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日蓮大聖人・池田大作

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青年よ広布の革命児たれ(上) 師匠の「志」を行動で受け継げ!

2007.12.19 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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1  わが師・戸田城聖先生は、東京・西神田の小さな小さな学会本部で、よく言われた。
 「吉田松陰は、わずか八畳間の講義室で逸材を育てた。
 ここは、松下村塾だよ。私のいるところが、偉大な革命児が躍り出る"妙法の松下村塾"なのだ」
 私は、幸運にも、この学会本部で、先生の深遠なる法華経講義を受講した。その大いなる感動と誓いは、二十一歳の時の日記にも書き留めた。
 「かの、明治維新の革命児巣立ちし道場、松下村塾。
 これは、犠牲あり、流血の末の政治革命でありしなり。
 今、この道場(=学会本部)より巣立ちし青年。
 これ、生命大哲学を、厳護せし、永久に崩れざる、平和革命なりしなり」と。
2  時代を創るのは、「人」である。その人を創るのは、「師弟」である。
 幕末の動乱のなか、松下村塾からは、あの高杉晋作、久坂玄瑞の二人の英傑をはじめ、維新回天の人材が、綺羅星の如く登場した。
 もともと松下村塾は、吉田松陰の父方の叔父が開き、次いで、母方の叔父が主宰した寺子屋のような塾であった。
 しかし、松陰が"第三代"の中心者となり、まさしく「革命児」養成の鍛錬場として、一新したのである。
 "今は辺地でも、松下村塾のあるこの地から、必ず奇傑、非常の人物を輩出し、やがて天下を奮発、震動させる時代が来るであろう"(山口県教育会編『吉田松陰全集』4、岩波書店。参照)
 こうした大望のもと、松陰が弟子の育成を本格的に開始して百五十周年──。
 その期間はわずか一年余りであったが、松陰は、「至誠にして動かさざる者は、未だ之れあらざるなり」(孟子)との言葉を身に体し、「誠実一路」で教育に尽くした。
 一人でも、師の精神を継ぐ至誠の弟子が出ればよい、と。
 後に松陰は、獄中で"わが志を知れ"と弟子に望み、"私の心を知るということは、私の志を受け継ぎ、更に大きく実現してくれることにほかならない"(『吉田松陰全集』9、参照)と、遺書に記す。
 安政六年(一八五九年)の十月二十七日、理不尽にも、師・吉田松陰は、江戸の伝馬町の獄で死刑に処せられた。三十歳であった。
 だが、「そのために、かえって、自分の目的とするところを、弟子の心の中に脈々と、残すことができたのである。一人の松陰、死して、多くの松陰をつくったのだ」とは、水滸会での戸田先生の論及であった。
 まさに、師の至誠の炎は、弟子にともされた。奮い立った弟子は天下を動かし、新時代を開いたのである。
 その一人こそ、遺弟・高杉晋作であった。
3  一九五六年(昭和三十一年)、戸田先生から「山口開拓闘争」の指揮を命じられた時、私は真っ先に岡山から下関へ走った。寝台急行「天草」で、下関駅に降り立ったのは、十月九日の朝六時五十八分であった。
 直ちに拠点に向かい、地元の中国方面はもとより、全国から勇み集ってくれた健気な同志と共に、勤行をし、「四信五品抄」を拝読した。
 「南無妙法蓮華経と唱えるわが弟子の位は、諸宗の元祖よりも勝れること、百千万億倍である。日本国中の人びとよ、私の末弟たちを軽んじてはならない。わが門下は過去世を尋ねれば、八十万億劫もの長い間、無量の仏に仕えた大菩薩なのである。未来を論ずれば、まことに広大な功徳の人びとである。ゆえに絶対に軽蔑してはならない」(御書三四二ページ、趣意)
 私たちは意気軒昂だった。
 壇ノ浦──すなわち下関沖合で、勝利を決した「義経」の如く! そしてまた、下関で決起した「晋作」の如く、戦おうと!
