Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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世界の識者との対談の思い出 「今」の行動が未来を開く

2007.3.15 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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1  「私たちは未来を自らの手で闘いとることを決意したのだ」(『わが祖国への自伝』野間寛二郎訳、理論社)
 アフリカのガーナの独立を勝ち取った信念の指導者エンクルマ大統領の言葉である。
 新しい未来を開く力は、今の決意であり、勇気である。トインビー博士も言われた。
 人間の運命は「次に起こす行動によって、良くも悪くも変えることができる」(『二十一世紀への対話』。本全集第3巻収録)と。
 まったく、その通りだ。
 過去に囚われる必要はない。「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」である。
 大事なのは、「今から」「これから」、喜び勇んで、行動を起こしゆくことだ。
 「喜びは、人生の華だ。それは、すべての偉業の原点である。人生のすべては、喜びに帰結する」(Григорий СКОВОРОДА, ЖИЗНЕОПИСАНИЕ СОЧИНЕНИЯ, МОНОЛИТ-ЕВРОЛИНЦ-ТРАДИЦИЯ)とは、ウクライナの大哲学者スコボロダの達観であった。
2  それは、一九六九年(昭和44年)の秋。一通のエアメールが届いた。トインビー博士から「対談」を要請する書簡であった。
 「現在、人類が直面している諸問題に関して、二人で有意義に意見交換できれば幸いです」「私たちの対話が実現すれば、英日両国のみならず、人類全体の未来に、きっと恩恵をもたらすものとなるでしょう」
 そして博士は、「麗らかな春を迎える五月」に、ロンドンで語り合いたいと招待してくださったのである。
 この一九六九年を、博士は、ご自身の人生にとって"特別な一年"と考えておられたようだ。
 四月に満八十歳の誕生日を迎えられ、その日に『回想録』も出版されていた。
 この『回想録』のなかで、博士は、哲学者ラッセル卿の言葉を引かれている。
 「自分が死んでからあとで起こることについて強烈な関心を寄せることが非常に重要である」(『回想録』山口光朔・増田英夫訳、オックスフォード大学出版会)と。
 生きている限り、全人類の未来に思いを馳せ、次の世代の運命に関わりをもつことは、自らの責任である。そこにこそ、生涯にわたる若さの源泉もあるとされていた。
 特に「文明はそれ自体の力だけではなく、高等宗教の力に頼ることによって初めて救われる」(『歴史の研究』22、下島連・山口光朔訳、「歴史の研究」刊行会)と結論されていた博士にとって、宗教は最重要の課題であった。
 博士は語られている。
 「新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない」(前掲『二十一世紀への対談』)
 トインビー博士は、その未来を託す力を、私たちが実践する大乗仏教に見出されていたのである。
3  一九七二年の風薫る五月の五日。ロンドンは、新緑が輝く花盛りであった。
 招請から二年半、ついに約束を果たせる時がきた。
 ロンドンの中心部から、西へ車で二十分。私は、オークウッド・コートのトインビー博士の自宅を訪ねた。朝の十時半であったと記憶する。
 古いエレベーターで五階に上がると、白髪にして長身の博士が、玄関まで出て待っていてくださった。
 両手を大きく広げ、小躍りするように喜びを全身に表されていた。引き合うように手を握りしめた。傍らには、小柄なべロニカ夫人の気品ある笑顔が輝いていた。
 ご夫妻は、深い親愛の情を込めて、清楚なお宅を隅から隅まで案内してくださった。
 書斎には、ぎっしりと本が並んでいる。
 「もう背広は要りません。欲しいのは本だけです」と、博士は微笑まれた。
 暖炉の飾り棚には、博士の学友たちの写真が、十数点、大切に置かれていた。第一次世界大戦で、若くして戦死していった仲間である。
