Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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離島の同志万歳!(上) 歓喜の幸福島は ここにあり

2008.10.6 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

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1   荒波を
    乗り越え勇みて
      集いたる
    なんと尊き
      離島の同志よ
 わが青春の詩人ホイットマンは歌った。
 「歓びに心躍らせ、私達もまた路なき海に乗り出すのだ、
 未知の岸辺も怖れずに、歓喜の波上に 船をやるのだ」(『草の葉』下、長沼重隆訳、『世界文学選書』39所収、三笠書房)
 米国東海岸の島ロングアイランドに生まれた彼には、精神の旅を"勇ましい航海"に譬えた詩が多い。
 波を蹴って、断じて前へ、また前へ!
 人間の眼も、船の舳先も、前を向いている。
 勇気の先に、輝く新天地が待つのだ。
2  十月七日は、わが大切な「離島部」の日である。
 このたびの本部幹部会にも、その意義を込めて、離島の代表の方々が、はるばる馳せ参じてくださった。
 礼文島(北海道)、伊豆大島(東京)、大島(和歌山)、因島(広島)、直島(香川=学会組織では岡山に所属)、豊島(香川)、伯方島(愛媛)、五島列島(長崎)、沖永良部島(鹿児島)、宮古島(沖縄)──台風接近のなか、飛んで来られた方もおられる。
 お会いできて、本当に嬉しかった。
 今回、お目にかかれなかった尊き同志の皆様にも、「我らが幸福島、万歳!勝利島、万歳!」と心からエールを贈りたい。
 海苔製造業の家に生まれた私も、海に育てられ、魂を鍛えてもらったという自負があり、感謝がある。
 あの「童話王」と謳われるアンデルセンも、北欧デンマークの島を舞台にした名作を残した。
 彼は、語っている。
 「私の今までの生涯には晴れた日も曇った日もあった。けれども、すべてはけっきょく私のためになったのである。いわば、一定の目的地へ向う海の旅のように、舵を取り進路を選ぶのは私自身である」(『アンデルセン自伝』大畑末吉訳、岩波書店)
 さらにアンデルセンは、「善が認められずに、いいかげんなものが(中略)喝采される」(『完訳アンデルセン童話集』4、大畑末吉訳、岩波書店)という人間の愚かさに、痛烈な糾弾の矢を放った。
 こうした「転倒」を正していかなければ、人間も、社会も不幸だ。だからこそ、善は勝たねばならない。正義は勝たねばならないのだ。
3  今年(二〇〇八年)は、「部の日」の淵源となった、離島本部(当時)の第一回総会から三十周年にあたる。
 一九七八年(昭和五十三年)の十月七日に、佐渡島や淡路島、壱岐・対島をはじめ百二十もの島々から、広宣流布の大英雄の皆様が信濃町の創価文化会館に集ってくださったのだ。ここには、利尻島、奥尻島(北海道)、気仙沼大島(宮城)、隠岐諸島(島根)、周防大島(山口)、種子島、屋久島、徳之島(鹿児島)、石垣島、久米島、西表島(沖縄)等々からも参加されていた。
 あの凶暴な波浪が逆巻く「第一次宗門事件」の渦中である。「法師の皮を著たる畜生」らが、純朴な島々の同志にも襲いかかっていた。
 私は学会を護り、同志を護るために必死であった。この年の七月には瀬戸内の小豆島を訪れ、八月には、九州の霧島の地で奄美の代表を激励するなど、常に離島の友のことが念頭を去らなかった。
 総会で私は、はるばると勇み来られた離島の友に、命を振り絞って語った。
 ──一つの島は、いわば一つの国である。太陽が昇れば、地球が明るくなる。同じように、使命に生きる人間が一人立てば、地域を幸福と歓喜の光で満たしていくことができる、と。
 そして共々に、佐渡島で日蓮大聖人が認められた「開目抄」の一節を拝した。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし
 いかなる苦難があろうとも、師も弟子も不動の信心で戦い抜くならば、必ず必ず金剛不壊の勝利者の大境涯を開いていけるのだ。
 大聖人は、佐渡という離島において、この大原理を師子吼なされ、末法万年尽未来際へ示し残してくださったのである。
4   昇りゆく
    朝日の功徳
      身に浴びて
    離島のスクラム
      君ぞ指揮とれ
 心の大境涯に限界はない。いずこの地にあっても、広宣流布の使命に生きる我らの胸中には、勇気と希望と栄光の大海原が広がる。
 私は、離島本部の代表に指針を示した。
 「我らの島に『広宣流布のモデルケース』をつくるんだ。そこから、広布の潮流が起こる」と。
 この私の心に応え、わが離島の同志は敢然と困難に挑み立っていったのだ。
 聖教新聞の配送も、飛行機や船便で届けられる離島では、台風などの天候の影響を受ける。
 長崎県の生月島では、無冠の母が、毎日毎朝、約二時間かけて、聖教新聞を配達してくださっている。香川県の佐柳島では、購読されたことのある島民の方々が、実に九割を超えると伺った。兵庫県の男鹿島は、島の半分以上の方が聖教新聞を購読してくださっている。兵庫では懐かしい淡路島・沼島をはじめ、家島、坊勢島、西島の友も、友好拡大の素晴らしい模範である。
 沖縄県の与那国島で、約二十人の同志が中心となって、「世界の少年少女絵画展」を開催された時には、千二百人もの友人が参加され、共鳴を広げた。
 幾多の悪条件があろうが、離島の同志は、創価の旗を誇り高く掲げて、頑張り抜いてこられたのだ。
 私は誰よりも、その不屈の信心を信じていた。
 ──大聖人が一閻浮提の広宣流布を宣言されたのも、あの離島の佐渡ではないか! 御本仏に直結する、わが創価の離島の友は絶対に勝利する。
 見栄っ張りな都会がなんだ。島の風光、島の人情に勝る宝がどこにあるか。堂々と勝ち誇れ! と。
 思えば、独創の大地理学者であった牧口常三郎先生は、"閉ざされた島国根性"から"開かれた海洋国の気風"への大転換を提唱しておられた。
 海を"壁"と見て、萎縮するのではない。
 海を"わが道"と見て、心広々と打って出るのだ。
 要するに、前進を阻む最大の壁は、あきらめや臆病など自分の胸中にある。その心の壁を決然と打ち破れば、必ず新たな変革の大波を起こしていける。
 これが「一念三千」の大仏法だ。
 世界的な宗教学者で、ハーバード大学教授のコックス博士は、このほど発刊された、私との対談集『二十一世紀の平和と宗教を語る』(=二〇〇八年八月に潮出版社から発刊)の中で強調されていた。
 「臆病の代わりに必要なものは、『人々の態度も考え方も永久不変のものではない。彼らを変えることは必ずできるのだ』という強い信念です」
 わが離島の同志の心には、まさに、この「強い信念」が烈々と脈打っている。
5  世界五十四カ国・地域を駆け巡ってきた私の"パスポート"の最初の足跡は、実は沖縄である。初訪問の一九六〇年(昭和三十五年)の当時、アメリカの施政権下にあったからだ。
 そして、アメリカ広宣流布への第一歩は、太平洋の宝石の島ハワイから踏み出した。この十月二日(二〇〇八年)で、四十八周年となった。
 さらに恩師・戸田城聖先生の悲願であった東洋広布への前進は、香港島での座談会から開始した。歴史を変える起点は、「島」である。
 新時代の旭日は、わが離島の友の勇気の心から赫々と昇りゆくのだ!

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