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日蓮大聖人・池田大作

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桜花の「4.2」に恩師を思う(下) 我は戦う! 永遠に師と共に

2007.4.6 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

前後
1   師弟不二
    三世に薫る
      桜花
 それは、さながら光輝く「桜の城」であった──。
 春爛漫の八王子。花また花の丹木の丘の上に、わが創価の学舎はそびえ立っている。
 今年も、日本全国はもとより、世界中から、多くの若き英才たちが勇み集ってくれた。
 これこそ、牧口常三郎先生と戸田城聖先生が夢に描かれた「創価教育の大城」である。
 創価大学、そして創価女子短期大学の入学式が行われた四月二日。はるばる、ご来学くださったブラジル哲学アカデミーのモデルノ総裁より、私は「名誉博士号」を拝受した。
 五十回目の「4・2」──深遠な哲学者であられた師・戸田先生に、私は、この栄誉を捧げることができたのである。
2  「お前が、わたしの葬式をするのだ」──ご生前、先生から託された厳命である。
 私は、葬儀会場の決定をはじめ、一切の運営の責任を担った。
 一九五八年(昭和三十三年)の四月八日。薄曇りのこの日は、戸田先生の告別式の日であった。
 恩師の遺言に従って、ご遺体を七日間お護りしての葬儀となったのである。
 先生をお乗せした車は、ご自宅を出発した。
 青山墓地の桜並木の通りは、満開となっていた。
 その落花芬々の雪の如く舞いゆく桜の花に包まれて、広宣流布の師であられる王者の荘厳なる葬列が進んだ。
3   辛くとも
    嘆くな友よ
      歌いたる
    恩師の心を
      いだきて いざ征け
 桜の木々が葉桜に変わっていた、その四月二十日──。
 青山葬儀所で、厳粛に、そして盛大に学会葬が執り行われた。全国から、多くの多くの先生の弟子が集った。
 各界からも、多数の参列者が見えた。「3・16」に来られなかった岸信介首相も、文部大臣らと焼香に訪れてくださった。後に私は、岸首相のご自宅へご挨拶に行った。
 その折、首相は、「あなたのことは、戸田会長から、生前、とく伺っております。次の会長は、あなたであることも伺っておりました」と旧知の如く言われた。
 師の打ってくださった一つ一つの布石は、なんとありがたいことであろうか。
 大聖人は「悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」と仰せであられる。
 師の薫陶を受けた多くの弟子たちの報恩感謝の題目が、無量無数に先生を包んだ。
 私の胸は、師の志を継いで、新たなる千万の力を出す勢いで、追善の法要をさせていただいた。涙よりも、未来の広宣流布の壮大なる光が走っていた。
 「弟子が偉くなることが、師匠を偉くすることだ」
 これは、ある有名な哲学者の言葉である。すばらしき師匠を持った弟子は、すばらしき弟子を持ったことを自負する師匠と、生命の奥底で冥合していたにちがいない。
4  戸田先生は、よく青年を励ましてくださった。
 「全世界にあって、いかなる指導者も、成功者も、みな、悪口を言われ、叩かれてきたのだ。言うに言われぬ苦しみを味わいながら、それを乗り越えていった。その人こそが真の勝利者である」
 戸田先生の死を契機に、世間では「必ず学会は空中分解する」など、多くの悪口罵詈や誹謗中傷が吹き荒れた。
 当然のことである。一つも驚かなかった。
5  古代ギリシャの大詩人ピンダロスは憤激した。
 「公正さを背く愚かな者どもが、/無駄口を弄しては、優れた人々のいさおし(=功労)を/覆い隠そうとする」(『祝勝歌集/断片選』内田次信訳、京都大学学術出版会)
 偉大な人物を見抜けぬ、愚かな人間の心は浅ましいものだ。
 チェコの哲人指導者マサリクが喝破した通り、常に嘘は「暴力者の武器」(カレル・チャペック『マサリクとの対話』石川達夫訳、成文社)
 だから、こそ、邪義と虚偽の言論の暴力を、はるかに圧倒しゆく「正義」と「真実」の大音声をあげねばならぬ。
 章安大師の説く「声仏事を為す」の真髄とは、このことなのである。
 アメリカの人権の指導者キング博士は達観していた。
 「すべての偏見は邪悪なものである」(『黒人の進む道』猿谷要訳、サイマル出版会)と。
 現実の人間と社会を離れて、真の宗教があるわけがない。
 トインビー博士も明快に、「宗教は、個人活動であると同時に、社会活動です」(『二十一世紀への対話』。本全集第3巻収録)と論じておられた。
 人間を善くし、社会を善くし、「幸福」と「平和」を創りゆく力のない宗教であれば、それは観念論である。真実の宗教ではない。