 ──戦争がもたらした母たちの悲嘆の涙は、絶対に忘れられない。だから、私は平和のために探究を続けてきたと、述懐される博士であった。
 壁には、清々しい風景画。
 応接間のソファに座ると、高揚した面持ちで言われた。
 「待っていましたよ!」
 窓から朝の光が注ぐ。小鳥の囀りも聞こえてくる。
 私は深謝し、申し上げた。
 「私はこれまで、仏法者として、『生命の尊厳とは何か』『人間とは何か』といった根源的なものを、常に探究してまいりました......」
 「イエス! イエス」
 博士は、驚くほど力強く応じられた。
 「まさに、私もその点を話したかったのです。長い間、この機会を待っていました。やりましょう! 二十一世紀のために語り継ぎましょう! 私はベストを尽くします!」
4  博士は、八十三歳。
 私は、四十四歳。
 しかし、人類の未来を見つめ、二十一世紀の平和を願う心は、あまりにも深く響き合った。
 この日、対談は昼食をはさみ、夕刻の六時半まで続いた。
 この日を第一回として、翌日の第二回は、午後四時から六時半まで。第三回の五月八日は、午後三時から七時まで。最終日の九日は午後三時から五時半まで、私たちの対話は尽きなかった。
 一段落すると、ベロニカ夫人が静かに茶菓を運んでこられ、私の妻もお手伝いする。
 日本の玉露を注いでくださる時もあった。
 「最初に日本に行った時、京都でお茶に出合いました」と懐かしまれる博士。
 「いつですか」と尋ねると、「一九二九年(昭和四年)」との答え。「私はまだ一歳でした」と応じると、明るい笑いが弾けた。
5  私は、このイギリス訪問の折、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学とを、相次いで公式訪問した。
 創価大学が開学したのは、この前年である。私は、世界の知性との対話と、大学交流を同時並行で進めていた。
 ベロニカ夫人はケンブリッジ大学で学んだ才媛であり、トインビー博士は、オックスフォード大学が誇る英才。
 お二人とも、「わが母校を訪問してくれて嬉しい!」と、それはそれは喜んでくださった。一生変わらぬ母校愛であった。
6  博士との対談は、私の帰国後も書面をもって継続されることになった。その進行を、博士は若い私に、全幅の信頼をもって託してくださった。
 当時の博士のご心境を留める貴重な書簡が、母校オックスフォード大学のボドリーアン図書館に保管されている。
 それは、一九七二年(昭和四十七年)の七月二十一日付。私と対談した二カ月後、ドイツの著名な学者に宛てた手紙である。
 「対談に際して、池田氏の質問は、広範囲で的確であり、そして刺激的でありました。その質問に答えることは、私にとって、興奮を覚える、有益なものでした」
 「私が回答として書いた原稿も、氏が自由に活用できるよう、全面的にお任せしました。このことからも、私の敬意の深さが、おわかりいただけるでしょう」
 「池田氏の人格は、力強く、ダイナミックです」「すでに氏は日本で名を残していますが、世界的にも名を残していくであろうと私は信じています」
 誠にありがたい慈父の眼差しであった。
7  博士から重ねて要請をいただき、翌一九七三年(昭和四十八年)、私は再びロンドンに飛んだ。この時の対話は、五月十五日から十九日まで連続五日間に及んだ。
 二年越し、約四十時間──。
 テーマは、「人生と社会」「政治と世界」「哲学と宗教」という三本の柱を軸として、地球文明の未来、国際情勢、恒久平和、生命論、環境問題、女性論、青年への期待、教育論など、多岐にわたった。
 まるで「大英図書館」が頭に入っているかのような、該博な博士の話は、通訳三人がかりでも追いつかない。
 厳正を期して、テープに収めた博士の発言を、宿舎に戻って翻訳し直してもらい、それをもとに、翌日、私からの答えや新たな質問を申し上げるようにもした。
 この労作業を全力で応援してくれたのは、英国の最優秀の同志たちである。
 それは、「忍耐、努力、そして絶え間ない真剣さによって、乗り越えられないものはない」(The Macmillan Book of Proverbs, Maxims, and Famous Phrases, Selected and Arranged by Burton Stevenson, Macmillan)という古代ローマの哲学者セネカの言葉の通りの姿であった。
