Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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女子部の躍進を喜ぶ 広布の希望の未来は開かれた!

2006.5.12 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

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1  「日々のよろこびこそ
 人の世では至上に貴い」(「オリュムピア祝捷歌集」久保正彰訳、『世界名詩集大成』1所収、平凡社)
 私は、この言葉が好きだった。
 古代ギリシャの詩人ピンダロスが、勝利者を讃えた時に詠んだ詩である。
 待ちに待った、二十一世紀の若き女子部の勝利と希望と栄光に輝く「創価女子会館」が完成した。
 そして、まさに、創価学会の元朝である五月の三日、歓びの無数の笑顔と拍手に包まれてオープンした。
 晴天であった。神々しいほど太陽の光がまぶしかった。
 不思議にも、女子部のシンボル「すずらん」が咲き始める季節に、希望にあふれる我が女子部の城が誕生したのである。
 すずらんは、英語で「メイ・ベルズ(五月の鈴)」とも呼ばれるが、「創価の五月」を祝うかのように、美しき希望の音色が高らかに響いていた。
 私も妻も、この晴れやかな会館開きを心から祝った。ここで活躍する広宣流布の大切な女子部員が、一人ももれなく幸福になることを祈り、深く決意した。
 妻は、瞳を光らせながら、若々しい笑顔で、「嬉しい、嬉しい」と、まるで女子部のように喜び祝っていた。
2  「誠実さと倫理性を持ち合わせ、身をもって模範を示すことによって周囲をリードしていく人、そして正邪の判断ができる人」――
 これは、女性初の香港行政長官、政務長官等を歴任された陳方安生(アンソン・チャン)さんが先日、創価大学での講演で指摘されたリーダー像である。
 六年前、私と妻が香港を訪問した折には、官邸で、母君の方召麐画伯とご一緒に迎えてくださった。生涯、忘れ得ぬ思い出である。
 今回、陳方さんは、二月に逝去された母君の書画、常に使われていた印鑑や筆など、大切な形見の御品をお持ちくださった。感謝に堪えない。
 また、"新時代の女性の生き方"を語られた、創大での講演も大反響であった。
 その際、"女性として失ってはならない特質は何でしょうか"等、学生の質問に丁寧に応じながら、最後に、強く訴えられたそうだ。
 「私たちには、自分自身に対する責任だけではなく、家族や周りの人びとに対して、広くは社会の人びとや恵まれない人びとに対して、責任があることを忘れないでいただきたいのです」
 重要なアドバイスである。
3  女子部の皆さんは、職場でも地域でも、また学校でも家庭でも、ここが青春の使命の舞台だと、朗らかに生き抜いている。
 悩める友のため、励ましの風を送り、自他共に絶対的幸福の道を歩もうと、不滅の友情の花の輪を広げている。
 自分さえよければいいという荒んだ風潮にあって、何と尊き生き方であろうか。
 「女子部の方々はみんな輝いています。私も輝きたい」と言いながら入会した友がいる。女子部大会で発心し、尊き目標に向かって、生き生きと活動を始めたメンバーも少なくない。
 女子部員が一人立ち、家庭や職場を明るく変えた体験も、数多く伺っている。
 女子部の勢いは、学会の勢いのバロメーターであり、未来を開く希望の強さであり、光だ。
 その波動は、婦人部はもちろん、壮年・男子部にも及び、まさに今、全学会に「女子部拡大」の喜びが広がっている。こんな嬉しい、こんな輝かしい、未来を照らす希望の光線を浴びゆく私たちは、何と素晴らしき人生か。
 何といっても、仲良き母娘のように、婦人部の励ましが美事である。
 特に女子部の育成を応援する婦人部の「すずらん長」等の皆様の奮闘によって、あの地方にも、この天地にも、希望と歓喜の新しいすずらんの花が咲き薫っている。
 地区の婦人部長たちが自宅を提供し、いつでも女子部が訪問できるようにされた地域も多くある。そこは、御書研鑽の場となり、折伏の場となり、個人指導の場となって、にぎやかだ。
 女子部のリーダーが、婦人部の確信ある"対話法"から多くのことを学んでいることも、たくさん感動的な報告を受けている。
 「女子部を育てよう」「純粋な心の、この尊き女子部を応援しよう」と、皆が知恵を出し合い、心を合わせた時、創価の城は、さらにさらに大城となって、今再び新しい歴史が始まることだろう。
