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日蓮大聖人・池田大作

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尊き「多宝会」の同士、万歳! 『仏』とは戦い勝つ忍耐の生命

2005.9.29 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

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1  中秋の夜空に、満面の笑みで、高貴なる宝光を放つ名月が輝いていた。
 わが広宣流布の勇者の大栄冠を讃えるように、珠玉の月天子が、尊貴な光を降り注いでいた。
 十八世紀ドイツの詩人ノバーリスの言葉は、有名である。
 「人生は私達に与えられた小説であってはならぬ、私達によって作られた小説でなくてはならぬ」(『断章』上、小牧健夫・渡邊格司訳、岩波文庫)と。
 わが人生は、他の誰でもなく、自分自身が織り上げる、かけがえのない小説であり、物語であれ! というのだ。
 その物語の「二〇〇五年の我らの闘争の一章」に、勝利と栄光の歴史を、私たちは不滅の金文字で刻みつけていったのだ。
 そして今、創立七十五周年の大佳節を威風堂々と飾ってきた。
 全世界で、わが同志が、大拍手を贈りながら、勝利の乱舞をしていった。
 勇敢なる青年部も戦った。
 美しき婦人部も戦った。
 勇気ある壮年部も戦い抜いた。
 自己の限界を打ち破りながら、仏のために、仏の如く、皆が戦い、そして勝った!
 皆様の「勝利の物語」を、仏天も「万歳、万歳!」と、最大に御賞讃くださることは絶対に間違いない。
 ことに、広布の大功労者であられる全国の「多宝会」、「宝寿会」(東京)、「錦宝会」(関西)の皆様方は、真夏の炎天下、本当に、本当によく戦ってくださった。
 十九世紀ドイツの法学者であるイェーリングは叫んだ。
 「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である」(『権利のための闘争』村上淳一訳、岩波文庫)
 多忙のなか、批判中傷を受けながら、大仏法のために戦い抜いた庶民の英雄に、私は涙あふるる思いで、深く強く感謝申し上げたい。
2  文豪ゲーテは言った。
 「経験を積んでいるのなら、他人の役に立たねばならぬ」
 その通りだ。
 多宝会の皆様方は、豊富な人生経験、信仰体験を、友のために語り抜いてこられた。誠実に行動するその姿で、大勢の仲間たち、後輩たちを励まし抜いてこられた。
 こんなに尊き人生が、どこにあるか! いつあったか!
 二十年、三十年、さらには五十年――私と皆様が歩んだこの幾歳月は、経文に「猶多怨嫉」と説かれる嫉妬等や、御聖訓に仰せの「三障四魔」という障魔、そして、「三類の強敵」という魔性の連中との攻防戦の連続であった。
 学会と私を狙い撃つ、悪口罵詈は限りなかった。
 たとえば"学会は香典を持っていく"――いわゆる"香典泥棒"などの中傷は、草創期から、あちらこちらで学会員に浴びせられた。
 同志は激怒した。
 ならば、「いつ」「どこで」「誰が」したというのか?
 「証拠」は何か?
 「証人」はいるのか?
 所詮、"通り魔"の如き卑劣なデマではないか!
 日蓮大聖人は、デマ情報に踊った誹謗があれば、即座に「跡形も無き虚言」と、痛烈に破折された。
 草創の友もまた、蓮祖直系の破折精神を燃やし、卑劣なデマを粉砕した。無責任な噂に便乗する悪意と誤解を、勇敢に痛烈に、打ち破っていったのである。
 あの広布の母を見よ!
 あの正義の父を見よ!
 偉大な庶民の王者の姿に、後輩の同志たちは、誇りも高く胸を張った。その誠実一路の生き方に、周囲も"噂は間違っていた"と認識を変え、一段と信頼を寄せていった。
 真実は必ず勝つのだ。
 正義は絶対に勝つのだ。
 これが仏法である。
3  日蓮大聖人の大正法は、「末法万年尽未来際」まで民衆を救いゆく大法である。
 その大法を弘めゆく我らもまた、生死、生死を繰り返しながら、永遠に広宣流布のために戦う、尊き、あまりにも尊き、誉れも高き使命があるのだ。
 「月月・日日につより給へ」と仰せの如く、前へ前へと進むことだ。"進まざるは退転"であるとは、仏の遺言であるのだ。
 本来、「退屈」という言葉も、仏道を求める心が退き、屈する意味であった。"もう疲れた、嫌になった"と求道心が挫けることであった。
 一般的にも、前向きな向上心を失って、価値のない、張り合いのない一日一日の生活を送ることは、苦しく悲しいことである。
 「明らかに確実であるものを認めることのできない人は、ばか者である。明らかに義務であるものによって動かされない人は、悪人である」(『遺稿集』尾渡達雄訳、『カント全集』16所収、理想社)
 こう喝破したのは、ドイツの大哲学者カントであった。
 退屈に流されず、自らを、人のために!
 自らを、正義のために!
 自らを、平和のために!
 そして、自ら幸福への道を切り開いていく人が、人間として王者なのである。勝利者なのである。真実の指導者なのである。
 来る日も来る日も広宣流布に邁進しゆく、私たち深き使命をもつ勇者に、そんな無駄な退屈な日々は、全くない。
 スイスの哲人であるヒルティという学者の『幸福論』は、よく知られている。
 その本の一つの結論として、「人間の本性は働くようにできている」「本当の休息はただ活動のさなかにのみある」(『幸福論』第一部、草間平作訳、岩波文庫)と論じられている。
