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日蓮大聖人・池田大作

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牧口先生の御書 確固不動の「人格の背骨」を作れ!

2005.10.13 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  わが生命から永遠に去らない、一冊の本がある。
 それは、先師・牧口常三郎初代会長が生前、使われていた「御書」である。現在は、東京牧口記念会館の顕彰室に展示されている。
 青年時代、初めて、この御書に目を通す機会があった。それは、「命をかけた研鑽」の厳粛な証であった。
 ぼろぼろになった表紙を開くと、それこそページを繰るごとに、朱線や鉛筆の書き込みが目に飛び込んでくる。
 二重線もあれば、傍点もある。重要な一節が四角く囲まれている。複数のペンの書き込みがあったり、難解な御文の余白に「検討」「再検討」と記されたページもある。
 何度も、何度も研鑽されたことがうかがえる。
 特に朱線の多いのが「開目抄」である。しかも、「行者とは何ぞや」「折伏」「大願」「諸難」「現罰の有無」等の書き込みが、蓮祖の御精神に肉薄せんと格闘するかのようにひしめいていた。
 今、私は「開目抄講義」を続けているが、この牧口先生の峻厳な研鑽の姿が、常に、胸から離れない。
 先生は五十七歳で入信して以来、日蓮大聖人の仏法を学び抜かれ、広宣流布のため、破邪顕正のために、御書を徹底的に用いられた。
 狂気の軍国主義が信教の自由を脅かすなかでも、御書を携えて個人指導に歩き、座談会に出席し、邪義、仏敵を破折し続けられた。
 獄中でも、先生は、差し入れの品として、真っ先に御書を所望されている。
 私は粛然とした。
 「御書を学ぶとは、なんと峻厳であることか!」
 「私も学び抜こう! わが生命を、五体を、御書にぶつけるようにして!」
 そして、「この大仏法を、必ず全日本へ、世界へ!」と深く決意を固めたのだ。
2  菊花薫るこの十一月、学会伝統の「教学部任用試験」が全国で実施される。また明年二月には、「青年部教学試験一級」も予定されている。
 大聖人の仏法を学ぶ求道の波は、日本はおろか全世界に広がっている。
 あの国で、あの地で、尊き同志たちが御書を拝し、世界広布の大ロマンに生き抜いている姿を伺うたび、私の胸は喜びに躍る。
 御書は「信心の背骨」であり、ゆえに確固不動の「人格の背骨」となるのだ。
 さらに、「言論戦の柱」である。万人の幸福の大道を開く「希望の経典」であり、「勇気と智慧の源泉」である。
 教学こそ、危険千万な人生の荒海を渡るための羅針盤の大哲学なのである。
 教学が強くなれば、信心はさらに強くなる。反対に強靱な"背骨"がなければ、いざという時に弱い。
 あの戦時中の学会弾圧で、投獄された幹部は次々に退転した。「結局、教学がなかったからだ!」と、戸田先生は憤激された。
 蓮祖が、「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と叱咤された通りの姿であった。
 この「まことの時」に強い人は、例外なく、御書を生命に刻んだ人である。
 牧口先生は、「行学の二道をはげみ候べし」の御文があるページに、"二重丸"を付けられていた。
 唱題・折伏と教学は、信心修行の両輪であり、根幹である。この御聖訓を軽んじ、地道な研鑽を避けてしまえば、損をするのは自分自身だ。
 私の御書にも、わが人生の激闘が刻まれている。
 「この御抄は、戸田先生と拝した」「この御文は、あの苦難の時に読んだ」――若き日から今日まで、広布の闘争は、常に御書と共にあった。
 御書には、末法の御本仏である大聖人の師子吼が、烈々と轟いている。仏の慈悲の炎が赤々と燃え、智慧の大河が滔々と流れている。
