Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

尊き師弟の物語 わが使命ある弟子よ 不滅の歴史を創れ

2008.6.25 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

前後
1   わが青春
    悔いることなく
      万歳と
    叫ばむ 誉れの
      師弟の絆よ
 「山は樹を以て茂り 国は人を以て盛なり」(山口県教育会編『吉田松陰全集』4、岩波書店)
 明治維新を担う人材を育て、新しき日本の夜明けを開いた吉田松陰の言葉である。
 すべては「人」で決まる。
 人をつくり、人を育てよ!
 人を励まし、人を伸ばせ!
 この地道な積み重ねこそが、時代を変え、歴史を動かすのだ。
 その人材育成の根本の力は、いったい何か。
 吉田松陰は記している。
 「徳を成し材を達するには、師恩友益多きに居り」(同前)
 ──人として、徳を身につけ、才能を開かせるには、師匠の恩と良友からの益が多い、というのである。
 松陰が松下村塾で教えたのは、決して長い期間ではない。短くとれば一年余、長くとっても二年十カ月──この間の塾生は百人に満たず、近年の厳密な研究では九十二人とも言われる。
 尊き師弟と同志に磨き上げられた若き逸材が、綺羅星の如く、大いなる歴史の回天の劇へ、躍り出ていったのだ。
2  戸田先生は、折にふれて、「松陰と、その門下は美しいな。尊い師弟の物語を残したよ」と語られていた。
 この松陰と弟子の実像に、牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私を重ね合わせておられたのである。
 戸田先生にとって、信念の大教育者・吉田松陰は、常に師・牧口先生と二重写しの存在であった。
 あの戦時中の法難で、牧口先生が軍部政府から不当に逮捕された伊豆の下田は、奇しくも、嘉永七年(一八五四年)、松陰が囚われの身となった宿縁の天地でもある。
 とともに、戸田先生ご自身が、松陰の如く、こよなく青年を愛し育まれる、稀有の人間教育者であられたのだ。
 山口県・萩の松下村塾の小さな講義室──四畳半に始まり、次いで八畳間、最後は十八畳半の講義室から、天下の人材が陸続と巣立った。
 同じように、東京・西神田の小さな学会本部から、生命尊厳の大哲学を掲げた平和革命の大指導者を、世界へ羽ばたかせてみせる!──これが戸田先生の自負であり、決意であられた。
3   松陰の
    愛弟子
      高杉晋作は
    維新を成し遂げ
      君らも同じく
 松陰一門のなかでも、戸田先生が格別にお好きであったのが、高杉晋作である。
 「歴史上、会って語りたい人物」の筆頭に挙げられた。
 晋作は親友である久坂玄瑞と共に、松陰門下の「双壁」「竜虎」と謳われた。後輩たちは「玄瑞の才学」と「晋作の気迫」を模範と仰いだ。
 この二人に、同じく維新の途上に殉じた、入江九一と吉田稔磨を加えて、松陰一門の「四天王」とも讃えられる。
 いかなる陣列にも、要となり、柱となる存在が不可欠である。そうでなければ、鳥合の衆となってしまうからだ。
4  師匠・吉田松陰に、弟子・高杉晋作が入門したのは、何歳の時であったか。
 それは数えで十九歳であった(安政四年=一八五七年)。人生の求道の年代である。
 思えば、昭和二十二年(一九四七年)の八月、戸田先生は、座談会に出席した初対面の私に尋ねられた。
 「池田君は、幾つになったね?」
 旧知の親しみと懐かしさを湛えた声の響きであった。
 「十九歳です」
 「そうか、十九歳か......」
 先生は、感慨深げであられた。
 北海道から上京した若き戸田先生が、生涯の師と仰ぐ牧口先生に会われたのも、この年齢であった。
 今、学会も、十代、二十代のヤングの世代が溌剌と躍動している。我らの創価山には、若き人材の伸びゆく大樹が瑞々しく茂り、眩いばかりだ。
 先生は、よく私を「大作、大作」と呼ばれながら、いつしか「晋作、晋作」と言われていることがあった。
 「奇兵隊の創設」、そして「幕府軍への勝利」と、師の仇を討ち、師の理想を実現していった愛弟子こそ、高杉晋作である。
 かつて聖教新聞に、作家の山岡荘八先生は、小説『高杉晋作』を連載してくださった。私の『冒険少年』『少年日本』の若き編集長時代、子どもたちに偉大な夢を贈る傑作を執筆してくださって以来の深い交友である。
