Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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勝ちまくれ! この一年 誠実一路 創価の旗を高く掲げて!

2007.1.24 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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1   寒風に
    笑顔で勝ちゆく
      梅の花
 年頭より、尊き母であられる我が婦人部の総会が、日本全国の、あの地この地で、明るく賑やかに開催された。
 「一華を見て春を推せよ」とは、御聖訓の一節である。
 一輪また一輪、わが同志が咲かせゆく対話の華花は、満開にならんと、清々しく「春遠からじ」の花風に吹かれてきた。
2  「私は、毎回の誕生日を、自分にとって『最初の誕生日』と思っております」とは、世界的な大経済学者ガルブレイス博士の有名な言葉である。
 八十二歳になる誕生日の直前(1990年10月5日)に、博士は、わが聖教新聞社にお見えになった。
 長い時間、有意義な語らいをした。そこには、「生まれ変わった息吹で新たな出発を!」との決意が漲っておられた。
 「人は年齢を重ねるほど、ますます学んでいくべきです」と語られていた、あの長身の博士の姿が、私には懐かしい。
 共に、深い友人となった。ハーバード大学の近くにある博士のご自宅にも、お招きいただいた。対談集も発刊した。
 多くの思い出が回顧される
 ともあれ、イタリアの桂冠詩人ベトラルカの言葉を思い出した。
 「(私は)偽りのない友情を最も切実に求め、その友情を絶対の信頼をもって暖めた」(E・H・ウィルキンス『ベトラルカの生涯』渡辺友市訳、東海大学出版会)
3   夫婦して
    真剣勝負の
      唱題に
    祈りは叶わん
      諸天は護らむ
 これは、ある年の元朝、妻と共に、大切な全同志の「健康長寿」と「栄光勝利」を深く祈念したあとに、詠んだ一首である。
 そして私たち夫婦は、初日の出を見つめた。光はあまりにも美しく輝いていた。人の心も、こうであらねばならないと深く思った。
 戸田先生、そして、あの友、この友の顔を思い浮かべつつ、「他人からうけた恩恵は絶対に忘れないことを率直に誇りとしている」(同前)と、ベトラルカの言葉を引きながら、語らいが終わった。
4  あの文豪であるゲーテが、「ここから見るライン川が一番美しい」と賞讃した、現在、世界遺産となっているライン河畔に立つ館がある。
 それが、私たちのドイツの広宣流布の中心拠点である、ビラ・ザクセン総合文化センターである。
 このセンターは、今年も多くの近隣の友人たちを交えて、楽しく新年をスタートした。
 私は、ゲーテの言葉が胸に残っている。
 「祈りは心の希望を新鮮にする」(『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』下、関泰祐訳、岩波書店)と。
 その通りだ。
 妙法運筆経の音律は、無限の「希望」と「蘇生」の源泉の法理であるからだ。
 ある時、ゲーテは、親友シラーが会話の席で見せた堂々たる姿を讃えて、語った。
 「(シラーは)何ものにもわずらわされず、何ものにも制約されず、あの思想の翼をひきおろすようなものは何一つない。彼の心の中に生きている偉大な見識は、遠慮会釈なくいつでも自由に口をついて出る」(エッカーマン『ゲーテとの対話』中、山下肇訳、岩波書店)と。
 そしてゲーテは、側にいた青年たちに強く促した。
 「これこそ本当の人間だったのだ、みんなもあのようにならなければだめだよ!」(同前)
 まったく、その通りだ。
 真実を叫び、正義に生き抜くのに、何の制約があるものか。何の遠慮がいるものか。
 私の師匠・戸田先生は、常に私たち青年に、厳然と、「勇気を持って、勇敢に戦え! 痛烈に叫べ!」と指導なされた。
 戸田先生の言葉は続いた。
 「人を引っ張っていくには、名誉欲と金欲を、かなぐり捨てることだ。
 これらを捨てた人間ほど、強く、いい意味で、手のつけられぬものはない」
 このありのままの生命を最大に光り輝かせていく力が、「無作三身」(御書七八四ページ他)の信仰である。ここに、学会の強さがある。
 いささかも気取らず、つくろわず、ただ誠実一路で広宣流布の信念を貫き適してきたからこそ、学会はあらゆる民衆を糾合し、痛快に勝ってきたのだ。
 「本門の時代」──それは汝自身の生命に具わる「如来秘密神通之力」という究極の「仏の力」を発揮する時代である。
 真の広宣流布の使命を持つ偉大なる「地涌の菩薩」の大陣列が立ち上がる時が来た。