 この戦う生命を、わが生命に受け継ぐための教学だ。
 受験者の皆様は、特に青年部の諸君は、「もうこれ以上勉強できない」というくらい学んでほしい。その「限界を破る」挑戦が、一生涯の宝となって光っていく。
 先輩方も、「『広布の次の五十年』を切り開くのだ」という思いで、全力で応援し、力ある広布の人材を育成していただきたい。
 研鑽にあたっては、ぜひ、「直接、御書を繙く」ことを心掛けてほしい。講義録や解説などは、あくまで補助にすぎない。御書の本文も読まずに、「わかったつもり」になることが一番怖い。
 少々苦労しても、王道を行くことだ。直接、御書と格闘する刻苦奮闘こそが、信心の合格者への大道である。
3  「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり
 この有名な一節に、牧口先生は朱線を引かれ、さらに、ページの余白には、「勝負」「賞罰」と赤ペンで強く書き込まれている。
 また、「瞋恚しんには善悪に通ずる者なり」の上には、「公瞋と私瞋か」と記された。「瞋恚」とは怒りである。
 「大慢のものは敵に随う」の上には、「大慢敵にしたがふ」と、御文を確かめるように書き込んでおられる。
 「公のため」「国のため」とうそぶき、実体は「私利私欲」を貪り、敵となっていく「大慢」の連中に、激怒した先生であられた。
 そして現実に、正義の行動を起こし、無理解の非難中傷のなかで、尊き殉教の生涯を終えられたのである。
 その遺志を継いだ戸田先生は、仏敵に対して阿修羅の如く反撃された。
 戸田先生のもとで薫陶を受けた私もまた、健気な学会員を苦しめる輩を、絶対に許さなかった。
 キューバ独立の父ホセ・マルティは訴えた。
 「(正義に)対立する新聞には、(正義を)擁護する新聞を。敵対する書籍には、正義の書籍を。慎重に、かつ鋭く、すべて攻撃的な言葉で応戦するのだ。敵が攻めてくる可能性があるならば、どこであれ、常に戦いの旗印を掲げなければならない」(Nuevas cartas de Nueva York, Siglo veintiuno editores)
 勝ってこそ正義だ。大悪と戦ってこそ大善である。
 大いなる理想のために戦った先人は、皆、その冷厳なる事実を命に刻んでいる。
 ましてや創価の言論には、大聖人がそうであられたように、極悪に対する一片の妥協もあってはならない。
 文豪・魯迅は、狡猾な悪人を激しく追撃した。譬喩的に、こうも書いている。
 「まず水のなかへ打ち落とし、さらに追いかけて打つべきである。もし自分で水へ落ちたにしても、追い打ちしていっこう差支えない」(『「フェアプレイ」はまだ早い』、竹内好訳、『魯迅全集』3所収、筑摩書房)と。
 責められると改悛したふりをし、許せばまた民衆を裏切って悪事を働く……そんな悪党を、魯迅はペンの剣で斬りまくった。牧口先生が言われた"公瞋"にも通ずる正義の怒りは、私もよくわかる。
 今の日本社会でも、嫉妬の中傷が、いかに横行していることか! 怨嫉の毒をまき散らす輩に、いかに庶民が苦しめられていることか!
 転倒した社会を「民衆のための社会」に戻すためには、「民衆のための言論」を強くし、正義が勝つしかない。
 そこに、「立正安国」の現実の前進もあるのだ。
4  フランスの大文豪ロマン・ロランは言った。
 「他人の上に太陽の光を注がんためには、自分のうちにそれをもっていなければいけない」(『ジャン・クリストフ』4、豊島与志雄、岩波文章)――その「太陽」を、私たちはもっている。自分が縁した人びとに、燦たる希望の大光を送る「太陽の仏法」を受持しているのだ!
 偉大な力があるのだ。
 偉大な使命があるのだ。
 さあ、世界最高峰の大仏法哲学を胸に抱いた、誇り高き創価の闘士たちよ!
 輝く人間世紀を創る、広宣流布の思想戦に、共に勇んで打って出ようではないか!

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