Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ヘレン・ケラーの思い出 わが友よ 滝の如く堂々と勝て

2008.6.5 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

前後
1  それは、五十年前の六月の初旬であった。
 わが師・戸田城聖先生が逝されて二カ月──。
 私は、全学会の命運を若き双肩に担い立って、日本列島を駆け巡る日々であった。
 この折も、九州、関西を回り、いったん帰京して、また関西へと、猛然と動き、走り、戦った。
 お会いした大切な同志が、一人ももれなく安心し、自信と歓喜をもって前進できるように!
 自らが行った、この大地から、この天地から、尊き使命をもちゆく地涌の菩薩が湧き出で、広宣流布の新しい勝利の活路が開けるように!──
 私は、いずこにあっても、胸中で真剣に題目を唱え続けながら、全生命を燃焼させて行動した。
 幾たびとなく夜行列車に飛び乗り、東奔西走しながらも、常に心は、師匠・戸田先生と一緒であった。
 師匠をもつということは、どれほど凄いことか! どれほど偉大な心にさせてくださるものか!
 私は満々たる勇気を奮い起こして、日記に綴った。
 「先生の眼鏡(メガネ)のまなざしが、厳しく浮かぶ。大きな温和な顔が、激励にと変わる」「さあ、元気を出し、今月も、戦おう」(『若き日の日記』下。本全集第37巻収録)
 師匠のために戦い抜くのだ! 勝ち抜くのだ!
 それが、私の一切の根本であった。
2  私の好きなゲーテは、正義を貶めようとする悪人に対して悠然と叫んだ。
 「良いものをけなす? まあためしてみるとよい
 虚勢をはっているあいだはごり押しできても
 いずれみすかされ
 泥沼にたたきつけられて当然だろう」(『穏和なクセーニエ』飛鷹節訳、『ゲーテ全学』1所収、潮出版社)
 聡明な人の決意の言葉は、私たちの胸を開いてくれる。
 賢明な人の助言は、私たちに勇気を与え、一切の不安を霧散させ、勝利への誓約を立てさせてくれる。
 「自分が世の中で何か役に立っている、自分が誰かにとって必要であると感じるのはすばらしいことです」(ジョン・A・メーシイ編『愛とまごころの指』万成滋訳、社会思想社)
 これは、一人の気高い女性教育者の言葉であった。
 あのヘレン・ケラーを励まして、目と耳と口の三重の障害を共に乗り越え、世界に希望の光を送ったサリバン先生である。
 世のため、人のため、妙法という永遠の「幸福」と「平和」の種を蒔きゆく、創価の友の人生には、あまりにも、すばらしき充実と誇りが輝いている。
 なかんずく、婦人部の結成記念の六月を迎え、広宣流布の崇高な使命に生き抜く全世界のお母さまたちの偉大なる健闘に、私は妻と共に心から最敬礼を捧げたい。
3  一九三二年の六月十五日。
 スコットランドの名門グラスゴー大学において、輝かしき伝統の名誉博士号の授与式が厳粛に挙行された。
 式典の会場である、壮麗なビュート・ホールには、十六人の受章者が列席していた。そのなかに、ひときわ清々しい光を放つヘレン・ケラーの姿があった。
 グラスゴー大学の総長は、おごそかに宣言した。
 「我々は、勇気と不屈の忍耐をもって、人間の肉体の弱さゆえの障害を越えて、先例なく、また類例なき智力の勝利をかち得たる、この婦人(=ヘレン)を尊敬する。
 それと同時に我々は、彼女の友人にして教師である人、献身的な愛と天才によって、この勝利を可能ならしめた婦人(=サリバン先生)を讃美するものである」(N・ブラッディ『偉大なる教師サリヴァン』岩橋武夫・芥川潤訳著、三省堂)
 総長は、受章するヘレンを讃えるとともに、愛弟子の晴れ姿を会場の一角で見守っている、サリバン先生を心から賞讃したのだ。
 晴れわたる、光り輝く歴史の日であった。
 弟子の勝利は、師匠の勝利である。そして、弟子の喜びは、自らの勝利を晴れ晴れと師匠に捧げることである。
4  生後まもなく罹った病気のゆえ、視力と聴力を奪われたヘレンが、サリバン先生と巡り会ったのは六歳であった。
 この時、サリバン先生は二十歳であった。花の女子部の年代である。
 二人が出会って四年後、目覚ましい成長を遂げたヘレンについて、サリバン先生はこう記している。
 「(=ヘレンは)かりそめにも、まちがった行ないをいい加減に見逃したりはできない性質です。彼女のまっすぐな魂には、あらゆる悪はどれも同じく忌むべきものと映るのです」(前掲『愛とまごころの指』)
 師匠が見守り育んだ、この"まっすぐな正義の魂"は、幾多の困難を乗り越え、師弟同道して、なんと偉大な山を登り切ったことか!