 我ら創価の師弟が──共に永遠に連なる、深く尊き師弟が、いよいよ仏法の真髄の仏力・仏力を無限に、そして思う存分に出し切っていく時代が到来した。
 新しき太陽の仏法が昇ったのだ。
5  戸田先生は、青年たちのために詠まれた。
  荒海の
    鯱にも似たる
      若人の
    広布の集い
      頼もしくぞある
 空飛ぶものの王は「鷲」。
 地走るものの王は「獅子」。
 そして──
 海征くものの王は「鯱」である。
 泳ぐ速度は、イルカやサメよりも速いといわれ、生存を賭けた戦いに臨んでの仲間同士の連係も巧みである。
 むやみな攻撃はしないが、ひとたび狙った獲物は、絶対に、そして確実に倒す。
 先生は、この"海の大王"に譬えて、「破邪顕正」の広宣流布の先頭に立ちゆく青年部への、それはそれは全幅の信頼を放って、謳われたのだ。
 師匠が安心して弟子に戦いを任せてくださる。
 これほどの誇りはない。これほどの各誉はない。これほどの深遠なる人生はない。
6  それは、ちょうど五十年前の昭和三十二年の正月のことであった。
 七十五万世帯の達成という、戸田先生の生涯の願業を実現する、乾坤一擲の大勝負の出陣の年となった。
 この前の年には、創価学会は会員世帯数三十万から五十万へ、未曾有の大躍進を見事に達成していった。
 皆が喜んだ。皆が泣いた。若き弟子たちは、さらに燃え上がる情熱と、鋼鉄のごとき信念をもって、師の掲げられた目標に向かって、驀進を誓い合った。前進そして前進をし始めた。断じて勝ち抜く闘争を開始した。
 この「七十五万世帯」が土台となって、世界広宣流布の道が、大きく広々と開いていくことは、明確なる道理であることを知っていたからだ。
 ところが、人の心というものは、本当に浅はかなことがある。今の調子でいけば、もう易々と七十五万はできたのも同然であると、軽口を叩く傲慢な幹部が多くいた。
 油断は大敵であることを知らぬ、浅はかな、指導者の資格なき輩だ。
 そもそも、一九五六年(昭和三十一年)の大飛躍は、私が指揮を執った大阪支部が、五月に一万一千百十一世帯という折伏を成し遂げたことから勝ち取られていったのだ。そして大阪が、その夏に行われた参院選に勝利して、「"まさか"が実現」と大々的に新聞報道され、世間を驚嘆させた戦いが、皆に自信を与え、跳躍台となっていったのである。
 しかし、偉大なる我らの師・戸田城聖先生と私との不惜身命の師弟一体の決意と苦闘を深く知る幹部は、あまりにも少なかった。情けないことであった。
 いかなる悪戦苦闘があろうとも、わが尊敬し抜く師匠の大願をば、断じて虚妄にしてはならない──私の胸には、崇高にして強力なる熱誠が燃え盛っていた。
 わが師匠がお元気なうちに、必ず七十五万世帯達成の輝きわたる勝利のご報告を、との決意が滾っていた。
 私は、先頭に立った。一切の難を覚悟で、陣頭の指揮を執った。
 師匠のために! そして、わが愛する同志のために!
 その心の噴火の決意を胸」に、一九五七年(昭和三十二年)の年初から、師子の如く、私は全国を動き回った。
 一月十三日は、寒い北海道の夕張と札幌へ。十六日に帰京してから即座に、意気軒昂の男子部幹部会を開催した。
 広宣流布の火は燃え始めていた。
 広宣流布の光は輝き始めていた。
 さらに、一月十九日から、関商方面、中国方面へ、法戦の駒を進めた。
 山口県の開拓闘争の決着をつける五日間の指揮も、この時であった。
 岩国へ、徳山へ、防府へ、宇部へ、下関へと、走りに走った。
 全国から馳せ参じた同志も懸命に戦ってくれた。
 「二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや
 この有名な御聖訓を、題目とともに、ある時は車の中で、ある時は列車の中で、ある時は歩きながら、わが胸に確認して、奔走した。
 ともあれ、日本の歴史回天の天地といわれる山口県は、前年の九月までは、四百数十世帯の広宣流布の勢力とされていた。それが、この一月の末には、ほぼ十倍の四千七十三世帯への大発展を成し遂げていったことは、ご存じの通りである。
 平和の原点の大地、あの原爆被災の広島市へ、私が第一歩を印したのも、この五十年前(一九五七年)の一月二十六日であった。
7  この一年は、激戦また激戦の連続であった。夕張炭労事件、大阪事件の難も起こった。
 「強敵を伏して始て力士をしる
 私は、あらゆる難を自ら受け切り、戸田先生と創価学会を厳護し抜いて、永遠不滅の弟子の誉れを残しゆく決心の毎日であった。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「仏陀記して云く後の五百歳に法華経の行者有つて諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦礫・流罪死罪せられん等云云、日蓮無くば釈迦・多宝・十方の諸仏の未来記は当に大妄語なるべきなり
