Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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地涌の乱舞の関西城 歴史を変えた正義の大行進

2006.7.17 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1   時来たり
    地涌の乱舞の
      時来たる
    攻め征け勝ち征け
      常勝関西
 生命の極理を説き明かした法華経二十八品では、後半の本門の会座に入ると、地涌の菩薩が大地を破って、無量の光明を放ちながら登場する。
 御聖訓には、その劇的な姿が生き生きと表現されている。
 「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか
 すなわち、末法の広宣流布を誓願して、新しい人間の群像が、喜び勇んで舞いながら、悠然と涌き出でるのだ。
 尊極の使命と大願に生き抜く人生は、はつらつと躍動している。落胆などない。感傷もない。悲嘆もない。萎縮もない。
 御聖訓には仰せである。
 「一切の仏法も、また人によって弘まるのである」「持たれる法さえ第一ならば、持つ人もまた第一なのである。そうであれば、その人を毀るのは、その法を毀ることだ」(御書四六五ページ、通解)
 いかなる人生行路であれ、いかなる大難の連続であろうが、地涌の菩薩である我が学会の同志は、昂然と胸を張り、歓喜踊躍して、来る日も来る日も戦い進むのだ。
 これこそ、「常勝関西」の師弟の姿であり、まさに、その証明を成し遂げた姿であった。
2  あの永遠に忘れることのできない五十年前、一九五六年(昭和三十一年)の「大阪の戦い」は、日本中をあっと驚かせた、歓喜踊躍の大勝利の劇であった。
 「″まさか″が実現」等と、関西の大勝を、あらゆるメディアが驚き、感嘆した。
 今日でも、あの時、共に戦った同志を、私は讃嘆し、勤行の時に、感謝の思いで「いやまして功徳あらしめよ」と祈り、題目を送っている。
 当時、私が指揮を執る場所は、今にも倒れそうな旧・関西本部であった。多くの人が歩くと軍艦のように揺れてしまう、古い古い建物だ。皆は″軍艦会館″だという誇りをもっていた。
 その会館で、法戦の幕開けとなる、実質的な出陣式を行ったのは、まだ松の内の正月五日である。その集まりは″関西地区部長会″の意義をもつものであった。
 二十八歳の私は、不可能を可能にする勝利の要諦を語った。すなわち「法華経の兵法」である。
 その後、一緒に「黒田節」を舞い、同志に呼びかけた。
 「この度の戦いは、このように、舞を舞って戦うのです。楽しく前進しましょう。そして勝利の暁には、また『黒田節』を舞って祝おうではありませんか」
 皆の拍手が嬉しかった。
 まるで、もう勝ってしまったかの様相であった。
3  そもそも「黒田節」の歌は、安土桃山時代の大名・黒田家の勇将として名高い、母里太兵衛の逸話に由来する。
 「酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を」
 私は酒は飲めぬが、この「黒田節」の豪気さが好きだ。
 同じ戦うならば「日の本一」の戦いを!