 民衆を救うのだ。敵を倒すのだ。味方を増やすのだ!
 以来四カ月で、私は、この山口に、約十倍の正義の人材・拡大の歴史を創った。
 いかなる苦闘も乗り越え、満天下に勝鬨をあげてこそ、まことの弟子である。
4  ここ下関は、十九歳で松陰の弟子となった高杉晋作が、最も誇りとしていた「奇兵隊」発祥の天地である。
 奇兵隊は、「有志の者」の軍勢として、武士以外からも志願兵を募って編成された。ゆえに「正規軍」に対して、「奇兵隊」という。
 戸田先生も、「奇兵隊は、それまで武士が威張って、バカにされていた百姓や町民を集めて組織したもので、見事に幕府軍を破っている」と、高く評価されていた。
 晋作の「奇兵隊」創設の着想の源泉は、何であったか。
 その一つが、師・松陰の構想であった。
 「諸侯恃むべからず、草莽(=在野の人)の志士を募る」「恃むべき所の者は早莽の英雄のみ」(前掲『吉田松陰全集』5)……
 ゆえに、この民衆の力を決起させ、時代変革の突破口とするのだ!
 その先駆けには他人は頼らぬ、自分一人でもやってみせよう──松陰は、こう「草莽崛起」(民衆の決起)を叫んでいたのだ。
 松陰の殉難から四年後、高杉晋作が創設した奇兵隊は、師から弟子に受け継がれた志の一つの結実であったといってよい。
5  戸田先生は、晋作が好きであられた。
 「一度、会ってみたかったなあ......」と先生が言われた、歴史上の豪傑の一人である。
 先生と二人して、晋作の人物論を誇り合ったことも、懐かしい。先生が「大作、大作」と呼ばれるうちに、「晋作、晋作」になっていることも、しばしばあった。
 私の妻にも語ってくださったことがある。
 「晋作には、"萩城下一の美人"とうたわれた、雅子という妻がいた。
 だが、東奔西走の日々であった晋作とは、一緒に過ごす時間は、はとんどなかった。
 しかし、賢明な妻として、母として、家を守り、立派に子息を育て上げている。
 香峯子も同じだな」と。
 戸田先生が、晋作という人間の魂の真髄に見出しておられたのは、何か。
 それは、師への仇討ちの執念である。
 刑場で命を落とし、罪人として小塚原に葬られた師・松陰の遺骨を、晋作たちが改葬したのは、文久三年(一八六三年)の正月のことであった。
 この時、晋作は二十五歳。晋作が先導して、師の遺骨を運ぶ行列は、荏原郡の若林村(現在の世田谷区内)へ向かった。道中、上野台の側を流れる忍川に至り、三橋という橋を渡ろうとした時のことだ。
 そこに立つ番人が、この橋は将軍が通る橋だから、不浄のものは使用できぬと制止したのである。
 晋作は激怒した。大声で一喝した。
 「勤王の志士の遺骨を改葬するのに何を言うか」(中原邦平「高杉東行の事績一班」、『防長史談会雑誌』2所収、国書刊行会)
 あまりにも烈々たる気迫に、番人は即座に退散した。
 わが偉大な師匠を侮辱する者は、この命を賭しても許さぬとの師子吼であった。
 「自らず未だ舊寃きゅうえんそそあたわざるを(私は自らを恥じている。いまだに師の仇討ちを果たしていないからだ。必ず果たしてみせる)」(堀哲三郎編『高杉普作全集』下、新人物往来社)
 有名な一詩は、晋作が、松陰の墓前で詠んだ叫びである。
 戸田先生は、この晋作の魂に、獄死した牧口先生の仇討ちに立ち上がった、ご自身を重ねておられた。
 そして、不二の弟子である私を見出しておられたのだ。
 私は、山口・萩の松下村塾の史跡に足を運び、友に語ったことがある。
 「松陰も偉かったが、弟子が偉かったから、松陰の名が世に出たのだ。
 恩師・戸田先生の偉大さも、弟子の私たちが宣揚しなければ、世界の人びとに示し、先生の名を世に出すことはできない。
 これが、弟子の道だよ」と。
 戸田先生との出会いから六十年。私は牧口先生と戸田先生を、正義の大偉人として、全世界に宣揚した。
 師の正義を叫び抜いた人生に、一点の悔いもない。

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