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日蓮大聖人・池田大作

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わが尊き同志に贈る歌(上) 雄々しき歌声で 新時代を勝ち開け

2008.9.21 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

前後
1   仏勅の
    広布の士気の
      音律は
    凛々しく賑やか
      大行進かな
 さあ、前進、前進だ!
 文豪ゲーテは歌った。
 「新たなる生の歩みを
 いざ、踏みいだせ、
 明るく澄める心もて。
 されば、新たなる歌声
 そこに響かん!」(「ファウスト」山下肇訳『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
2  今、全学会に希望の雷鳴のように新しき愛唱歌が生まれ、発表されている。
 九月の本部幹部会では、ドクター部の「生命の世紀」、団地部の「輝け『幸福の城』」、そしてスポーツ部の「勇勝の歌」が、躍動する歌声で披露された。
 学会歌とともに、歓喜と勝利の舞を──これが広宣流布の前進の実像である。
3   勇ましく
    また朗らかに
      広宣の
    足並み揃わむ
      常勝ラッパに
 一九七八年(昭和五十三年)の七月十七日。私は逸る心で、豊中の関西戸田記念講堂へ走った。この日の記念幹部会で、私が贈ったばかりの「関西の歌」が、正式に発表されることになっていたのだ。
 いよいよ合唱──その瞬間、場内がどよめいた。
 壇上正面の壁いっぱいに、歌詞を大書きした幕が現れたのだ。縦約五メートル、横約二十メートルの超特大である。
 幾たびも歴史の大舞台を、人知れず荘厳してくれた、設営グループ「関西鉄人会」の渾身の力作であった。
 しかも、幕の左半分には、懐かしき中之島の中央公会堂が描かれていた。
 それは昭和三十二年の七月十七日、あの大阪事件の折、「負けたらあかん!」そして「最後は正しい仏法が必ず勝つ!」と誓い合った会場だ。その絵を見つめて歌う同志の瞳に、熱くあふれるものがあった。
4   今再びの 陣列に
  君と我とは 久遠より
  誓いの友と 春の曲
  愛する関西 勇み立て
  …………
  いざや前進 恐れなく
 我とわが友の「師弟の歌声」が轟きわたった。
5   厳として
    邪悪な輩を
      許すまじ
    正義の我らは
      万年までもと
 この一九七八年(昭和五十三年)の当時、第一次の宗門事件の凶暴な嵐が荒れ狂っていた。
 そもそも、創価学会の赤誠の外護によって、大興隆を遂げた宗門ではないか。
 その宗門が、反逆の悪人と結んで、学会を攻撃したのだ。
 どれほど狂気の沙汰であったか。彼らの所業は、創価の師弟の絆を破壊せんとする謀略であった。学会員を奴隷のように屈服させようという魂胆であった。
 全国各地の寺では、冷酷無惨な坊主が学会員をいじめ抜き、迫害し抜いていた。
 それでも、わが同志は、悔し涙で歯がみしながら、理不尽きわまる悪口中傷に耐えて耐えて、蓮祖大聖人に直結の「創価の旗」を護り通した。
 まさに「軽毀罵詈」の迫害を忍受した、不軽菩薩の修行そのものであった。
 恩師は、「創価学会の組織は、戸田の命よりも大事である!」と師子吼された。
 この至高の師弟の結合を、下劣な悪党どもに踏みにじられてなるものか!
 この渦中にあって、私は関西の歌「常勝の空」をはじめ、次々に方面・県などの愛唱歌を作っていった。
 学会員を護るためならば、同志を励ますためならば、生命も惜しくない。
 日蓮大聖人の仰せのまま、我らは、広宣流布のために、「師弟不二」「異体同心」で、戦い進むのだ!──
 私は、その叫びを託して愛唱歌を作ったのである。
 「雷よ、はえるがよい、それなら、私はいっそう強くほえかえすから」(『静観詩集』辻昶・稲垣直樹訳、『ユゴー詩集』所収、潮出版社)
 文豪ビクトル・ユゴーの不撓不屈の宣言である。
6  関西での行事を終えた私は、七月十九日の午後、京都駅から「ひかり7号」で岡山へ向かった。
 その車中で取り組んだのが、「九州の歌」であった。
 実は、この時、九州の新布陣が決まり、代表が岡山に集うことになっていた。その門出に、ぜひとも歌を贈ってあげたかったのだ。
 題は「火の国の歌」──その題名の如く、詩句は火を吐くようにはとばしり、一気に歌詞が完成した。