 トインビー博士も、あらかじめ、びっしりと論点を書き込んだメモを準備されながら、対話に臨んでおられた。
 高齢を案じて、対談の開始時間を遅らせることを申し出ても、「ミスター池田との苦らいは楽しい」「予定通り進めましょう!」と言われる。
 「新たな、より優れた精神的基盤の上に、新たな、より満足すべき社会の建設を!」と繰り返し強調された。今こそ、断じて後世に語り遺さねばならないという執念にも似た熱意が強く伝わってきた。
8  「驕れば則ち緩怠なり」。中国の『管子』の一節である。驕り高ぶった者は、精神が緩み、怠惰になるというのだ。
 そうした驕りや怠惰は、博士には毛筋ほどもなかった。
 「一念三千論」「大我と小我」等、私が語る仏法哲理についても、「自分はこう理解したが、それでいいか」と、謙虚に真摯に確認しつつ、仏法の真髄に迫っていかれた。
9  「宗教は、宇宙の構図を示すとともに、人間の行動に指針を与える」(前掲『二十一世紀への対話』)──これが、博の宗教観の根底にあった。
 ゆえに、空理空論ではなく、現実の社会に対して、どう働きかけ、どう良い影響を及ぼし、どう変革していくのか。この一点を見極めておられた。
 なかんずく、博士は慨嘆されていた。
 「人間はこれまで、技術面にかけては驚くほど豊かな才能を示し、創意も発揮してきましたが、こと政治にかけては逆に、驚くほど能力も創意も示していません」(同前)と。
 それだけに、政治の改善には、民衆が確固たる哲学と高い道義性をもって政治に積極的に参加し、より良く変えていく行動が不可欠であると、私たちは語り合った。
10  ご夫妻とは、幾たびとなく、街に出て食事も共にした。
 伝統を誇る「アセニアム・クラブ」に案内された時には、紳士専用の部屋に、博士と二人きりで入り、身振り手振りの会話となったことも思い出深い。
 花と緑のホーランド公園も、ご一緒に散策した。
 そうした心通う交友の劇の一部始終を、微笑みながら見守っていたのが、妻である。
 一九七三年(昭和四十八年)の五月十九日、博士との対話を終える時がきた。別れ際、博士は、私の手を握りしめて言われた。
 「私は、対話こそが、世界の諸文明、諸民族、諸宗教の融和に、極めて大きな役割を果たすものと思います。
 人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください。ロシア人とも、アメリカ人とも、中国人とも......」
 そして後ほど、私に、ローマクラブの創立者ペッチェイ博士など、友人の名前を記したメモを託され、会うことを勧めてくださったのである。
 ″話の渦を全世界ヘ!″──私は、東西冷戦の転換を願われていた博士の遺言と受け止めた。
 「人類の平和のためには、具体的な提案をし、その実現に向けて、自ら先頭に立って行動せよ」とは、私の師である戸田城聖先生の遺訓でもあった。
 私は、博士と約束した通り、翌一九七四年から七五年にかけて、アメリカにも、中国にも、ソ連にも、平和友好の″対話の渦″を起こしていった。
 中国を初訪問する直前には、わざわざ博士が喜びの声を寄せてくださった。
 「日本の国のためにも、また中国のためにも、いな、全世界の人びとのためにも、大きな意味をもっている」
 さらに相前後して、私は、ペッチェイ博士、フランスの行動する作家マルロー氏、美術史家ユイグ氏らと対話をスタートさせ、対談集を残していったのである。
11  トインビー博士が、″歴史と文明と人間の研究″に捧げた八十六年の崇高な生涯を閉じられたのは、一九七五年(昭和五十年)十月のことである。
 その五カ月前、病床にあった博士の元へ、私たちの対談集『二十一世紀への対話』の特装本をお届けすることができた。英語版『CHOOSE LIFE』(生への選択)がイギリスで刊行されたのは、翌七六年(同五十一年)である。
 それは、まさに博士が人類に残された形見となった。
 以来、この英語版、また日本語版を原典として、「トインビー対談」は世界の諸言語に翻訳され、近年発刊のセルビア語版、ラオス語版まで、二十六言語で出版されるに至った。
 インドのナラヤナン大統領も、チリのエイルウイン大統領も、大統領府にお招きいただいた折に、笑顔で「対談集を読みました」と語られた。
 インドネシアのワヒド前大統領は、東京牧口記念会館にお迎えした際、「実は二十年前に対談集を読み、会える日を夢見てきました」と、それはそれは喜んでくださった。
