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日蓮大聖人・池田大作

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わが尊き同志に贈る歌(下) 創価の妙音を響かせ 朗らかに

2008.9.22 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

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1   三世まで
    共に広宣
      幸の歌
 「つねに全人をもって行動するならば、一つ一つの行為と言葉がどんなに力強いものになることだろう」(『エマソン選集』7、小泉一郎訳、日本教文社)
 米国の思想家エマソンが放った鋭き言葉である。
 私は必死だった。真剣だった。全身全霊を注いだ。
 その日、昭和五十三年の七月二十四日。私は岡山の研修メンバーと共に、同志が用意してくれた船で、香川県庵治町の四国研修道場へ、瀬戸の海を走った。そして、ここで行われた、夕焼け空に包まれた野外研修会で、四国の歌「我等の天地」が発表されたのだ。なお、この夜、熊本でも、九州の歌「火の国の歌」が初披露されている。
 日々、炎暑であった。その暑さにもまして、同志を護り励ますため、熱き闘魂を燃やした毎日であった。四国研修道場で、私は、「東京の歌」の完成にも全力を注いだ。
2  七月二十六日、船で小豆島を訪れたあと、再び岡山へ。そして翌二十七日の午後三時過ぎ、「ひかり24号」で名古屋に入った。
 この日は「中部の日」。
 嬉しき記念の幹部会で、中部の歌「この道の歌」が発表となった。
 頬を紅潮させた中部の友が、頭を掻きながら言った。
 原案で残ったのは「中部」と「この道」など、わずかな言葉だけでした、と。
 私は、皆の労をねぎらいながら語った。
 「『中部』をなくしたら大変だよ。私は中部に来られなくなってしまう。
 『この道』もね、やはり『あの道』というわけにはいかないじゃないか」
 大爆笑が広がった。
 いかなる嵐があろうが、朗らかに、不撓不屈で戦い進むのだ。私と共に、師弟不二の「この道」を!
 一緒に「この道の歌」を歌うなかで、わが同志の顔は輝き、師弟の心は一つにとけ合っていった。
3  ただ中部に来て、実際に歌ってみると、歌詞を直したい個所が出てきた。
 当初、「諸天舞う」とした最後の一節がそうだ。
 仏典は明言している。
 「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し
 御聖訓には仰せである。
 「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき
 広宣流布を誓う、必死の祈りの一念は、仏天をも動かす。一切が諸天善神の働きとなる。これが、仏法の真髄ではないか。
 諸天をも叱咤し、厳命していける強い大確信の一念こそ、「絶対勝利の信心」に他ならない。
 そこで、「諸天舞え」と直させていただき、七月二十八日、岐阜の東濃(とうのう)文化会館を訪問した折に、改めて大合唱したのである。
4  「歌を作ったよ」──関西をはじめ、私からの連絡を受けた各地のリーダーたちは、"いったい、いつの間に"と驚嘆した。
 波立たぬ水面下、先手先手を打ち、勝つための準備を進めていくことだ。
 約二週間の師子奮迅の旅は最終盤を迎えていた。
 直接、お会いした同志は二万数千人にもなった。家庭訪問も、個人指導も、行く先々で重ねた。
 関西は立った。中国も、四国も、九州も立った。そして中部も立った──。
 雄々しき歌声は、師弟の心を結び、電撃的に同志を鼓舞していった。
 "西日本作戦"の第一波は大勝利であった。
  この人生
    断じて負けるな
      勝つための
    創価の信心
      決意も新たに
5  「次は東京だ! そして、東日本だ!」
 四国で進めていた歌詞に曲がついて、東京の歌「ああ感激の同志あり」が完成したのは、七月二十八日、中部の地であった。この歌を引っ提げて、私は東京へ乗り込んだのだ。
 東京の歌「ああ感激の同志あり」は八月一日、新・高等部歌「正義の走者」とともに発表された。次いで六日には、東北の歌「青葉の誓い」が誕生。
 この日、信濃町の創価女子会館に、健気な東北女子部の代表が来ていると聞き、私は、ほぼ完成していた歌に曲をつけながら、推敲を開始した。そして、一番、二番、三番と仕上がるごとに、彼女たちに伝えていったのである。
