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日蓮大聖人・池田大作

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青年よ広布の革命児たれ(下) 威風堂々 民衆の底力で勝て

2007.12.20 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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1  「情熱は情熱を生む」(『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』下、関泰祐訳、岩波書店)と、文豪ゲーテは言った。
 そして、この情熱の拡大ありてこそ、偉大な勝利も生まれるのだ。
2  私が対談したトインビー博士は、人類史を通観なされており、日本の歴史や文学にも精通しておられた。
 『万葉集』や『源氏物語』も読まれていた。「因幡の素兎しろうさぎ」(古事記)や「かぐや姫」(竹取物語)のこともご存じで、しばし、おとぎの世界へ語らいが広がったこともある。
 みずみずしい探究心で学び続ける人生は、かくも心が躍動し充実しているものかと、私は感嘆した。
 博士は、江戸時代から明治維新へと至る変革の原動力は、どこにあったかについても、鋭く洞察されている。
 そのエネルギーは、支配階層から排除され、抑えつけられていた民衆の間に、実は蓄えられていた。これが、博士の分析であった。
 「人間の活動は決して凍結することはなく、いつも徐々に沸騰してくるものである。そしてそれに蓋をすれば、きっと噴きこぼれる」(「徳川幕府と平和への教訓」戸田基訳、『中央公論』〈1962年7月号〉所収、中央公論社)と、博士は達見しておられたのだ。
 まさに、この噴きこぼれんとする民衆の力を結集して、時代を動かしたのが、晋作の「奇兵隊」であった。
3  これ以前より、日本の各地で、民衆勢力の台頭はあった。しかし、「夜明け前」に侘びしく消え去っていった事例が少なくない。
 その中で、なぜ、晋作は、かくも鮮烈に歴史に輝く民衆の陣列を生み出すことができたのか。これも、「戸田大学」の論題の一つであった。
 当然、さまざまな次元から光を当てることができるが、戸田先生と私が論じ合ったポイントがある。
 それは第一に、根幹に「師弟の志」があったからである。
 奇兵隊の結成時、核となったのは、松下村塾の同窓生、すなわち師・松陰が身分の隔てなく同志として遇し、育てた弟子たちであった。
 そこに階層を超えて、優秀な逸材が勇み集ったのだ。
 第二に、全員が「志願兵」であった。それが、他の地で行われていた強制的な兵役と、根本的な違いを生み出したとも言われている。
 奇兵隊に入る基準──それは、何よりも「志」にあった。
 長州をはじめ各地から集った精鋭が、そのまま晋作たち松陰門下の「志」に触れて、決起していったのである。
 第三に、晋作が皆に誇りと責任を与えた。
 藩から身分制度の徹底がなされるなか、晋作は苦心を重ねながら、隊に集った全員が武士としての待遇を受けるよう、主張している。
 それと同時に、晋作は、隊に組織をつくり、厳格な規律も決めた。"奇兵隊員は人民の手本となれ"という指針も、明確に示した。
 戸田先生は、「奇兵隊には、食えなくて来た者もいたかもしれない。しかし、そうした人間も、晋作によって、憂国の士へと変わっていったのである」と洞察されていた。
 この晋作は、世界にも友情を結んでいる。
 上海の地で、筆談を通して語り合った陳汝欽ちんじょきんという友が目を患ったと聞くと、「誠心(誠実な心)は天をも貫くものだ。病など、おそるるに足らない。祖国のために、命を大切にしてくれ給え」(堀哲三郎編『高杉晋作全集』下、新人物往来社。参照)と、心から励ましたのである。