5  なお、ヘレンが深く敬愛してやまない日本人がいた。現在の埼玉県の出身で、今の創価学会本部の近くで学んだ、盲目の大学者・塙保己一であった。
 来日した折に埼玉で講演したヘレンは、かつて母親が、この塙保己一の生涯を通して"努力すれば、必ず道は開ける、苦難に負けるな!"と励ましてくれたことを、感謝を込めて語った。
 わが創価学会には、誇り高き「自在会」や「妙音会」の同志がおられる。
 視覚や聴覚の障害に負けることなく、妙法の当体であるわが生命を輝かせながら、希望と勝利の実証を示されゆく人間の英雄の方々である。
 日蓮大聖人も釈尊も、そして三世十方の仏菩薩も、どれほど讃嘆されていることか。
 諸天善神も守りに護れと、私と妻は、題目を送り続けている。
6   宿命の
    山々乗り越え
      常楽の
    眷属つくれや
      今世の修行で
 一九五五年の五月二十七日、ヘレン・ケラーは、沖縄を訪れた。その模様は、沖縄タイムスや琉球新報などでも、報道されている。
 「心の中でバンザイを叫びました」と沖縄訪問を喜んだ彼女は、出迎えてくれた盲・ろう学校の子どもたちを抱きかかえるように励ました。
 「一心に勉強なさい。教育は決して無駄ではありません。目は見えなくても、霊(心)の目が開けます」
 七十四歳になっていた彼女は、こう力強く訴えた。
 「私自身が証明です!」と。
 さらに、ヘレン・ケラーは教員の先生方の労をねぎらいながら呼びかけた。
 「勇気をもって、子どもたちへ、光明への種を植えつけてください。教育──それは将来、きっと花咲くでしょう」
 ヘレン・ケラーから、沖縄への、希望と連帯のメッセージであった。
 苦難に負けまい! 胸を張って進もう! 勇気で人生を勝ちゆくのだ!──と。
 「ぬちどぅ宝(命こそ宝)」
 未来からの使者たちの命を、地域社会を挙げて、慈しみ育てゆく沖縄の心は、青き海よりも大きく深い。
7   沖縄は
    世界平和の
      大拠点
 沖縄の研修道場は、核弾頭を装備できるミサイル「メースB」が中国大陸に向けて配備されていた、米軍の発射基地であった。
 その「軍事の要塞」が、今では、世界に平和のメッセージを発信しゆく「平和の要塞」へと生まれ変わったのだ。
 沖縄研修道場には、今まで世界約三十カ国・地域の識者や指導者が訪問されている。二〇〇六年の春、来訪された中国人民対外友好協会の陳昊蘇ちんこうそ会長も語ってくださった。
 「基地を、平和の舞台に転換された"世界平和の碑"の発想に、感謝申し上げたい。
 この平和の舞台に、世界から多くの青年が訪れ、平和のために努力する精神を学ぶことは実にすばらしい」
 第二次世界大戦中、凄惨を極めた悲劇の沖縄戦では、島の形が変わるほどの砲弾が浴びせられ、二十万人を超える尊き命が犠牲となった。
 「最も苦しんだ沖縄こそ、最も幸福になり、最も平和になる権利がある」──私は、その断固たる祈りを込めて、ここ沖縄の地より、小説『人間革命』の執筆を開始した。
8  今や、この沖縄が、日本一、いな、世界一早い広宣流布のモデル地帯として、地域に、社会に信頼の輪を広げ、美事な大法興隆を成し遂げてこられた。妙法に照らされた平和と文化の城である会館も、相次いで誕生している。
 昨年には、幹線道路沿いに、堂々たる「浦添文化会館」が完成。この四月には、沖縄伝統の赤瓦を葺いた風格ある「那覇西文化会館」もオープンした。
 今年は、忘れ得ぬ「沖縄平和文化祭」から二十五周年。
 途中から降り出した激しい雨をものともせず、わが友は「アララガマ魂(負けじ魂)」を燃え上がらせて、勝鬨をあげた。
 あの日の同志の勇姿を、三万人の沖縄の友を、なんで忘れることができようか。