 さらに同日、山形県・米沢で行われていた「置賜(おきたま)ふるさと祭典」のために、電話で歌詞と曲が伝えられ、劇的に歌い上げられた。
 この八月の前半には──神奈川に「ああ陽は昇る」、北陸に「ああ誓願の歌」、さらに、八月後半には──北海道に「ああ共戦の歌」、そして長野に「信濃の歌」を、私は贈った。
 秋十月には──
  「母の曲」(婦人部)
  「凱歌の人生」(茨城)
  「広布の旗」(埼玉)
  「地涌の旗」(世田谷)
  「雪山の道」(新潟)。
 "創立の月"十一月は、
  「誓いの友」(栃木)
  「永遠の青春」(指導部)
  「文化と薫れ」(山梨)
  「歓喜の城光れ」(泉州)
  「広布の鐘」(群馬)
  「静岡健児の歌」(静岡)。
 最終的に、この年、私が作った歌は、男女青年部や学生部、婦人部、壮年部の歌をはじめ、方面・県・区の愛唱歌、支部歌(練馬区の「北町広布」)等に至るまで、三十曲に及んだのである。
 なお二〇〇六年(平成十八年)には、新生九州の歌「大九州の友は晴ればれと」を贈った。
 さらに、北海道の歌は、このほど、「三代城の歌」と改題し、一部加筆もして、新たな方面歌に生まれ変わった。
 爽やかな秋の北海天地に、わが同志の意気軒昂なる歌声が轟いている。
6   権力の
    虚しき冠
      朽ち果てぬ
    民衆賞讃
      王冠不滅と
 昨年(二〇〇七年)の十月、「世界詩歌協会」より、光栄にも私は「世界民衆詩人」の称号を拝受した。「桂冠詩人」「世界桂冠詩人」に続く栄誉である。
 インドのチェンナイで行われた式典の席上、大詩人のスリニバス会長が、錚々(そうそう)たる七百人の来賓の前で語ってくださった。
 「池田博士は『世界の民衆』に勇気と希望を贈り続けておられます。
 博士の詩は、こう魂を揺さぶるのです。
 『私たちは前進する! 着実に前進する!』と」
 あまりにも有り難い、今は亡き博士の信頼と励ましにお応えして、私は世界の民衆の前進勝利の詩歌を作り、歌い続ける決心である。
7  「私は戦闘に勝った。《ラ・マルセイエーズ》が、私とともに指揮した」(吉田進『ラ・マルセイエーズ物語』中央公論社)
 これは、フランス大革命の激動期に、一人の将軍が誇らしげに記した言葉だ。
 もともとは一七九二年、無名の一将校が、戦いに臨む熱情を託して、一夜で作り上げた歌である。
 大革命期の六年間で、約二千三百曲の歌が作られたといわれるが、なかでも、「ラ・マルセイエーズ」の歌の力は絶大であった。
 わが創価の大行進にも、同じ方程式がある。
 私はよく学会歌の指揮を執った。全国各地に、その黄金の思い出がある。
 沖縄本部の落成式(一九六二年)での、「沖縄健児の歌」も忘れられない。場外の友のため、炎天下、屋上で指揮した。
 一九六九年(昭和四十四年)の師走、病を押して訪れた和歌山では、同志の「武田節」の大合唱で舞いに舞った。皆が喜んでくれるならと、大鷲が翼を広げる如く!
 創価の正義の妙音を響かせていくところ、陰険な悪党どもは震え上がる。邪悪な闇は打ち破られるのだ。
 学会歌を朗らかに歌い進む時、師弟共戦の足音は勝利へ勝利へと高鳴る。
8  戸田先生は言われた。
 「どんどん新しい勢いのある歌が生まれるのは、学会発展の勝ち戦の瑞相だ」
 不思議にも、新世紀、新時代を飾って、新しい歌が続々と誕生している。
  神奈川の「勝利の虹」
  新「創価班歌」
  新「牙城会歌」
  「農漁村部の歌」
  「社会部の歌」
  「青年教育者の歌」
  「学術部の歌」
  新「聖教新聞社歌」
 真剣に作成に挑まれた友の祈りと奮闘を讃えたい。
 特に激務のなか、作曲、編曲、そして合唱、録音等を陰で支え抜いてくれた、わが音楽隊など創価の偉大な楽雄たちに、私たちは最敬礼したいのだ。
 二十世紀ベラルーシの国民詩人ヤンカ・クパーラは歌った。
  「歌を創ること 素晴らしい歌を
  その歌で 国のあらゆる人と
  友情を結ぶ──
  これこそ最高の宝
  我が胸に秘めしは──この願いのみ」(Янка Купала, Стихотворения и поэмы; Павлинка, Библиотека всемирной литературы, Серия 3, Том 156, Художественная литература)
 醜悪な策略が渦巻く時代にあって、わが学会は、常に清々しい歌声とともに勝ってきた。いな、これからも永遠に威風堂々の歌声で、勝って、勝ちまくっていくのだ!
  賑やかに
    楽園の歌
      うたいつつ
    喜び勇んで
      常勝かざれや

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