Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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勝利の一年を共々に(上) 君よ 富士の如く巍巍堂々と!

2009.1.6 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

前後
1  二〇〇九年の元朝──。
 富士宮をはじめ各地のわが同志が、勇み立つ勢いで、朝日に輝く富士山の写真を送ってくださった。
  初日の出
    富士も悠然
      祝賀せむ
 白雪を抱いて威風堂々とそびえる、元旦の富士を見つめながら、次から次に、句と歌が迸り出てきた。
 さらにまた、先駆の九州の友、常勝関西の友、昨年、伺えなかった神奈川の友、吹雪に胸張る北国の友、そして日本全国、全世界と、次から次に、同志の顔が浮かび、"富士の如く勝ちまくれ!"と、励ましを送り続けた。
 一機一縁、その瞬間を逃さず、電光石火で手を打つ。いかにして、けなげな友を激励し、新たな広宣流布の波を起こしていくか。私の心には、それしかない。
 この一年も、私は、戸田城聖先生の直弟子として、厳然と勝利の指揮をとっていく決心だ。
 あの富士の如くに!
2  「巍巍堂堂として尊高なり
 これは関目抄で、「地涌の菩薩」の四人の導師、すなわち「上行」「無辺行」「浄行」「安立行」の人格を讃えられた一節である。
 まるで、富土山を仰ぎ見るような形容と拝される。
 それは、すべての人びとに勇気と希望を贈り、正しき人生の道を示しゆく「善知識」め存在である。
 今、世の中は暗澹としている。「人物がいない」「人間が小粒になった」「スケールが小さい」等と慨嘆する声は、あまりにも多い。
 なればこそ、我ら地涌の勇者が、誇りも高く、社会の「正義の柱」「希望の柱」「安心の柱」として、巍巍堂堂と立っていくのだ。
 二十一世紀の壮大な人材山脈を築き上げるのだ。
3  十九歳で、「地涌」の大指導者・戸田先生にお会いできた私は、その感動と決意を「われ 地より湧き出でんとするか」と詠じた。
 法華経に説かれる「地涌の菩薩」は、まさしく大地を割って涌出するのである。なんと雄々しき、無限の力に満ち満ちた存在か。
 「涌出」──法華経の版本によっては、この二字を「踊出」つまり「踊り出でる」と表記したものもある。
 法華経の涌出品第十五で、大地の底から勢いよく、踊り出てきたのが「地涌の菩薩」である。
 もともとの会座にいた釈尊在世の直弟子たちは、仰天したにちがいない。
 これまで、"自分たちこそ釈尊の直弟子なり"として、それ相応に頑張ってきた自負もあっただろう。
 ところが、それまで見たことも聞いたこともない、全く未知の菩薩たちが、今や、滅後の妙法流布の主役として、威風も堂々と新登場したのである。古参の弟子の驚きは、どれほどであったことか。
 "いったい、この偉大な菩薩たちは誰なのか?"
 「地涌」とは、あらゆる「壁」を突破する力だ。
 釈尊という大師匠は、彼らが漫然と決めつけていたような、小さな存在ではない。永遠の生命力を具えた、桁違いの仏なのだ。その師匠の真の実像を、久遠の弟子である地涌の菩薩たちが電撃的に示していったのである。
 それは、「師匠はこんなものだ」という思い上がりや慢心、「自分はこれまで十分、戦ってきた」という惰性や傲りなど......弟子たちの抜きがたい胸中の限界を打破した。そして、もっと偉大な、もっと尊高な力に気づかせ、さらに、元初の師弟の誓いに目を覚まさせていったのだ。
 戸田先生も、私たち青年が生気溌剌と台頭しゆく姿をもって、年輩の最高幹部を奮い立たせていかれた。
 そして今、多くの先輩たちが目を見張るような勢いで、わが若き弟子が成長している。日本の、いな世界の心ある人びとが、創価の男女青年部の大活躍を刮目して見つめている。
 「なんと素晴らしい青年たちか!」
 あの国からも、この地からも、賞讃の声が寄せられぬ日はない。
 私は、胸を張って、世界に宣言したいのだ。
 わが本門の弟子を見よ!
 わが本門の青年を見よ!
 君たちがいる限り、必ず創価の師弟は勝利すると、私は信じ待っている。
 戸田先生は青年に強く断言された。「広宣流布を進める創価学会を、何よりも大事にし、守りきっていく。これが、地涌の菩薩である」
4  それは五十年前──。
 一九五九年(昭和三十四年)、戸田先生の逝去から最初の正月を迎えた私は、この年を「黎明の年」と位置づけていた。
 「黎明」の光に包まれるのは、人びとが眠りについている漆黒の暁闇のなか、決然と行動に打って出る勇者である。
 今の季節、特に、夜明け前の暗いなか、雪や凍結で足元の悪いなか、聖教新聞の配達をしてくださる尊き無冠の友の皆様方に、胸奥より感謝を申し上げたい。私は妻と二人、一生懸命に無事故とご健康とご多幸を祈っている。
 本年もどうか、よろしくお願いします。
 五十年前の「黎明の年」、私は、恩師なき創価学会に「希望の太陽」を昇らせゆかんと、師子奮迅で走りに走った。一月の早々から、厳寒の北海道にも飛んだ。
 リーダーが率先して最前線に突入し、体当たりで道を開いていく以外にない。
 最も大変な地域、最も厳しい状況で、必死に戦っておられる友を励ますのだ。
 共に祈り、苦楽を分かち合って前進していくのだ。
 「幹部は第一線を足まめに歩け! 新たな突破口を自らが勇敢に開きゆけ!」
 これが戸田先生の教えであった。そこにこそ、勝利の「黎明」が輝き始めるのである。
5  "百年に一度"の金融危機だといわれる。この激浪のなかで、何が一番大事か。
 当然ながら、政治的、経済的、国際的な英断の施策が求められる。同時に、忘れてはならないことがある。
 敗戦という未曾有の危難のなかで迎えた昭和二十一年の正月、時の東大総長・南原繁博士は、ラジオを通じて訴えた。
 「制度組織の改革にも優して、内面的な革命──人間の思惟と精神の革命──がなされなければならぬ」(「国民の改造」、『人間革命』所収、東大協同組合出版部)
 博士は、それを「人間革命」と意義づけられた。
 そして当時、戸田先生は、苦悩の民衆を根本的に救うためには、人間が胸中の仏界に目覚めゆくことだと、広宣流布の戦いを起こされていたのである。
 「人間」こそが一切の焦点だ。いかなる改革も、人間自身が内面から変わらなければ画竜点晴を欠く。
 博士は、年頭のラジオ演説をこう締めくくった。
 「富士の霊峰は元朝の光に染められて新たな未来を象徴するが如くである。われわれは新たな希望と勇気とをもって、われわれの前に置かれた一筋の道を実直に進もうではないか──たといそれがいかに荊棘と苦難に叢り充ちていようとも」
 なお、四国の香川県出身の南原博士は、こよなく故郷を愛し、青年を愛した。母校を幾たびとなく訪問し、後輩たちを励まし続けたことも有名である。
 四国といえば、昭和五十五年の年頭、あの「さんふらわあ7」号に乗って、荒波を越えて、私のいる神奈川文化会館へ駆けつけてくれた真実の同志の顔が、鮮やかに蘇る。

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