 山岡先生は、晋作を「松陰の『不惜身命──』の境地をそのまま怒涛逆まく時代の中で実践してみせた分身」(『吉田松陰』、『山岡荘八全集』42所収、講談社)と評されていた。
 松陰なくして、晋作はなかった。そしてまた晋作なくして、松陰もなかったのである。
5  ある時、私は詠い残した。
  松陰の
    全集懐かし
      青春の
    炎の時代に
      幾度読みしか
 松陰の全集には、記されている。
 「もし僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継くの士をば後世に残し置くなり」(前掲『吉田松陰全集』)
 ──たとえ、志半ばにして刑死しようとも、わが志を受け継ぎ、成就する青年を育て残しておく。これが、松陰の覚悟の一念であった。
 教えを請う弟子に対して、松陰は、必ず「何のために学問するのか」と尋ねたという。
 「書物がよく読めるようになりたい」と答える弟子に対しては、「人は実行が第一である」(前掲『吉田松陰全集』12、趣意)と厳しく教えた。
 その「実行」とは、世のため人のために大誠実を貫き、天下を変えていく行動である。
 松陰は、この大志を果たしゆくための才能は、誰人ももっていると信じた。
 そして教育によって、その力を伸ばし、大成させることができると、自らの実践を通して確信してやまなかったのである。
 人材とは、見出すものだ。そして、信じて育てていくものである。
 私が、二冊の対談集を発刊したモスクワ大学のサドーブニチィ総長の言葉が、感銘深く思い起こされる。
 「目の前に座る一人の若者のなかに秘められた英知と才能の萌芽を見て取ることができるのは、ただただ人間の目であり、教育者の目ではないでしょうか」(『新しい人類を 新しき世界を──教育と社会を語る』。本全集第113巻収録)
 師の眼は、無言のうちに、ある時は励まし、ある時は叱咤し、常に弟子の勝利を祈り見つめてくれているものだ。
 偉大な師のもとで、晋作は、ぐんぐん伸びていった。
 その成長を喜び、松陰は綴っている。
 「晋作の学業は急速に進歩し、議論もますます卓越してきたので、同志は皆、(彼が言うところを)襟を正して聴くようになった。私(松陰)も議論するたびに、よく晋作の意見を引いて結論づけるようになった」(前掲『吉田松陰全集』5、参照)と。
 弟子から学びながら、師弟共に前進していこうという松陰の大きさが伝わってくる。
 わが師・戸田先生もまた、若き私に、満腔の期待と信頼をもって、接してくださった。
 事業においても、また広宣流布の展開においても、思い切って私の意見を採用され、指揮を任せてくださったのである。
 この師の信任に師子奮迅の力でお応えしたのが、私の誇り高き青春であった。
 ゆえに、私は一点の後悔もない。
  立ち上がれ
    巌も砕く
      師弟不二
6  師・松陰は叫んだ。
 「義は勇に因(よ)りて行はれ 勇は義に因りて長ず」(前掲『吉田松陰全集』4)
 ──正義は、勇気によって実行される。勇気は、正義によって成長する、と。
 「正義」即「勇気」の魂の継承こそ、師弟の真髄である。
 「讒人世に在るは古も今の如し」(堀哲三郎編『高杉晋作全』下、新人物往来社)
 ──卑劣な讒言で人を陥れる人間が世にはびこるのは、昔も今も同じである。
 晋作の痛憤であった。
 讒言は、荘厳な師弟の世界とは対極に位置する罪悪だ。
 ところで松下村塾は、一時期、大勢の入門希望者で賑わった。だが、安政五年(一八五八年)暮れ、松陰が再び投獄されると、門下には「乱民」などと非難が浴びせられ、その家族までも、村八分に遭ったりしたという。
 そうした厳しい条件下では、偽物の弟子は必ず消え去っていくものだ。浅ましい臆病者や卑しい恩知らずは、自ずから淘汰される。
 松陰門下には、真実の弟子のみが残った。
 勇敢なる師弟の連帯となったからこそ、新しき時代を創り開く力が、全開していったのだ。
  悔しくも
    明るく指揮とれ
      名将と
    時代の回転
      鋭く見つめて
7  安政六年(一八五九年)の七月、江戸の牢獄に囚われた松陰にとって最大の心の支えなったのは、前年から江戸にいた愛弟子・晋作であった。