 リーダーならば、それぐらいの気概で、全同志を鼓舞し、牽引しゆく実力を磨くのだ。
 私は″捨て身″で大阪中を駆けめぐりながら、同志を励まし、空前の大折伏を展開していった。日に十も二十も、分刻みに小さな会合を回った時もある。わずか数分しか立ち寄れない時もあった。
 皆様も真剣であった。
 ぴったりと呼吸が合う同志と同志の力強い連携であった。
 そして、誰人も忘れることのできない、この一九五六年(昭和三十一年)の五月、私たちは、大阪支部という一つの支部だけで、月間折伏「一万一千百十一世帯」の前代未聞の広布の拡大を達成したのであった。
 これまで頑張ってきた人はもちろんのこと、日々月々に、急増していく新入会の友も、さらに″眠れる獅子″だった人も、喜々として法戦に加わり、まさに歓喜踊躍、皆が総立ちになっての圧勝であった。
 「一」が五つ並んだ痛快な金字塔を通し、私は語った。
 「関西は、これから、何でも一番、一番、一番、一番、一番だ。その永遠の基本を今、つくったのです」
 「因果」は「倶時」である。一念に定めた通りに、わが大関西は、万人が認める「世界第一」の常勝の城となった。
4  ところで、「黒田節」に謳われる母里太兵衛の主君で、九州・福岡藩の藩祖となった人物が黒田官兵衛(孝高。法号は如水)である。彼は、関西の播磨の生まれだ。
 豊臣秀吉の軍師として活躍した、その知略と豪胆には、信長も、秀吉も、こぞって瞠目していた。この武勲赫々たる彼は、大変な苦労人でもあった。
 それは、天正六年(一五七八年)のことである。彼は、信長方から寝返った武将を説得しようと、居城に乗り込んだが、かえって捕らわれてしまった。そして、城内の牢に一年間拘束されるという辛酸をなめた。
 この獄中生活を大きい山場として描いた吉川英治氏の名作が、『黒田如水』である。
 この本に、戸田先生は格別の思いをもっておられた。
 発刊の時期も、戦時中の大難で、先生が巣鴨の東京拘置所に投獄されていた一九四三年(昭和十八年)の秋である。
 私にも、「必ず読んでおけ」と強く勧められた一書であった。
 一九五七年(昭和三十二年)の四月に行われた参院大阪地方区の補欠選挙で、学会は推薦候補を支援したが、選挙後に一部の会員が戸別訪問容疑で逮捕された。熱心さの余り、違反者が出てしまったのである。
 それが、「大阪事件」という、私への陰険極まる権力の弾圧の口実となったのだ。
 戸田先生は、この時、「牢獄の過酷さは入った者でないとわからないのだ」と言われ、会員への差し入れの品まで手配してくださった。そのなかに、この『黒田如水』の本があったのである。
5  牢獄に繋がれた黒田官兵衛(如水)の心を、吉川英治氏は見事に描いた。(以下、吉川英治『黒田如水』〈朝日新聞社〉から引用・参照)
 官兵衛が囚われて何カ月が過ぎたころか、獄中の高窓に、「藤の蔓」がからんできた。
 やがて、高窓にからむ藤蔓に、淡い紫の花が咲いた。
 獄窓に咲いた藤の花――。
 これを、官兵衛は、「待てば咲くぞ」という希望の啓示ととらえた。″生きて生きて生き抜いて時を待つ″と、勇気を得たのである。
 そして、投獄一年にして、ついに忠義な家臣によって救出されるのだ。
 後年、彼は、家紋を「橘」から「藤巴」に改めている。
 その理由を豊臣秀吉から聞かれた官兵衛は、初めて牢獄の辛苦を述懐した。
 「あのころ、日々、仰ぎ見ては、心に銘じた獄窓の藤花こそ、申さば官兵衛の生涯の師であり、家の吉祥でもありますので」
 ――この本を手にした同志は、恩師のあまりにも深い心に触れ、奮い立ったのだ。
6  そして、七月三日。
 当局が狙った筋書き通り、一切の責任者として、私は不当に逮捕されたのである。
 以来、獄中に戦うこと二週間――。
 大阪拘置所の前に立って、悔し涙を流した青年がいた。
 「自分が代わりたい」と、泣きながら題目を唱えてくれた婦人がいた。
 ああ、皆、獄中の私と共に苦しみ、共に祈り、共に戦ってくれていたのだ。
 一九五七年(年昭和三十二年)の七月十七日、昼零時十分、私は、無実の罪で囚われていた大阪拘置所から出所した。
 数百人の友が、出迎えてくださった。
 私の無事を喜んで、万歳を叫ぶ同志の声もあった。
 国家権力の横暴を怒る、庶民の正義の声もあった。
 あの汗と涙に光った真の同志の顔を、私は、どうして忘れることができようか。
 御聖訓には「弟子と師匠とが、心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなもので叶うわけがない」(御書一一五一一ページ、通解)と仰せである。
 創価の師弟は、心を同じくした祈りであり、戦いであるがゆえに、万事を叶えるのだ。
 この日、大阪入りなされた師・戸田城聖先生のご心中は、海よりも深かった。
 先生は、もし私が釈放にならなければ、ご自身が先頭に立って、抗議の大行進を行う覚悟でおられたのである。
 師匠の大慈悲に、私は涙した。