 私が尊敬する、核兵器廃絶を目指す科学者の連帯「パグウォシュ会議」の会長であるスワミナサン博士の言葉を、綴っておきたい。
 「もし生命の真実を知りたいと願うならば、宗教を理解し、宗教の説く原理を求めていく必要があります。宗教は、生命とは何か、人間とは何かについて、多くの洞察をもたらしてくれるからです」
 この博士の論調を読んだ、若き科学者は語っていた。「まったく、その通りだ。信仰もしない、われわれ若造が偉そうなことを言ってきたが、まったく恥ずかしくなった」
 ともあれ、戸田先生亡き後、我らの五月三日を目前にして、私は一人、誓いも深く、日記に記した。
 「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。……本門の青春に入る」(『若き日の日記』下。本全集第37巻収録)
 私は生まれ変わって、師子の如く、全国を走りに走った。戦い続けた。阿修羅の如く、勝利の王者となって、奮い立った。
 マハトマ・ガンジーは、「逆境を乗り越えることは人間の特権である」(The Collected Works of Mahatma Gandhi, vol.85, Publications Division, Ministry of Information and Broadcasting, Goverment of India)と結論している。
 私は、いつ倒れるかもしれないほど、ありとあらゆる三障四魔と戦い抜いた。三類の強敵と戦い切った。
 「大誓願を以て 獅子吼したまう(以大誓願 而獅子吼)」(法華経389ページ)との法華経の経文を胸に、師の正義を叫び抜いた。
 「広宣流布の指導者は、『スピード』をモットーとせよ!」とは、師の遺訓である。
 先生の逝去後、私は百日の間に、関西を起点に、ほぼ全方面の同志を激励した。
6  ガンジーの直系の著名なラダクリシュナン博士は断言された。
 「真の師匠に『死』というものはありません。師の魂を受け継いだ、真正の弟子の行動の中に生き続けるからです」
 彼は、私の最も親しい友人の一人である。二年越しの対談の連載も、有意義に終えることができた。
7  大聖人の御聖訓にいわく、
 「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・めざれば得道ありがたし」と。
 つまり、法華経の敵と戦わなければ、真実の仏にはなれない。成仏できない。法華経の行者ではない。
 いくら御書を読み、経を唱え、格好だけ立派そうに信心をしても、そこには全く法華経の精神は通じていないのだ。
 法華経の敵と戦うことだ。この一点が仏法の真髄である。大聖人の御精神の究極であり、我ら学会の根本である。
 それを知らぬ大聖人の弟子は違背した。
 それを知らぬ牧口先生の弟子も、退転していった。
 戸田先生の弟子もまた、同じ方程式であった。
 私は、この一点を最重要視して、心に留めてきた。
 毎年、めぐり来る四月の二日は、私たちにとって、一段と厳しく、勝利への闘争を誓い合う日となっている。
 かの高杉晋作は、二十五歳の時に、師である吉田松陰の墓前で決意の詩を残した。
 「自らず 未だ能く舊寃きうえんそそぐ能わざるを」(堀哲三郎編『高杉晋作全集』下、新人物往来社)
 ──師の仇を討たぬ限り、弟子としての本懐を遂げることはできない。
 この姿が弟子の道である。この決意でなければ、真の弟子とはいえないのだ。
8  一九六四年(昭和三十九年)の七回忌には、師の遺言である広布三百万世帯を遥かに超える拡大をもって、私は恩師に報告申し上げた。嬉しかった。本当に満足した。
 そして私は新しい実行を始める用意をした。
 それは、小説『人間革命』の連載である。戸田先生を中心として、世界平和、広宣流布、人類の未来を決する哲学論、宗教論を展開する原稿の執筆である。
 その年の十二月の二日から、私は断固たる決意をもって、この『人間革命』の原稿を沖縄の地で書き始めた。
 沖縄の方々の悲惨なる戦争の苦悩と涙と口惜しさを身に深く感じながら、私は全精魂を打ち込んで綴った。
 「戦争ほど、
  残酷なものはない。
  戦争ほど、
  悲惨なものはない」(本全集第144巻収録)
 広宣流布への私の壮大な指揮は、恩師・戸田先生の心から造る指揮と同一していることを確信していた。
 まず「教育革命」を成しゆく創価学園の建設であった。その創立の日を、私は初代・牧口先生の殉教の日「11・18」とした。さらに創価大学の開学を、牧口先生の生誕百周年の年として、その開学の日は、二代・戸田先生の祥月命日である「4・2」と定めた。
 これが、師弟の心である。これが、三代の心であった。
 一九七四年(昭和四十九年)、アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に招聘をいただいた私は、日本が四月二日の朝を迎えた時刻に、記念講演の第一声を発した。
 「戸田大学」の講義の折々に、先生は語られた。