 トルコのデミレル首相は、お会いした時、発刊されたばかりのトルコ語版を「既に読了しました」と、満足そうに話しておられた。
 モスクワ大学のサドーブニチィ総長は、トインビー対談は既に不朽の「古典」に位置づけられるのではと評価してくださっている。中国の大学の若い学長の方々には、学生時代に皆で学び合っていたという方も少なくない。
 東洋のダ・ビンチと讃えられる饒宗頤じょうそうい先生は、「トインビー対談は改革開放まもない中国の学術界に、確かに大きな啓発的役割を果たした」と証言してくださっている。
 光栄にも、世界の大学から、名誉学術称号を拝受する折、推挙の辞などで、この対談に論及されることも多い。
 そのつど、私の胸には尽きせぬ感謝とともに、博士の声が蘇る。
 「トインビー大学の最優等生であるあなたは、必ず将来、私以上に世界中から名誉称号を贈られるでしょう」
 二百を超す知性の宝冠を、私は、博士とご一緒と思って、お受けしてきた。
12  「哲学は、人々の心に真実を見抜く特権を与えてくれます」(Helen Keller, Optimism: An Essay, The Floating Press)とは、米国の社会福祉事業家ヘレン・ケラーの言だ。
 トインビー博士も透徹した慧眼で、歴史の底流を大観しておられた。
 博士との対話の最終日、たまたまテレビが、ある国の首脳会談のニュースを報じていた。
 すると博士は、毅然と──
 「政治家同士の対談に比べ、私たちの対談は地味かもしれません。しかし、私たちの語らいは、後世の人類のためのものです。このような対話こそが、永遠の平和の道をつくるのです」と言い切られた。
13  この五月で、博士との最初の語らいから、三十五周年。
 最初は小道でも、歩み通していくなかで、豁然と視界が開け、四方八方へ大きく道が広がる時が来る。
 思えば、私と世界の識者との対談集の第一号は、″欧州統合の父″クーデンホーフ・カレルギ一伯爵との『文明・西と東』(本全集第102巻収録)である。
 その発刊日は、一九七二年五月四日。不思議にも、私がトインビー博士と対談を開始する前日であった。
 対話の一歩、また一歩が、次の対話を生み、今や五十点を超える対談集、千六百回を超える平和と文化の「対話の大道」へと広がって、地球を結び始めたのである。
 トインビー対談の中国語版には、大文豪の金庸きんよう先生から序文を寄せていただいた。
 金庸先生も、トインビー博士と私が鮮明に眺望した「新たな千年のビジョン」が、今まさに、創価の師弟の激闘によって実現への道を進んでいることを喜んでおられた。
 その原動力は、第一線の勇敢な友の地道な対話である。
 まさにオーストリアの作家ツバイクが、「もっとも無名の勇士たちはつねに素晴らしい!」(『人類の星の時間』片山敏彦訳、『ツヴァイク全集』5所収、みすず書房)と讃えた通りだ。
14  トインビー博士は、雄々しき勇者の魂光る英雄であられた。
 正義と邪悪が戦う時に、中立を装い傍観することは、結局、悪に味方することだと喝破されていた。
 ご自身も、いかなる圧迫や中傷にも怯まず、常に正義の信念を言明してこられた。
 だからこそ、難を受けながら戦い抜いてきた創価の三代への信頼は、絶対であった。
 博士は、古代ギリシャの哲人へラクレイトスの至言「戦いは万物を生む父親である」(『ヘラクレイトスの言葉』田中美知太郎訳、『世界人生論全集』1所収、筑摩書房)を、よく引かれた。
 そして、厳しい競り合いのなかでこそ、理想を実現する力が鍛えられ、真の価値が創造されると達見しておられたのである。
 トインビー博士とは、世界の文学も縦横に語り合った。
 博士も高く評価されていた、ロシアの大文豪ツルゲーネフは高らかに謳った。
 「新鮮な春の息吹きにつつまれて、胸がどんなにのびのびと呼吸することだろう、手足がどんなに軽快に動くことだろう、全身にどんなに力がわいてくることだろう!」(『猟人日記』下、佐々木彰訳、岩波書店)
 人生は、行動した人が勝ちだ。対話した人が勝ちだ。
 「さあ、今日も、共に語りましょう! 人類のために! 未来のために!」
 あの日あの時、トインビー博士が青年のごとく言われた言葉である。

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