 この月に書かれた、現存する松陰の書簡八通は、すべて晋作に送られている。
 晋作は、松陰が所望した兵法書『孫子』の手配や入り用の金の工面などにも奔走した。
 獄中の師をお守りせんと、一心不乱に奮闘したのである。
 師匠が最も大変な時に、どう戦ったのか。
 そこにこそ、究極の「弟子の道」が光る。
 松陰は"晋作は、真によく私を知る"と絶大な信頼を寄せ、他の弟子にも"晋作と密接に連携をとりなさい"と書き送っている。
 師・戸田先生の事業の絶体絶命の窮地にあって、私は、先生に、ただ一人お仕えして阿修羅の如く戦い抜いた。
 先生が背負った莫大な負債も、全部、返済の道を開いた。
 そして、先生に弓を引いた忘恩の弟子どもを叱り飛ばしながら、第二代会長の就任の晴れ舞台を厳然と築き上げたのだ。弟子の誠を尽くし切った一日また一日であった。
 「大作さえ、いてくれれば大丈夫だ!」──そう言われて、先生が悠然と広布の指揮を執ってくださることが、私の無上の喜びであり、誉れであった。
8   三類の
    強敵破らむ
      我らのみ
    広宣流布の
      仏勅誇りと
 松陰の殉難後、晋作の胸に炎と燃えていたのは、師匠の仇討ちの一念であった。
 一カ月後の初命日を前に認めた手紙には、「仇を報い候らわで安心仕らず候」「ただ日夜我が師の影を慕い激歎仕るのみ」(前掲『高杉晋作全集』上)と、血涙を絞るように書き留めている。
 元治元年(一八六四年)三月、晋作は、藩命に従わなかった罪で、師と同じ「野山獄」に投獄された。
 その入獄の日に、晋作は一句を詠んだ。
  「先生を
     慕うて漸く
       野山獄」(前掲『高杉晋作全集』下)
 この時、晋作が入れられた牢は、十年前(一八五四年)、師が最初に野山獄に投獄された際に、一時入った牢と同じであったと言われる。
 この獄中で、日々読書し、思索し、詩を高吟する晋作を、囚人の一人が、あざ笑った。すると晋作は、師・松陰の教えを滔々と語り、「余の行なうところ先師の言と真に符節を合する如し」と、毅然と言い切ったのである。
 師弟に徹する人生に、恐れはない。惑いもない。逡巡もない。苦難は即栄光と変わる。
 戸田先生は、戦時中、牧口先生の弟子として、二年間の獄中闘争を戦い抜かれた。出獄されたのは、昭和二十年(一九四五年)の七月三日、午後七時であった。
 あの大阪事件の折、私が無実の罪で逮捕、入獄したのは、不思議にも、その十二年後の同じ日、同じ時刻であった。
 「先生の出獄の日に、私は牢に入りました」と申し上げると、先生の眼差しは、深い強い光を放たれた。
 蓮祖は、佐渡流罪の大難のなかで、仰せになられた。
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし
 創価の師弟は、御聖訓通り、「三障四魔」「三類の強敵」が競い起これば起こるほど、いよいよ、この「師子王の心」を燃え上がらせてきた。
 そして、断固として魔軍を打ち破り、師匠を厳護して、より高い次元へ、広宣流布の大発展の道を開いてきたのだ。
 未来永遠に、この師弟の常勝の大道は不滅である。
9  なお、松陰が辞世の歌に、「親思ふこころにまさる親ごころ......」(前掲『吉田松陰全集』9)と詠んだことは、歴史に名高い。
 晋作もまた、"自分を思ってくれる母の情には、いかなる志も及ばない"(前掲『高杉晋作全集』下、参照)と詠じている。
 真摯な親孝行の心も、師弟は深く共通していた。
 日蓮大聖人は、若き南条時光に教えてくださった。
 「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」と。
 広宣流布に生きゆく青春は、最高無上の親孝行を果たせる生命の軌道である。
 わが青年部は、この大確信をもって、父母を大切にしていっていただきたい。
10   忘れまじ
    維新の晋作
      そしてまた
    広布の大作
      君らと共なり
 「能はざるに非ざるなり、為さざるなり」(前掲『吉田松陰全集』3)(できないのではない。ただ、やらないだけである)
 有名な松陰の叱咤である。
 松陰は「草莽崛起そうもうくっき」(民衆決起)の構想を抱いていた。すなわち民衆が立ち上がれば、必ずや巨大な力を発揮すると、見通していたのである。
