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日蓮大聖人・池田大作

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正義の東海道を讃う(上) 勝ちまくれ! 怒濤を起こせ

2007.7.17 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

前後
1  最初に、十六日午前に起こった「新潟県中越沖地震」で被災された、新潟・長野方面の皆様方に、心からお見舞い申し上げたい。
 私も、妻も、真剣に題目を送り、強靭なる変毒為薬を祈っている。また、九州地方など、台風四号の被災地域の皆様にも、お見舞い申し上げたい。ともあれ、日蓮仏法の立正安国の祈りを、一段と強く、また深く決意している。
2   東海道
    勝ちまくりたる
      偉大なる
    歴史と功徳は
      三世に薫らむ
 「太陽よ 万歳!
 闇よ 消え去れ!」(Полное собранiе еrо сочиненiй: Алексанлр Серrеевич Пушкин, Том1.2, Тип. В.В.Комарова)
 わが神奈川の友が、かつて文化祭で謳い上げてくれた、ロシアの民衆詩人プーシキンの叫びである。
 愛する神奈川の同志よ!
 信ずる静岡の同志よ!
 「立正安国」の太陽の光は、我らの東海道から一閻浮提を照らしゆくのだ。
 いかなる邪悪と嫉妬の闇も打ち晴らして!
3  蓮祖大聖人の御一代の主戦場は、いずこであったか。
 それは、東海道の天地である。
 修羅闘諍の鎌倉時代──。
 本来、民を救うべき坊主は、貴族の都の繁華に逃れて、安逸を貪っていた。都での分け前よりも多くを望んだ坊主は、幕府におもねり、鎌倉の大伽藍に庇護を求めた。
 ただ己の我欲と保身のみであった。爛れた虚栄の軟風に侵された「京なめり」の腐敗と堕落でさえ、大聖人は痛烈に破折なされた。
 不幸に喘ぐ民衆を救わずして、何が宗教だ!
 苦悩の渦巻く社会の現実を変えずして、何が仏法だ!
 法華経の魂は、腐りきった坊主の魔窟になど絶対にない。断じてない。
 アメけカの人権の闘士キング博士は、人間の魂を脅かす社会悪に挑もうとしない宗教は「精神的に死にかかった宗教」(『自由への大いなる歩み』雪山慶正訳、岩波新書)であると、厳しくも断定している。
 仏法の真髄とは何か。
 民衆のなかへ飛び込むことだ!
 人間のなかへ、社会のなかへ飛び込み、現実変革の怒濤を起こしゆくことだ!
 この日蓮仏法の究極の実践者こそ、創価学会である。
4  蓮祖の御在世。「相模の国」には、鎌倉幕府の本営があった。現在の神奈川県である。
 そしてまた「伊豆、駿河の国」には、かの執権・北条得宗家の本領があった。今の静岡県の東・中部にあたる。
 いずれも幕府権力の勢威の比類なき地盤である。
 その真っ只中で、文応元年(一二六〇年)。月は七月。蓮祖は「立正安国論」をもって、時の最高権力者たる北条時頼を、烈々と諌暁なされたのである。
 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり
 民のため、国のため、未来のため、一切衆生のための熱誠の師子吼であられた。
 蓮祖の畢生の大宣言は、東海道で放たれたのだ。そして、それゆえに襲い来る大迫害と、ここ東海道で戦い抜かれた。
 「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり
 その「四度」の大難の三つが、東海道の地でうねり起こった。
 文応元年(一二六〇年)の「松葉ケ谷の法難」
 弘長元年(一二六一年)の「伊豆への流罪」
 そして文永八年(一二七一年)、佐渡流罪へと続く「竜の口の大法難」──
 「日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、娑婆世界の中には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか
 大聖人の正統なるがゆえに、創価の三代の師弟もまた、ここ東海道を広宣流布の主戦場として、「死身弘法」の大闘争を断固と繰り広げてきた!
5  戦時下の一九四二年(昭和十七年)の一月、牧口常三郎先生は、鶴見支部の座談会へ足を運ばれ、三月は下田へ折伏に向かわれた。
 信教の自由が奪われ、軍靴に踏みにじられるなか、先師は敢然と叫ばれたのだ。
 「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである」
 翌四三年(同十八年)も年頭から、湯河原、下田、修善寺、沼津、富士宮へと転教された。
 六月には、軍国日本に迎合する卑怯にして愚劣な宗門を烈々と叱責なされた。
 「今こそ国家諌暁の秋ではないか。何を恐れるのか!」
 「不惜身命」──広宣流布の真正なる法脈は、崇高なる創価学会にのみ厳然と流れ通ってきたのだ。
 特高刑事が執拗に尾行を繰り返すなか、牧口先生は師子王の如く、弘教を断行なされた。
 下田の須崎で、不当に検挙されたのは、この年の七月六日の朝である。
 思えば創価の創始者・牧口先生は、蓮祖の佐渡流罪より、満六百年にして、宿縁の新潟で誕生された。そして、蓮祖の最初の流罪の地、伊豆で逢難なされたのだ。
6  戦後の学会の再建に一人立ち上がられた第二代・戸田城聖先生は、横浜の地を、最重要の拠点の一つとして、座談会運動の大旋風を巻き起こされた。
 「聖教新聞」の歴史的な創刊号に躍ったのも「聖火鶴見に炎上」の大見出しであった。
 この原点の天地・東海道が、常に広宣流布の生命線である「聖教新聞」の拡大を牽引してくれていることは、嬉しい限りだ。
 戸田先生は、私を伴われて、幾度、静岡へ通われたことか。
 思い出多き湘南電車のなか、御書を開かれ、窓の外を見つめられつつ、悠然と語られた。「あの太平洋のような境涯で、御聖訓を拝していくことだ」
7   ああ創価
    ああ神奈川の
      新天地
    青春時代の
      広宣嬉しく
 東海道は、わが青春の闘争の大舞台である。
 一九四九年(昭和二十四年)の秋十月──鶴見の折伏座談会。
 私は詰め襟の学生服姿だった。その座には、五人の新来の友人がいた。
 入信二年余の私は、誠意を込めて妙法の偉大さを語り、師匠の偉大さを訴えた。その場で、五人とも入会を決意された。
 五二年(同二十七年)──あの蒲田支部の二月闘争。大田区に隣接する川崎は、知られざる、もう一つの決戦場だった。
 大田から川崎へ、多摩川のガス橋を全力で走った。神奈川の同志が待っている。一刻も早く馳せ参じたかった。
 蒲田支部幹事として、男子第一部隊長として、文京支部長代理として、私は師の特命を受けて東海道を奔走した。
 「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
 東海道には、この「今生人界の思出」が尽きない。
 この世の使命を果たしゆくための人生である。
 一瞬一瞬、わが生命を激しく燃え上がらせ、断固、勝ち抜くのだ。
 敗北は悔恨、勝利は大歓喜の舞を生む。
 喜春時代に読んだベルグソンの言葉に、こうあった。
 「あらゆる大歓喜には勝鬨の響がある」(『精神力』小林市郎訳、第一書房)──

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