 戸田先生も、「正しい結論であるな」と頷いていたことが、懐かしく思い出される。
4  世界的に有名であるナイチンゲールは、晩年、体が自由に動かなくなり、一日の大半を自室やベッドで過ごす日々であったという。
 しかし、それでも、彼女は、「看護」や「社会」の問題について、次々に手紙を認め、さまざまな指示を与え続けた。
 彼女にとっては、ベッドさえも、自分自身の戦いゆく使命を果たし抜く"本陣"となっていったのである。
 ある日、若い従妹と懇談するうち、すでに亡くなった親類のことに話題が及んだ。従妹がしみじみと語った。
 「少なくともいまはあの方も、安息と平和のうちに過ごしていらっしゃると思いますわ」(エドワード・T・クック『ナイティングゲール――その生涯と思想』3、中村妙子訳、時空出版)
 するとナイチンゲールは、にわかにベッドから体を起こして、強く言い放った。
 「いいえ、そうは思わないわ。天国は、驚くほど活動的な世界ですもの」(同前)
 言葉は「天国」とあるが、要するに、死後の生命のことであろう。
 人びとのために働き抜いた彼女には、死後さえ、生命が活動し続ける舞台であり、「生」と同様、「死」も明るく活動的なものであった。
 それは、「生も歓喜、死も歓喜」という、私たちの生死観とも、深く響き合うのであった。
5  私は、世界の数多くの指導者と出会いを重ねてきたが、ご高齢にあってなお、実に生き生きとした方が多かった。
 最初にお会いした当時、トインビー博士は八十三歳、ポーリング博士は八十五歳、マハトマ・ガンジーの直弟子パンディ氏は八十五歳、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は九十四歳であられた。
 「ブラジルの良心」と言われた、このアタイデ総裁は、青年の如く語っておられた。
 「私たちは、この崇高なる『言葉』を最大の武器として、戦いましょう」(『二十一世紀の人権を語る』。本全集第104巻収録)
 先日、九十六年の尊い生涯を終えられたパグウォッシュ会議名誉会長のロートブラット博士は、生前、私との対談のなかで言われた。
 「世界の平和の潮流を確かめるまで、私にはまだまだやるべきことがあります!」(『地球平和への探求』潮出版社)
 この博士の叫びは、平和を希求する民衆の心から、決して消え去ることはないだろう。
 ともあれ、偉大なる"平和と人道の闘士"たちは、自分の生きている間のことだけでなく、人類の未来まで視野に入れ、本気で行動していた。
 ゆえに、生き生きと希望に燃えていた。
 決して負けなかった。断じて何ものにも負けない人生であった。
 わが大切な多宝会の皆様方も、最高無比の広宣流布の道に向、来る日も来る日も、走り抜いておられる。
 なんと尊いことか!
 なんと偉大な人生か!
 なんと不思議な哲学者か!
 その目には輝きがあり、語る言葉には説得力がある。
 広布に走れば、戦い続ける生命へ人間革命していける。その生命は、常に、新鮮で、快活で、健康的である。
 世界保健機関(WHO)では、「健康」とは、「完全な肉体的、精神的及び社会福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義している。
 まさに、この通りの「健康人生」を謳歌しているのが、多宝会の方々である。
6  九十歳を超えてなお現役で活躍した、チェロの巨匠カザルスは語っている。
 「仕事をし、倦むことのない人は決して年をとらない。仕事と価値のある事に興味をもつことが不老長寿の最高の妙薬である」(アルバート・E・カーン編『パブロ・カルザス 喜びと悲しみ』吉田秀和・郷司敬吾訳、朝日新聞社)
 我々の仕事――それは広宣流布を遂行するという「仏の仕事」である。
 広宣流布こそ、三世に生きる我々の、最大の生きがいであり、健康法である。
 ゆえに、広宣流布に生き抜く人生の人こそ、無上の幸福者なのだ。
 法華経に、「(=仏が)作す所の仏事は、未だ曽て暫くも癈せず」(法華経四八二ページ)とある。
 民衆を幸福にしゆく仏の作業には、永遠に生き抜く力が具わっているのだ。力が湧現されているのだ。
 御聖訓には、広宣流布に生き抜いた我々の死後の生命について、こう記されている。
 「余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ、法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし・金繩を以て八の道をさかひ、天より四種の花ふり虚空に音楽聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列ならん
 これは、御本仏の絶対のお約束である。
7  誉れ高き「多宝会」の方々と一緒に戦うことは、私には最大の喜びだ。
 「仏」とは、絶対に負けない生命である。
 「仏」とは、永遠に消えぬ大福運を積んだ幸福者のことである。
 「仏」とは、あらゆる邪義謗法と戦い抜き、生涯、戦い勝っていく忍耐の生命である。
 人はどうあれ、私たちは、最高の正義の誇り高き道を知っている。
 人が何と言おうが、勝手に言えばいいだろう。
 勝利者になること!
 幸福になること!
 人類に尽くすこと!
 人びとに心から励ましを贈れる人生ほど、尊き人間道はないのだ。
 自分らしく生きることだ。
 自分らしく生き抜けば、それが最高の幸福だ。
 これが仏法なのである。

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