 これは、日蓮大聖人から、松陰が学びとった信条であることは、有名な史実だ。
 この民衆革命のビジョンを、「奇兵隊」として具現化していったのが、晋作である。
 元治元年(一八六四年)の暮れには、晋作は下関の地で、わずか八十人ほどの無名の兵士たちを率いて決起した。ここから、形勢が一変し、倒幕への流れが加速していったのである。
11  時を逃さず、電光石火のスピードで打って出る。ここに、勝利を決するカギがある。
 昭和三十一年(一九五六年)の九月、戸田先生と私は、全国の情勢を精査した。
 結論として、先生は言われた。
 「山口広布が遅れている。大作、行ってくれるか」
 「はい! わかりました」
 戦いの急所を見極めたら、即断即決である。
 「また池田君が行くのか」とヤキモチを焼いて、面白くない顔をする先輩幹部もいたが、私は歯牙にもかけなかった。ただ、恩師の構想を実現することだけが、私の鋼鉄の決心であったからだ。
 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」(伊藤博文撰「高杉東行碑銘文」〈前掲『高杉晋作全集』下〉から)と謳われた若き晋作の勇姿を思い描きながら、私は、健気な同志と共に山口の天地を走り抜いた。
 十月を第一期として、翌年一月まで、三度にわたる開拓指導により、山口の創価の陣列は、一気に十倍近い拡大を果たしたのである。
 日本列島が震撼した。
 戸田先生のご生涯の総仕上げの時を飾りゆく、大きな大きな拡大の布石となった。
 つい先日(二〇〇八年六月七日)の青年部幹部会にも、山口県から凛々しき青年たちが馳せ参じていた。
 二十一世紀の若き創価の晋作たちは、私と共に、新たな広宣流布の開拓闘争を開始してくれている。
12   革命は
    生死超えたる
      劇なれば
    三世に舞いゆけ
      名優誇りに
 「生きて大業の見込みがあれば、あえて生き続けなければならない」(前掲『吉田松陰全集』9、参照)
 数え年三十歳で殉じた松陰が、愛弟子・晋作に教え託した遺命であった。
 しかし、その晋作も病に倒れ、二十九歳で早世した。
 戸田先生は、私が晋作のように三十歳まで生きられないのではないかと心配され、慟哭なされた。
 「あまりにも、大作に苦労をかけてしまった。自分の命を代わりにあげて、なんとか長生きさせたい」
 この計り知れない師の慈愛に包まれて、戸田先生と一体不二の生命で、私は傘寿を迎えることができたのである。
13  かつて、私は山口青年部の友に、一言を贈った。
 「松陰は刑死 君は継志」
 大事なことは、いかなる局面にあっても、師の志を我が志として、決然と行動を起こすことだ。
 松陰は、厳粛に戒めている。
 「人は晩節を全うするに非ざれば、何程才智学芸ありと雖も、亦何ぞ尊ぶに足らんや」(前掲『吉田松陰全集』3)
 人間の真価は、人生の最後で決まる。
 自らの志を捨て去り、晩節を汚すことはど、人間として醜悪な敗残の姿はないのである。
 恩知らずの愚劣な退転反逆の者たちに、この松陰の叫びを、唾を吐きながら言い放ちたいと、ある幹部が真剣に憤怒していたことが、忘れられない。
 松陰は遺言している。
 「我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(前掲『吉田松陰全集』9)
 ──弟子たちよ、どうか、わが「志」を押し広げ、これを大いに満天下に宣揚していってくれたまえ! これ以上に、私という人間をよく知る道はないのだ、と。
 今、嬉しいことに、世界の最高峰の知性が、私たちが歩みゆく「師弟の道」に人間教育の希望の光を見出してくださっている。
 現代中国を代表する歴史学者の章開沅しょうかいげん・華中師範大学元学長も語ってくださった。
 「創価の師弟は、ソクラテス、プラトンの師弟に勝るとも劣らない、歴史に特筆すべき輝きを放っております」(『人間勝利の春秋』第三文明社)
 さあ、いよいよ、太陽輝く七月へ!
 躍動する「青年の月」へ! ともあれ、偉大なる創価の師弟は、断固とすべてに勝ちまくっていくのだ。
 人類の幸福と平和という、世界広宣流布の大願を高く掲げ、さらに壮大なる創価の「師弟の物語」を、来る日も来る日も、綴り築こうではないか!
  すばらしき
    この世の人生
      飾りゆけ
    師弟の道は
      無限の宝と

1
1