 たとえ「皆是真実」の法華経であっても、事実として、広宣流布のために大難と戦う行者が出なければ、嘘八百の虚妄になる。
 一切衆生を救われる師匠・釈尊も、三世十方の仏も"大嘘つき"になってしまうのだ。
 「一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」と御断言なされた通り、蓮祖があらゆる大難を一身に受けられ、死身弘法なされたからこそ、法華経は真実であると証明されたのだ。
8  現代において、悪口罵詈等の大難を受けながら、事実の上で如説修行し、広宣流布してきた行者は、仏意仏勅の創価学会しかない。また、初代、二代、三代の会長しかいない。
 一九五七年(昭和三十二年)の十二月、諸難を勝ち越えて、尊き祈りであり、深き決意であり、広宣流布の決定打となりゆく七十五万世帯を、厳然と実現することができた。
 太陽が輝いていた。
 月光が美しかった。
 わが同志の確信の響きは、歓喜の学会歌となって、日本中へ、やがて世界の国々まで轟き、歌い継がれていった。
 偉大なる広宣流布の大行進の学会にとって、あれから、本年で五十周年を迎えた。
 その発展ぶりは、諸天善神、十方の仏菩薩、いな日蓮大聖人までもが、最大にお誉めくださっていると確信する。
 学会の同志に、深く感謝の祈りを捧げゆく毎日である。
9  今や一段と、一閻浮提広宣流布の波動は、壮大な広がりを見せている。
 西洋文明の源流の地ギリシャでも、初のギリシャ語版『法華経』が出版された。鳩摩羅什による『法華経』の漢訳から、実に千六百年後の慶事である。
 さらに、バルカン半島のマケドニアでも、私の著作『生命を語る』のマケドニア語版が発刊された。
 両国とも、アレキサンダー大王に緑の深い天地である。そして、今、わがSGIの同志が地涌の使命に燃え、生き生きと社会貢献に活躍しておられる。
 四十五年前(一九六二年)の一月から二月にかけて、私は、ギリシャをはじめ、イラン、イラク、トルコ、エジプト、パキスタンを訪れた。
 奇しくも、どの国も、紀元前四世紀に、アレキサンダー大王が希望を胸に駆け巡った地域であった。
 大王は、自ら「危険にのぞんではぐずくずしない」(以下、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』上、〈大牟田章訳、岩波書店〉から引用・参照)と語っていた。
 要するに、やると決めたら逡巡などしなかった。
 危難に処するに勇猛であり、果断であった。
 スピードが勝負だ。
 さらに大王は、大軍を指揮する者として、人間の心の機微にも通じていた。
 史書は、有各なべルシャのダレイオス三世との「イッソスの会戦」を前に、大王が将兵を激励する名場面を伝えている。
 ──大王は、自ら馬を駆って陣列をくまなく回り、指揮官はもちろん、騎兵、歩兵の部隊長級の者、さらには勇猛で聞こえた精兵たちに、「それぞれにぴったりした美称を添えて名指しで呼びかけ」、そして、皆を「天晴れ戦場の勇者たれ」と鼓舞した、というのだ。
 大王が、ここまで自分たちをわかってくれるのかと、将兵の胸中は燃え立った。
 「もうこの上ぐずぐずしていないで、ただちに敵陣へ突撃しようと逸り立つ喚声が四方からわき起こった」
 まさに全軍総立ちとなり、一世一代の決戦に向かった。
 こうした天晴れな勇者たちと共に、大王は"世界の扉"を開いていったのである。
10  マケドニア語版の『生命を語る』には、駐フランス大使等を歴任されたヨルダン・プレブネス氏が序文を寄せてくださった。
 そこには「池田氏が著した『生命を語る』は、二十四世紀もの昔に、アレキサンダーが開いた"世界の扉"を通って、ここマケドニアヘ、もたらされた」と記されている。
 一人の人間の生命は、どれほど偉大な力を秘めていることか。その真の力を出す──この人間革命の大叙事詩を、尊き地涌の同志が、あの地でも、この地でも、総立ちになって綴ってくれている。
 さあ、「世界広宣流布」への大行進は開始された。末法万年への令法久住の尊き大法戦なのである。それは、平和への戦闘であり、幸福への戦闘である。
 「偉大なるわが同志よ、天晴れな広布の大勇者たちよ!」と戸田先生の叫ぶ声が、私には大きく聞こえてくる。正義の弓を引き絞って、言論の矢を放ちながら、勝利、そして勝利のために、勇敢に討って出ようではないか。
 「行動の迅速は大勝の秘訣である」(『信仰と未来』宮原晃一郎訳、杜翁全集刊行会)とは、イタリアの革命児マッツィーニの名言であった。
  勝ちまくれ
    ただ勝ちまくれ
      走りゆけ
    創価のためにと
      広布のためにと

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