 国連の代表の方々や沖縄各界の四千五百人の来賓の方々も、みな大喝采を送ってくださった。後悔は露ほどもなく、感動の大絵巻となった。
 その思い出深き会場の沖縄市の陸上競技場の側にも、今は立派な「中頭なかがみ文化会館」が立っている。
 「イチャリバチョーデー(出会えば、みな兄弟)」という深き友情の心に満ち満ちている沖縄の天地にあって、那覇市の沖縄国際平和会館を中心として、創価の会館は「開かれた世界市民の広場」と光っているのだ。
 聖教新聞も、毎日毎朝、沖縄の多数の島々に、くまなく配達されている。"東洋のアマゾン"と呼ばれる西表島にも、船で聖教が届く。
 そして誉れ高き「無冠の友」が、引き潮の時に陸続きとなる由布島まで、歩いて配ってくださっている。心より感謝を申し上げたい。
9  「沖縄」の地名が、最初に文献に登場するのは、八世紀とされる。『唐大和上東征伝とうのだいわじょうとうせいでん』という書に「阿児奈波おきなわ」と記されているのだ。
 初めて沖縄の名前が出てくるこの一書は、天台大師の『摩訶止観』などを携えて日本へ渡ってきた中国の仏教者・鑑真の伝記である。
 鑑真が幾多の苦難を越え、失明の試練にも属せず、ついに六度目の航海で渡日を果たしたのは、まさに沖縄を経ての航路であった。
 ヘレン・ケラーも、その不屈の意志力に感動した。
 先日、来日された中国の胡錦濤国家主席とは、この鑑真についても語り合った。
 いずれにせよ、沖縄は、中国とも縁が深い。アジア、そして世界に開かれた不思議な魅力の太陽の島である。
10   宝島
    わが沖縄は
      幸福城
 沖縄を「東洋のハワイ」に──第三代会長に就任して、いち早く沖縄へ飛び、一七回の訪問を重ねてきた私の願いであり、祈りであった。
 現在、沖縄の出生率は、「日本一」。十四歳以下の人口が占める割合も「日本一」の若い県である。
 一方、百歳以上の方々が人口に占める割合も「日本一」。女性の長寿も「日本一」だ。
 「地域元気度」という指標においても「日本一」である。
 観光客の増加をめざす「ビジットおきなわ計画」も順調で、昨年度は、五百八十九万人を超え、史上最高となった。
 数年後には、世界長高水準の教育研究機関として海外からも注目される「沖縄科学技術大学院大学」が、わが研修道場の隣の敷地に開校する。
 沖縄は、名実ともに、世界の人びとが憧れる"平和の楽土"として、隆々たる大発展を遂げている。
11  現在、私が新たな対話を重ねている、冷戦終結の功労者ゴルバチョフ元ソ連大統領も、沖縄の訪問を長年の夢とし、二〇〇一年の秋に実現された。
 元大統領は、その喜びを、私にしみじみと語られた。
 「沖縄は、本当にいいところですね。沖縄の人びとは、すばらしい、知的な方々です。生き生きとして、温かい方たちだなと思いました。生涯、忘れられません」
 そして、沖縄の未来を見つめながら、よりよき変化は「平和へ向かって協力し合う心の広がりによって決まる」と展望されていた。
 この壮大な「心の広がり」の金の波、銀の波を、わが友は、沖縄から世界へ、未来へ、創り起こしてくれている。戸田先生も、よく言われた。
 「『心の世界』は慈悲深い心で接すれば、いくらでも変化するということを、忘れてはならない」
 「人の心を動かすものは、策でもなければ、技術でもない。ただ誠実と熱意である」
 まさに、この「誠実」と「熱意」で、わが沖縄健児、わが琉球家族は、朗らかに、カチャーシー(伝統の喜びの踊り)を舞いながら、断固と勝ち進んでいくのだ。
  いついつも
    日本列島
      励まして
    先駆の勝利の
      沖縄尊し
12  さて、ヘレン・ケラーが、グラスゴー大学の授与式に臨んでから六十二年後の一九九四年。私も、グラスゴー大学から名誉博士号を拝受した。