 誰に対しても、どのような状況にあっても励まし、力を引き出していくのが、真の指導者である。
 そして第四に、習作は電光石火のスピードで動いた。
 文久三年(一八六三年)の六月、晋作は、外国との戦いで疲弊した長州藩から、新しい軍隊の編成を託される。
 晋作は、その足で戦地を視察し、武士たちが弱体化しているのを見てとると、すぐさま「奇兵隊」の結成を進言。これが受け入れられるや、「動けば雷電の如く」(古川薫『長州奇兵隊』創元社)と評された通り、あっという間に民衆を糾合していった。
 構想の発表よりわずか三日間で数十人の勢力となり、以後、入隊希望者は後を絶たなかったという。
 さらに、この「奇兵隊」の成功は、次々と新たな"民衆部隊"を生み出し、「諸隊」と呼ばれる五千人もの勢力となったのである。
 スピードが勝負だ。私が指揮した「山口開拓闘争」も、電光石火の拡大戦であった。
4  ともあれ、いかに時代が移り変わろうとも、戦いにあって肝心なのは、身分や立場でも肩書でもない。本当に戦う闘魂があるか、燃え立つ志気があるかどうかである。
 安逸に慣れ、保身に汲々とした人間など、一旦緩急の時に、なんの用があろうか。
 真の革命児とは、裸一貫、捨て身で戦う人間だ。
 御聖訓にも、こういう譬喩が説かれている。
 「裸の猛者が勇敢に突き進んで大陣を破るのと、甲冑を身に着けた猛者が引き退いて一陣をも破らないのとでは、どちらが勝れているであろうか」(御書一二三ページ、通解)
 創価の広宣流布の戦いは、いわば、現代における「草莽崛起そうもうくっき」(民衆の決起)だ。
 苦悩に打ちひしがれ、権力から圧迫されてきた民衆が、「地涌の菩薩」の大使命に燃えて、威風も堂々と立ち上がった戦いだ。
 なかんずく、新しき青年の勇敢なる前進こそが、最大の勝利の源泉であることはいうまでもない。
5  「今の山口県に、吉田松陰という偉い先生がいた。
 松陰には二人の弟子がいた。一人を久坂玄瑞、もう一人を高杉晋作という」──
 一九五七年(昭和三十二年)の四月三日。
 東京の学会本部で行われた杉並支部の「少年少女の集い」で、戸田先生は、"松陰門下の双壁"と讃えられた二人の弟子について語られた。
 そして、先生は、この玄瑞も、晋作も、二十代で逝去した悲劇を嘆かれた。
 「生きていれば国家のために大活躍をしたことだろう。長生きをしないといけない。そうして、国家民衆のために戦わなければならない」
 戸田先生は遠くを見つめるように、語られたのである。
 その日、私は大阪にいた。
 急遽決まった、参議院の大阪補選の支援の指揮を執っていたのである。当時、私は二十九歳。晋作が肺病で命を落とした年齢に達していた。
 戸田先生は、死を覚悟して戦う愛弟子を、晋作のように死なせてはならぬと、いつも祈り抜いておられたのだ。
6  晋作が波瀾万丈の人生の幕を下関で閉じたのは、慶応三年(一八六七年)四月十四日の未明であった。明治の新時代の前年である。
 休みなく奔走するなか、急速に病気が進行した。
 指揮した幕府との一戦で、勝利をほぼ決した頃、喀血して倒れ、約八カ月後の死であった。"死んでも外敵と戦う"との晋作の思いから、遺骸は近くの奇兵隊の陣営跡に葬られた。
 この話をされる時、戸田先生はいつも、病弱な私の体を思い、「大作は三十歳までしか生きられない」と滂沱の涙を流された。
 そして、「大作、断じて生き抜け! 俺の命をやる。俺の分まで生き抜くのだ!」と語ってくださったのである。
 私は戸田先生から命を受け継ぎ、不二の弟子として生き、戦い抜いてきた。
 あの「三・一六」の後継の儀式から、明年で五十年──。創価の師弟は、世界に燦然と勝利の歴史を残したのだ。
 そして私は、一生涯、この創価の「弟子の大道」を、誠実に、また誠実に走り抜いていく決心である。
 青年よ、私に続け!
 広布の革命児たれ!
 わが弟子よ!
 君も、晋作の如くに!

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