてきた。
 その光輝満つる使命の道を、朗らかに堂々と歩み進んでくれたまえ!
  人類の
    太陽なりせば
      不滅なる
    世界広布の
      創価の友かな

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