 日付も同じ、六月十五日。そして会場も同じ、荘厳な大学構内のビュート・ホールであった。この時の思い出は、私の心から一生涯、消えることはないだろう。
 推挙の辞を凛然と述べてくださったのは、大学評議会議長のマンロー博士である。
 「池田氏の人生の方向を決定づけたのは、一九四七年、戸田城聖氏と出会い、氏の弟子になられたことであります。戦争の傷あとのいまだ癒えぬころでありました……」
 ビュート・ホールに「ジョウセイ・トダ」と、わが恩師の名前が幾たびも響き渡った。
 ──グラスゴー大学に学ばれた大教育者が、のちに感慨を込めて語ってくださった。
 「わが母校は、ヘレン・ケラーとサリバン先生の師弟を、おごそかに讃嘆した如く、池田博士と戸田先生の師弟を世界に向かって高らかに宣揚したのです。
 真の正義の人を擁護し、賞讃することは、グラスゴー大学の誉れ高き伝統です」
 この式典の折、マンロー博士が、推挙の辞の結びに朗唱してくださったのが、私の「滝」の詩であった。
  滝の如く 激しく
  滝の如く 撓まず
  滝の如く 恐れず
  滝の如く 朗らかに
  滝の如く 堂々と
  男は
  王者の風格を持て
13  私は、来る日も来る日も、ただひたすらに、師匠を護り、師匠のために奔走しゆく青春であった。
 私の喜春は正しかった。
 私の青春には、全く後悔はない。
 師匠をもたぬ人間は、漫然としている。また安閑と生きている。そんな愚かな人生であっては絶対にならないと、私は深く決意していた。
 私は恩師から伺い、今も誇りにしている言葉がある。
 それは「俺も、お前も、男らしい戦いをやり抜いて来たなあ」という一言であった。
 牧口先生と戸田先生も、まさしく、そうであられた。
 この六月六日は、牧口先生の生誕の記念日である。
 牧口先生は、若き日の大著『人生地理学』の中で、滝の景観を含む「河川」が人間の情操に与える影響として、「堅忍不抜」「孜々ししとして休まざること」「気宇の広闊こうかつ」「度量の雄大」等を育むと挙げられている。
 牧口先生ご自身が体現しておられた、これらの美質は、私が「滝」の詩に込めた思いとも合致しているのだ。
 奇しくも、わが沖縄研修道場にも、「平和の滝」と呼ばれる爽やかな滝が流れている。
 ともあれ、広布の英雄たる我らは滝の如く、激流の如く、勝利へ、勝利へ、おのが命を滾らせながら進みゆくことだ。
 スコットランドの同志も、私が訪問した十四年前は、六十人ほどであったと記憶する。それが、今や、千人の友が集い合い、盛大に文化祭を開催するスクラムとなった。
 グラスゴー大学と創価大学の教育交流も、実り豊かに重ねられている。
14  ヘレンケラーは言った
 「世界に青年がいるかぎり、文明は逆行することができない」(『わたしの生涯』岩橋武夫訳、角川書店)
 青年を育て、青年と共に未来を開く人こそ、真の責任感をもった人生の勝利者だ。
 蓮祖大聖人は、「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」と仰せになられた。
 ここに勝利の要諦がある。
 「我らの友よ、夜明けはそこまで来ているのです」
 「我らがつくった大道を真っしぐらに前進しようではありませんか。団結し合い、覚悟を新たにして恐れることなく!」(岩橋英行『青い鳥のうた』日本放送出版協会)
 これは、ヘレン・ケラーの人生を貫いた叫びである。
 わが敬愛する同志よ、晴れ晴れと戦い、晴れ晴れと勝つのだ!
 青年の心で、青年と共に! 滝の如く堂々と!

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