 夕刻六時から、中之島の中央公会堂での大阪大会には、全関西から、また首都圏から、大中部から、さらには中国、四国から、そして遠く九州からも、勇んで同志が駆けつけてくださった。
 私の胸から、その同志の熱意は、今もって、いな一生涯、消えることはない。師は有り難い。しかし同志は、さらに有り難いものだ。
 皆、急遽の連絡に応えて、即座に行動を起こされた。
 交通費の工面も、さぞかし大変であったであろう。
 この日は水曜日で、平日であった。仕事のやりくりにも、どれほど苦労があったことか。
 会場に入り切れない同志が一万数千人も、雷雨に打たれ、ずぶ濡れになりながら、特設のスピーカーから流れる声に耳を傾けてくれていた。
 この日、集った全同志のことは、私の心底に刻みつけ、未来永劫に忘れてはならないと深く深く決意している。
 尊き同志に、私は感謝を忘れない。
 その同志が、いな、その同志のご一家が、永遠に福徳に包まれた勝利の人生であることを、今でも祈っている。
 思えば――
 初代・牧口先生、二代・戸田先生が投獄された時、多くの弟子は権力を恐れて退転し、師を罵倒しながら裏切った。
 戦後、戸田先生の最大の苦境の時も、先生を罵りながら裏切った弟子が多くいた。
 だが、この「大阪事件」の折、関西の同志は、権力の魔性の法難を、いささかも恐れなかった。それどころか、獄中で師を護り、学会を護り抜いている私と同苦して、幾万の庶民が決然と立ち上がってくださったのだ。
 わが同志は、皆、師子であった。真正の師子であった。
 蓮祖は仰せになられた。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」と。
 その通りの師子の陣列を、大関西に築き上げることができたのだ。私は嬉しかった。私の魂は、大関西から永遠に消えることはない。
 「牢獄の恐怖が消えると、弾圧が人々を元気づけた」(『ガンジー自伝』蠟山芳郎訳、中央公論社)
 ガンジーの言葉は、誇り高き関西の同志の姿であった。
 それは、庶民の都・関西の大地に、国家権力に対侍して屈せぬ、新しき人間群の誕生を告げる夜明けでもあった。
 そして、また、わが創価学会が″三代″にして、永遠に「三類の強敵」に打ち勝つ、常勝の基盤を確立した瞬間でもあった。
 なお、この「大阪事件」は、四年半の法廷闘争を経て、私の無罪が厳然と証明されたことは、ご存じの通りである。
 今、私が対談を重ねている南米アルゼンチンの人権の闘士・エスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)は語っておられた。
 「創価学会の歴代会長は、不正義と戦いました。ゆえに迫害され、牢に入りました。
 しかしながら、自らを犠牲にすることによって、未来の希望を育みました。
 創価学会は、今なお闘い続けております。闘いはまだ終わっておりません。
 いな、闘いとは、永遠に持続されてゆくべきものであります」
7  常勝の
  大関西の
    記念日を
  師弟不二して
      祝う喜び
 「大阪の戦い」から、十周年にあたる一九六六年(昭和四十一年)九月十八日、わが関西の同志は、あの「雨の関西文化祭」を甲子園球場で開催した。
 まさしく、永遠不滅の壮大なる民衆の絵巻となった。
 中国の周恩来総理と私の会見の折、名通訳をしてくださった林麗韞りんれいうんさんも、当時、この「雨の文化祭」の記録フィルムを見て、大きな感動を受けたと語っておられた。
 すなわち、既に一九六〇年代の初頭から創価学会の躍進に注目されていた周総理から言われて、調査を進めるなかで、この関西の文化祭の映像を目の当たりにした。
 「若人が泥んこになって生き生きと演技している姿を見て、本当に素晴らしいと思ったのです。と同時に、創価学会が大衆を基盤とした団体であることを実感しました。中日友好への大切な団体であると深く認識したのです」(「聖教新聞」一九九七年五月二十四日付)
 また「大阪の戦い」から二十周年の一九七六年(昭和五十一年)には、五月三日の「創価の元朝」を関西で盛大に祝った。
 「五月五日」を「創価学会後継者の日」に定めたのも、この時、関西の地であった。その不思議な意義を汲んで、関西では、いずこの地にもまして、「未来部育成」に全力を注いでくださっている。
 三十周年もまた、私は関西で「五月三日」を迎えた。四十周年の一九九六年(平成八年)は、私の関西の訪問、二百五十回目の忘れ得ぬ黄金の歴史を刻印した。
 その翌年(平成九年)、関西広布四十五周年は、大阪ドーム(当時)で世界青年平和文化祭が盛大に開催されている。ゴルバチョフ元ソ連大統領ご夫妻らも、わが愛する関西の青年たちの乱舞に大喝采を贈った。
 この折、ご夫妻は、関西創価学園にもおいでくださった。忘れることはできない。
 ともあれ、「常勝」こそ「師弟不二」の結実である。
 次の十年、さらに新しき五十年もまた、関西は勝ちまくってくれるであろう。
 世界の全同志の「勝利の太陽」として!