 妻が横書きの便箋を縦喜きに使い、清書してくれた。
 行く先々で、各地の愛唱歌を発表する。これが、この昭和五十三年の夏から秋へ、私が自らに課した戦いの一つであった。
 岡山文化会館(現・岡山南文化会館)に到着するや、「中国の歌を作るよ!」と、そのままロビーに座っ
 て作詞を開始した。
 出迎えてくれたリーダーたちも驚きの表情を浮かべながら、私を取り囲んだ。
 有志が準備した原案が届けられていた。弟子が真剣に作った歌詞なればこそ、師は真剣に手を入れる。
 沸き上がる詩想のままに、赤鉛筆を走らせると、みるみる草稿は真っ赤になった。五分、十分……歌詞がほぼ固まったところで、いったん手を止めた。
 そして地元幹部との懇談に続き、九州の友との協議会へ。そこで、出来上がったばかりの「火の国の歌」の歌詞を手渡した。
 「九州は、気取りはいらないよ。そんなもの、一切かなぐり捨てて戦うんだ。二番の歌詞の『先駆の九州 いざ楽し』──この心が大事なんだ」
7  大音楽家ベルディの名作に、イタリアのパレルモを舞台とした歌曲がある。
 私が名誉コミュニケーション学博士号を拝受した、名門パレルモ大学を擁する地中海の宝石の天地だ。
 十三世紀、邪悪な権力者に支配されたパレルモを取り戻すため、勇者が戦いを誓う歌詞の一節があった。
  「ああ 侮りをいつまで忍ぶ」
  「いざ立て 立てよ
   勝利を目ざし
   いざ立て 栄えと
   勝利を目ざし」(「シチリアの晩祷」徳永政太郎訳、『世界大音楽全集 オペラ アリア集5』所収、音楽之友社)
 権力とは、所詮「権りの力」に過ぎない。その正体を見破れば、何を恐れることがあろうか。民衆の勇気の歌声の前には、幻と消え去る。
 御聖訓には、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」と仰せである。
 「九州の歌」が完成したこの夜、千葉県の館山では、房総圏の総会の席上、関東で第一号となる「千葉の歌」(「旭日遙かに」)が晴れ晴れと大合唱された。これは「関西の歌」と同時並行で、私が作詞を進めてきた歌で、既に贈ってあったのである。
8  翌七月二十日、私は伯備線の特急「やくも3号」で、″山光″鳥取の米子へと向かった。約二時間半の旅である。
 車中、前日に作った「中国の歌」の推敲を重ねて、ひとまず区切りを付けた。
 妻は、私の体調を案じて、ほっとした表情を浮かべた。しかし、私は言った。
 「さあ、次は四国の歌だよ!」。身は移動の列車にあっても、心は愛する四国にあった。「四国の天地は
 我が天地」と、口述を重ねて完成させたのである。
 私は必死だった。夕刻、米子文化会館に着くと、直ちに「四国の歌」を現地に伝えていただいた。
 鳥取は五年ぶりである。会館の庭では、友の真心を映したかの如くホタルが飛び交い、美しき夢幻の舞を見つめて、歓談が弾んだ。
 その合間に、曲のついた「中国の歌」のテープを聴きながら、懐中電灯の明かりのもとで歌詞を再チェック。数カ所、直して、遂に完成となった。
9   轟く歓喜の 中国に
  広布の船出も
      にぎやかに
  …………
  進み跳ばなん
      手と手 結びて
 「どうかな? 中国の同志は喜んでくれるかな」
 その場にいた皆の笑顔が光り、拍手が夜空に舞った。
 天に皓々たる満月。伯耆(ほうき)富士・大山のシルエット。
 地にはホタルの乱舞と同志の歓声……一生涯、忘れ得ぬ美しい思い出だ。
 米子の第二日も多忙。
 幾千人の同志をお迎えしながら、完成を急いだのが、「中部の歌」であった。
 三日目の七月二十二日には、中国の歌「地涌の讃歌」が正式に発表された。黄金のヒマワリが会場を彩った、忘れ得ぬ本部幹部会の席であった。
10  会館のロビーで、移動の車中で、同志と懇談の席で──歌の作成は、時も場所も選ばなかった。会員の喜ぶ顔を思い浮かべ、歌を紡ぐ。詩を絞り出す。一瞬の後には、同志の輪の中に飛び込んでいく。″今しかない! 今この時しかない!″──その連続闘争だった。
 「なぜ、そんなに次々に歌や詩ができるのですか」と聞かれたことがある。
 私は即座に答えた。
 「みんなだってできる。
 本気で同志を励まそうと、腹を決めるならば! 本気で魔を断ち切ろうと、死に物狂いで戦うならば!」
  君も立て
    我も征かなむ
      師弟不二
    広宣流布の
      なんと尊き

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