 戸田先生は、「一人の女子部は十人、百人に匹敵する力がある」と、よく言われた。その通りに、私たち先輩は、女子部を最大に大切に守り、成長していく姿を喜びながら前進していくのだ。
 これが、完勝への真髄であるからだ。
 女子部の躍進は、広宣流布の未来を洋々と開いたのだ。
4  "女性論"も著した歴史家ミシュレは断言した。
 「確信の中に基礎を持ち、意志の中に基盤を持っていないものは、何一つ生きないし、働かないし、持続しない」(『学生よ』大野一道訳、藤原書店)
 全くその通りだ。弱々しい意志と確信で、どうして自身の偉大な革命を完成させることができようか。つまり、幸福になれようか。勝利することができようか。
 だからこそ、女子部の皆さんは、日々の生活のなかで、社会のなかで、学会活動のなかで、自ら祈り戦いながら、具体的な体験を一つ一つ積んでいってほしいのだ。
 どんなことでもいい、「信心はすごいな」という実感と感謝を知ることだ。
 それが、何ものにも崩れぬ確信と信念の幸福の大地に変わっていくからである。
 多くの若い女性たちは、自分の「性格」や「自信のなさ」などにむやみに悩む場合が少なくない。
 その自分が最も自分らしく輝いていける、偉大な「人間革命」の大道を教えたのが、日蓮仏法である。
 流されやすく、弱い自分の境涯を決然と乗り越え、強く、生きがいのある自分になるのだ。
 そして、決して悩みの風雨に負けないで、堅固な、大切な自分自身の一生の土台を築きゆくことだ。
 この尊き青春の羅針盤こそ「教学」にほかならない。
 「教学を学び抜いていくことである」と、恩師は叫んだ。
 もしも、教学がなければ、正邪善悪が見えない。最高の人生の大道、正義の師弟の道がわからない。それでは何が幸福かわからない。結局、幸福になれない。
 正しい仏法の眼を磨く修行が教学である。
 だからこそ、戸田先生は、慈父の如く「女子部は教学で立て!」と繰り返し繰り返し指導していかれた。
 今、若き女子部の貴女たちは、「師弟共戦で進もう!」と、青春を飾り、勝利の人生を築こうと、戦っておられる。それはそれは真剣な姿がまばゆいばかりだ。その清らかな心を、三世十方の仏菩薩が賞讃し、貴女たちを守護しないわけがない。
 ゆえに「勝利」と「幸福」の道は、貴女たちの足もとにあるのだ。今日一日歩みゆく、その足下にあるのだ。創価の花の青春を、勇気も美しく、忍耐も輝かせながら生き抜くことだ。人生の花盛りの青春を、力強く朗らかに、そして誇り高く、まっすぐに歩み抜くことだ。
5  米国の公民権運動の指導者キング博士は確信していた。
 「われわれには直面するどんな問題の中にあっても、それに向かって立ち上がるだけの内面の力がある」(梶原寿監訳『私には夢がある』新教出版社)
 この信念のままに、苦難につぐ苦難にも屈せず、行動し続けたのであった。
 その博士の没後二十五年(一九九三年)の折、偉業への多くの賞讃のなか、一人の若き女性が言い切った。
 「キング博士を最もよく敬うことができる道は、彼が命を捧げた事柄に私たち自身も身を捧げることです」(『答えをさがして』梶原寿監訳、新教出版社)
 彼女の名はバーニス・キングさん。キング博士が遺した四児の末娘であった。
 父が暗殺された時、彼女は五歳。そして十代後半に父の戦いを継ぐ決心をし、民衆のために働いてきた。彼女は決然と語っている。
 「不正義がその醜い頭をもたげるところではどこでもそれと喜んで闘おうとしないなら、どうして変革が起こることを期待できるでしょうか」(同前)
 そこには、父が戦った如く、自分も悪と戦うという誓いがあった。民衆を苦しめる不正義を倒す決意があった。
 "精神を受け継ぐ"とは、まさしく"行動を受け継ぐ"ことになるのだ。
6  大聖人は、女性の信徒を、こう励まされた。
 「たとえ妃になっても何になろう。天上界に生まれても何の意味があろう。我らは(女人成仏の道を開いた)竜女の跡を継ぎ、(釈尊の最初の女性の弟子である)摩訶波舎波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。何と嬉しいことであろうか」(御書九七六ページ、通解)
 何不自由ない境遇に生まれても、人に羨まれるような、華やかな結婚をしても、決して幸せとは限らない。
 幸福とは、財宝でもなければ、容姿でもない。名声でもない。心が空しければ、本当の人生の幸福などは絶対に築けないのである。自分らしく輝け!