8  負けること
   知らぬ同志の
    関西は
  スクラム堂々
   諸天も誉めなむ
 いかなる卑劣な陰謀や謀略を企て、陥れようとする輩が出ても、常勝関西の同志が厳然といてくだされば、何も恐れることはないと、私は今日も戦い抜いてきた。勝ち抜いてきた。
 この五月、わが信ずる関西青年部は、新たな歴史を画する総会を、意気軒昂に開催した。
 素晴らしいのは、座談会を「地区青年部総会」として、「全地区をあげて行う」という発想であった。
 全員が主役であり、人材である。全員が常勝後継の旭日である。
 大阪、京都、滋賀、福井、兵庫、奈良、和歌山――関西のあの町でも、この町でも、若き力が総決起した。
 この男女青年の総立ちを、常勝の母たちも、父たちも、心から讃え、不滅の関西魂を伝えようと真剣である。
 あらゆる世代を結ぶ、強固な異体同心の姿が、人間の都・関西の強さだ。
9  もう二十年以上も前、関西創価学園の健康祭の折である。
 マラソンの競技で、体調を崩して、皆から大きく遅れてしまった中学生がいた。
 それでも、諦めずに走り続けた。
 全校生徒の大声援のなか、ついに完走した彼を、私は抱きかかえるようにして出迎えた。そして、私の白薔薇の胸章を、その胸につけて健闘を讃えた。
 その学園生が、執念の負けじ魂を貫き通し、難関の司法試験に合格して、今や正義の弁護士として走り始めたことも、嬉しい限りだ。
 五十年前、私と共に戦ってくれた方々の″孫″の世代が、立派に成長してくれている。
 アメリカ創価大学でも、関西出身者が光り、「負けたらあかん」という常勝魂を、若き世界の指導者たちも深く共有し始めた。
 帝国主義や全体主義と戦った、二十世紀の英国の作家オーウェルは喝破した。
 「何事も静止することはないのだ。代々受け継いできたものをふやすか失うか、より大きくなるか小さくなるか、前進するか後退するか、しかない」(『ライオンと一角獣』小野協一訳、『オーウェン著作集』2所収、平凡社)
 そしてさらに、彼は「勝敗は一にかかってわれわれ自身の意志にある」と断言した。
 ゆえに、若き君たちよ、正義の戦いを起こせ!
 君が立つその場所に、完勝の旗を高々と打ち立ててくれ給え!
 新しい創価の黎明を、そして常勝の歴史を、つくり始めてくれ給え!
 英雄ナポレオンは戒めた。
 「正義がなければ分裂する」(Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, H.Cokburn/ M.Bossange)
 関西は、永遠に正義を掲げ、異体同心で前進するのだ。
 インドのネルー初代首相は宣言した。
 「目的が偉大であるが故に我々もまた偉大になりうる」
 広宣流布という最も偉大な目的に生き抜く我々は、最も偉大な人生を勝ち進むのだ。
  おお関西
   私の生命の
     ある限り
  関西同志を
      護る決意は

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