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日蓮大聖人・池田大作

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今こそ生命の極理を学び抜け(上) 「行学絶へなば仏法はあるべからず」

2007.10.19 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

前後
1  アメリカの大哲人エマソンは、晴れ晴れと宣言した。
 「思想は神聖な光明である
 「それは宝石や黄金よりも優っている
 それに決して死なないものだ」(「思想」、『エマスン詩集』中村詳一訳、聚英閣)
 青春時代から、私の大好きな言葉である。
 御書には、「生命論」の真髄が説き明かされている。
 誰人たりとも「仏界」という人間の生命の極致を開いていける哲理である。生老病死の苦悩を打開して、永遠に「常楽我浄」の軌道を上昇していける法理である。
 この偉大な思想を持てる人こそ、最も富める生命の王者なのだ。
2   新しき
    世紀の人をば
      つくらむと
    行学楽しく
      不減の城かな
 向学の秋十一月二十五日、いよいよ学会伝統の「教学部任用試験」が実施される。
 受験者の皆様方のご健闘、また無事故、大成功を、私も妻と共に真剣に祈っている。
 蓮祖大聖人は、厳命なされた。
 「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず
 二祖・日興上人は遣誡なされた。
 「御書を心肝に染め極理を師伝して」と。
 この仰せの通りの創価学会の教学運動である。ここにこそ、一人ひとりが、絶対の幸福を勝ち取るための仏道修行がある。現実の社会に、正義と平和の哲理の柱を打ち立てゆく精神闘争がある。
 教学を大切にしていく人は、心が広々と、前途に無限の希望が湧いてくる。
 教学を捨てた人間は、自分勝手な、増上慢の暗闇の中へ入り込み、喜びの人生と幸福な境涯を捨て去ってしまう。これが、実像である。
 かの精神の巨人トルストイは、最晩年の日記に記した。
 「思想の力は、その中から大きな木が成長する芽のように目には見えない。が、その中から、人間の生活の明らかな変化が芽生えるのである」(『トルストイ最後の日記』八住利雄訳、栗田書店)
 勉学や仕事、家事など、忙しい合間を縫って、疲れた体を奮い立たせて、御書を繙く時もあるであろう。
 その地道な教学の研讃の努力のなかで、どれほど巨大な「思想の力」が蓄えられ、どれほど力強い「人間革命」の大樹が育ちゆくか、計り知れない。
3  受験者を真心から励まし、応援してくださる先輩の方々の尽力も、尊い限りだ。
 大聖人は、仰せである。
 「一切の仏法も又人によりて弘まるべし
 「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし
 世界最高峰の大哲学を学び弘める人は、人類の幸福に貢献する「第一」の宝の人だ。
 明年は「人材・拡大の年」。
 まさしく教学試験は、この「人材・拡大」の鍛錬場なのである。
 「教えることは、二度学ぶことである」(「随想録〈抄〉」大塚幸男訳、『世界人生論全集』9所収、筑摩書房)と、フランスの思想家ジュべールは言った。
 今回の教学試験では「佐渡御書」が教材に入っている。その追伸には、「此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ......」と、お認めであられる。
 大聖人御自身が弟子たちに対して、「信心の志のある人が集い合って一緒に読んでほしい」と望まれている。
 先輩と後輩が共に御書を拝しながら、「人材・拡大」の波を起こしていくことは、この御心に適った気高い姿だ。
4  オーストリアの文豪ツバイクは語った。
 「真の思想は実践のうちにはじめて生命を得るのであるし、信仰は公然と宣言されてこそはじめて生命を得るのである」(『ロマン・ロラン』下、大久保和郎訳、慶友社)
 教学の魂は、実践だ。
 一九五一年(昭和二十六年)の七月十一日、男子部が結成された。
 その四日後には、師匠の命を受けて、私は東北へ走り、仙台支部の座談会等に勇んで出席した。
 「佐渡御書」や「日厳尼御前御返事」の講義を通し、仏法の正義を共に学び、語り合った。新来者が相次いで入会を希望されたことも、楽しき「今生人界の思出」だ。
 私は二十三歳。男子部の一班長である。青年のなかに飛び込み、力を込めて訴えた。
 「先日、東京で、男子青年部が結成されました。いよいよ、我々、青年が立ち上がる時が来たんです!」
 それから二カ月ほど過ぎた九月には、私は、教学部の講義部員として、埼玉を本舞台とした、志木支部の川越地区の御書講義に走った。
 あの「札幌・夏の陣」(昭和三十年)も、そして「大阪の戦い」(昭和三十一年)も、早朝の御書講義が、前進また前進、勝利また勝利のリズムを生んでいった。
 私の偉大な師匠・戸田先生と共に、「広布第一幕」の勝ち戦をば、常に「御書根本」で切り開いたのである。
 そして今、「広布第二幕」もまた、我らは教学研鎖の喜びを勢いとしながら、断じて常勝の友と飾っていくのだ。
5   御聖訓
    不惜のままの
      精進に
    一人ももれなく
      仏になるかな
 「哲学することなしに生きるということは、まさしく眼を閉じて少しも開こうと努めないことであります」(「哲学原理」三輪正・本多英太郎訳、『デカルト著作集』3所収、白水社)
 これは、大哲学者デカルトの厳しい戒めである。
 私は、戸田先生の膝下で、来る日も来る日も、徹底的に御書を学んだ。
 なかでも「生死一大事血脈抄」の「臨終只今にあり」との一節について、先生の甚深のご指導は、生命に焼き付いて離れない。
 「臨終只今」とは、第一に、「自分はいつ死んでも、成仏するに決まっているという信心をしなさいということである」と、先生は深き心境で語られた。
 「信心の目的は一生成仏である。それは、一瞬一瞬の一念に、何を思ったか、行動したか、行動しなかったか──その積み重ねの差で、成仏・不成仏が決まっていくのだ。
 信心は形式ではない。一瞬一瞬を、大事に生き切っていくのである」
 さらに、先生は厳しくいわれた。
 「『臨終只今にあり』とは、『仏の臨終只今にあり』と拝するのだ。
 仏は、いつまでも生きておられるとは限らない。だから今、仏にお目にかかれなくなっても、悔いのない、真剣な求道が大事なのだ。
 『臨終只今』という切実な求道の心を持ちなさい」
 「師匠の指導を、いつまでも聞けると思ったら、大間違いだぞ!」
 身震いする感動で、私は、師匠に一心不乱にお仕えし抜く名誉と責任を感じとった。
 ともあれ、今も私は、この師匠と生命で対話をしながら、広宣流布への「行学の大道」を歩み抜いているのである。
6  「不思議なもので、御書を拝すれば、他の一切のものがやすやすと読めるようになる。生活のことも、明確な判断ができるようになる。
 ゆえに、人生には行き詰まりはないのだ」と、戸田先生は確信を持たれていた。
 全く恩師の言われた通りである。仏法は、人生の絶対勝利の法理である。宿命転換、変毒為薬の宗教である。人間革命の希望の哲学である。
 これは、幾多の大難を勝ち越えてきた、"信心六十年"の直弟子の私の結論だ。
 スイスの哲学者ヒルティは言った。
 「人類の永続的思想のたからに属するすべての実り多き思想は、実に苦難から生れ出でたのである」(『ヒルティ著作集』10、高橋三郎訳、白水社)と。

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