 「勉強だよ。勉強だ。妙法の智慧者とならなければ、今後の大使命は果たせない。
 社会万般のことは無論だが、全世界の運命のなかに、自分というものを置いて、そこからすべての発想をすることが、必要な時になっている」
 「戸田大学」の卒業生として、世界的な名門学府や学術機関で行った講演は、ハーバード大学、モスクワ大学、北京大学、ボローニャ大学等々、三十二回を数える。
 すべて、ちっぽけな島国根性の日本で迫害されてきた、偉大なる師の思想を、広々と全世界に宣言し、流通しゆく知性の戦であった。
 フランスの作家サン=テグジュペリの言葉を、私は思い出す。
 「きみという人間はきみの行為自体のなかに宿っている。きみの行為こそきみなのだ。もうそれ以外のところにきみはない!」(『戦う操縦士』山崎庸一郎訳、『サン=テグジュベリ・コレクション』4所収、みすず書房)
9   勇み立て
    広宣流布の
      法戦に
    勝利の歴史を
      大きく飾れや
 戸田先生は、先師・牧口先生の三回忌法要の折に、語られた。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。
 そのおかげで、『在在諸仏士・常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。
 なんたるしあわせでございましょうか」
 なんと崇高な、報恩感謝の深き心であられることか。
 ここにこそ、仏法の師弟の極意の姿がある。
 青年時代より、私は、この先生の厳然たる言葉を生命に刻みつけてきた。
 「在在いたるところの諸仏の土に常に師と供に生ず」(法華経317ページ)──法華経の化城喩品には、真実の仏法の師弟というものは、あらゆる仏国土にあって、いつも共に生まれ、いつも共に菩薩の実践をすると説かれている。その通りの創価の師弟である。
 私は、仏法の師弟に生き抜けば、永遠不滅の妙法に則り、永遠に常楽我浄の生命を謳歌することも確信した。そして永遠に、人間にとって最も尊厳なる尊き大使命を果たしゆく行動ができることを知った。
 ああ、師弟の道こそ、最尊無上なる自分自身の勝利への遣なのだ。
 戸田先生は、言われた。
 「私を知った人間は幸せだ。みな覚悟して、ついて来なさい!」
 十九歳で先生にお会いして六十年。先生が逝去されて五十年......。
 私は師匠・戸田先生と苦楽を共にし、師弟の大道に生き抜いてきた。徹し抜いてきた。悔いなく全うした。
10  戸田先生は、私たち夫婦の結婚のためにも、慈悲深く指導し、労をとってくださった。慈父の心は、あまりにも深かった。
 一九五一年(昭和二十六年)十二月には、まず、お一人で白木家へ赴かれた。妻は銀行へ勤めに出ていたため、同席はしておらず、白木の両親に話をしてくださった。
 その数日後には、私の実家の池田家へも、お一人でご来訪くださり、当然、結婚の話を父母にしてくださったのである。
 深い深い、弟子を思われる先生のご行動に、両家とも、それはそれは驚き、恐縮し、感謝申し上げた。
 さらに結婚式も、学会の伝統の一番大事な五月の三日に決めてくださったのである。
 私たち夫婦は、いかなる時も、胸中で先生と深く楽しく対話をしながら、猶多怨嫉の大難を乗り越えた。
 そして、卑劣極まる僧聖増上慢らと戦い、すべてを勝ち越えてきた。
11   大鵬は
    世界を巡りて
      恩師から
    誉れの弟子よと
      見つめむ嬉しさ
 この四月二日、大中国の「史学大師」として名高い章開沅しょうかいげん先生と再会を果たした。
 章先生は、『荘子』に記された「薪火相伝しんかそうでん(薪が自らを燃やすことによって火を伝えていくこと)」の原理を通して、語ってくださっている。
 「牧口先生から戸田先生へ、戸田先生から池田先生へと、三代の会長に平和の信念が厳然と受け継がれてきたことは、まさに『薪火相伝』と呼ぶにふさわしい壮挙であります。
 その偉大なる炎は、これからも、池田先生から若き後継の青年たちへと綿々と受け継がれていくことでしょう」
 正義の師弟に徹してきたからこそ、世界の良識は、創価を絶対に信頼してくださるのだ。
12   仏法は
    勝負のいくさ
      経文に
    説きたる通りの
      我らは道征く
 「この世から悲惨の二字をなくしたい」と、戸田先生は念願なされた。
 その通りに、私たちは、「一閻浮提広宣流布」という人類の平和と幸福の夜明けを勝ち開いていくのだ。
 ああ、私たちの「師弟誓願の原点」四月の二日よ!
 ああ、私たちの「師弟勝利の元旦」五月の三日よ!
 師と、運命を共に!
 師と、苦楽を共に!
 師と、目的を共に!
 そして永遠に
 師と、勝利を共に!
  天の時
    遂に来たれり
      勝ち抜けや
    広布の魂
      胸に燃やして

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