 物質の次元、社会的次元の名誉を超越した、もっと深くして確かなる幸福の大境涯がある。それを「信心」というのだ。「仏」というのだ。
 「心こそ大切なれ」と、御聖訓に仰せである。この信仰の「心」のなかに、仏はおられるのであり、無量無辺の幸福も輝くのだ。
 幸福は遠くに求めるものではない。自分自身の生命のなかにあることを知らなければならない。
 それを教え、永遠に崩れざる幸福を説き明かしたのが、仏法であるからだ。
 青春時代に、この一点を深く深く確信できるかどうかで、人生の幸・不幸、そして勝敗は決まるのだ。
 そのためにも、若き皆様方は、人と自分を比べるのでなく、「今日の自分」から「明日の自分」へ、境涯を開きながら、強く、朗らかに前進しきっていくことである。
 その戦いのなかで、自分でなければならぬ、尊き使命の花が、そして幸福の花が咲いていくものだ。
 ともあれ自分らしく輝け!
 自分らしく生き抜くのだ。
 自分らしく前進するのだ。
 これを大仏法では、「桜梅桃李」、さらに「自体顕照」という法理に説いている。
 女子部の花であるすずらんの花言葉は「幸福」である。
 信心は、絶対に幸福になるためにあるのだ。不幸を打ち破り、戦い抜いて、永遠の幸福を築くために仏法はあるのだ。信心はあるのだ。
 それは、戦うことだ。魔という不幸を振り払うことだ。そして、自分自身の本然に輝く幸福を光らせゆくことだ。
 一人ももれなく、幸福になる。それが、人生の目的だ。そして、信心の目的である。
 幸福のためには――
 「邪悪」との戦いがある。
 「苦労」との戦いがある。
 「惰性」との戦いがある。
 「魔物」との戦いがある。
 「仏法破壊の敵」との戦いがある。
 「宿命」との戦いがある。
 その戦いを全部、昇りゆく太陽の如く、わが生命を赫々と燃やして、勇敢にやり抜いていくことだ。
 かの伝教大師は、正しい仏法を求め、勇敢に実践する人こそが、まことの「国の宝」であると結論した。健気に、真剣に戦う、尊き皆様方のことである。
7  私の妻も、女子部時代、今日は座談会へ、明日は個人折伏へ――と、一生懸命に走り抜いた。
 さらに他宗教の寺や本部にまで行って戦い、大正法の信仰を貫き通して歩んだ。
 五十五年前に誕生した女子部の第一期生として、金の思い出の青春を宝の如く持ち続けている。
 古代ギリシャの詩人ピンダロスは歌った。
 「苦労をしたなら、後に続く喜びはそれだけ大きい」(『祝勝歌集』内田次信訳、京都大学学術出版会)
 その通りである。
 苦労のない修行はどこにもない。行動しなければ、いつまでたっても、幸福はやって来ない。
 山も谷もない人生など幻の話だ。現実は厳しいに決まっている。現実は「勝負」であるからだ。これが、永遠の人間の実像だ。
 ゆえに、その現実に翻弄されて生きるのではなく、進んで現実に挑み、生命の鍛錬の場としていくのだ。
 わが若き皆様方は、最高に自身の生命を磨き上げ、皆から信頼される人生を生きていくことだ。
 反対に、皆に心配をかける人生は敗北だ。
 自分に負けないためには、聡明に、創価の正義の歩調に合わせていくことだ。善き友と、そして善き先輩と、つながっていくことだ。
 人生に勝って、幸福になるのは、自分自身である。
 その一人の成仏は全一族を成仏へ導く力なのだ。
 そして、未来に生きゆく若き皆様方の勝利が、全学会の勝利であり、ひいては全人類を救っていく原動力になるのである。
 "近代看護の母"ナイチンゲールは誇らかに訴えた。
 「私たちは、自分が褒められるためにではなく、私たちの選んだこの仕事に名誉をもたらし、それを前進させるために、心を打ち込んで事を為し遂げていこうではありませんか」(湯槇ます監修『ナイチンゲール著作集』3編訳者代表・薄井担子、現代社)
 尊き使命を果たしゆく心は清く、強く、美しい。
 私たちもまた、かくありたいものだ。
 イギリスの詩人ポープの言葉も味わい深い。
 「人間が幸福になりうる最も明るい希望はまた、他人を助ける最も強い動機と結びついている」(『人間論』上田勤訳)
 わが大切な女子部の友よ、全員が幸福に! 全員が尊き青春に輝け!

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