Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

青年よ言論の闘士たれ 正義の師子吼で 創価は勝ちたり

2005.7.25 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  文豪・魯迅は、誹謗中傷の嵐のなか、毅然として、正義の言論戦を宣言した。
 「私はやはり真実を語りたい。そのためには他人の『デマ』を抹殺する外はないのだ」(『墳』松枝茂夫訳、『魯迅選集』5所収、岩波文庫)
 デマを打ち砕け! そこにこそ、真実の太陽が輝くことを、彼は知悉していた。
 デマは、人びとを愚弄し、煽動する"凶器"だ。それが政治の権力と結びついて喧伝された時、どれほど人びとを傷つけ、暗黒の災厄を社会にもたらすことか。
 半世紀前のアメリカでも、そんな悲劇が起こった。
 "赤狩り"――マッカーシズムの凶暴な嵐である。
 第二次世界大戦後、米ソ両陣営の分断と対立は深刻化していた。一九四九年、ソ連の原爆保有が明らかになると、米国内には、共産主義者への排他的な風潮が強まり、不安と敵意が渦巻いた。
 そこへ、デマの猛毒を投げ込んだのが、上院議員ジョゼフ・マッカーシーであった。
2  発端は一九五〇年の二月、彼が行った演説だった。
 ――自分は今、国務省内部にいる二百五人の共産党員の名簿を持っている、云々。
 ところが、それは、とんでもないデマだったのだ。
 取り立てて実績もないマッカーシーは、次の選挙までに自分の名前を世間に売り込む手段として、この問題で騒ぎ始めたのである。
 思惑通り、彼の発言が上院で審議されることになると、さも多数の秘密資料を持っているかのように、鞄一杯の書類を抱えて議場に現れた。
 マッカーシーは、国務省にいる共産主義者の事例なるものを長々と説明したが、どれもこれも確証のないデタラメであった。何しろ一度も国務省で働いたことがない人物まで含まれていたのだ。
 彼が言う数字そのものが、くるくる変わった。最初二百五人とされた人数は、翌日は五十七人になり、上院で審議した時は八十一人となっていた。矛盾を指摘されると、「愚劣な数字論議はやめようではないか」と開き直った。
 一つ一つ検証されれば、全部、嘘だとばれる。だからマッカーシーは、わざと情報を曖昧にしながら、厚顔無恥な強弁を続け、"政府内に危険分子がはびこっている"というイメージだけは、強く印象づけていったのである。
 マスコミは、そのデマを厳しく検証することなく、垂れ流してしまった。人びとも、"まさか、上院議員が全くの虚偽は言わないだろう"と、呑気に構えていた。
 それが、結果的に、いかがわしいデマを粉砕することなく、かえって"市民権"を与えてしまったのである。
 マッカーシーはその後も、議会に設けた委員会を根城にして、無実の人に危険分子の、疑惑を投げつけて、次々に新たな攻撃対象をでっち上げ、影響力を強めていった。
 著名なジャーナリストのロービアは、マッカーシーの嘘をこう喝破した。
 「多重虚偽」――。
3  その災禍は甚大だった。
 やがて政府、教育・学術機関、さらには、ハリウッドまでも、デマに煽られて迫害の嵐が吹き荒れた。
 事実無根のデマによって、人権を踏みにじられ、職を追われ、人生を狂わされた犠牲者が続出したのである。
 この"赤狩り"が猛威をふるった時期には、全政府機関で、職員が"危険人物"かどうか素性調査が行われ、七、八千人もの人が公職を追われたのである。この時流を巧みに利用し、卑劣なデマで社会を大混乱させ続けたのが、マッカーシーであった。
 当時の大統領の一人だったアイゼンハワーは後年、その悲劇を回想して言った。
 「マッカーシズムは多くの個人と米国に損害を与えた。議会特権のカベにかくれてあたりかまわず振りかかってくる攻撃の前に一人として安全ではなかった」(『アイゼンハワー回顧録』1、仲晃・佐々木謙一訳、みすず書房)
 世界平和のために、ソ連の学者とも協力を訴えていたポーリング博士も、攻撃の標的になった。しかし、博士は、屈しなかった。
 「私は、おそらく頑固だったのでしょうが、マッカーシーやアメリカの反共主義者にやりこめられて沈黙することを拒絶しました」(『「生命の世紀」への探求』。本全集第14巻収録)
 私に語ってくださった言葉である。博士は、不撓不屈の人間主義者であった。
 「決して危難と苦悩とが、すぐれた魂の人々を立往生させたことはない。逆に、危難と苦悩とが、すぐれた魂たちをつくり出す」(『内面の旅路』片山俊彦訳、『ロマン・ロラン全集』17所収、みすず書房)――まさに文豪ロマン・ロランが洞察した通りである。
 ともあれ、苦難と戦う勇気をもつことだ。フランスの女性作家スタール夫人が語ったごとく、「苦悩は幸福になる能力の、一つの必要な要素である」(『自殺についての省察』海老坂武訳、『世界人生論全集』10所収、筑摩書房)からだ。
4  嘘を何百万と言い並べようとも、嘘は嘘である。
 「糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり」と仰せの通りだ。
 議会、国家を牛耳っているかのように傍若無人に振る舞う、マッカーシーの所業に対し、上院は、遂に大多数で非難決議案を可決する。
 一九五四年の十二月のことである。つまりマッカーシーのデマは、実に五年近くにわたって多くの人びとを翻弄し、苦しめたのである。
 ゆえに、絶対にデマを放置してはならないのだ!
 その後も、マッカーシーは議員を辞職しなかったが、もう誰も相手にしなくなった。
 彼が演説しようとすると、皆、議場から去っていった。
 デマを操り、人びとを混乱と恐怖に陥れた男の末路は、ボロボロの体で、酒に溺れる哀れな姿であった。
 虚偽の謀略がどれほど威勢を誇ろうとも、必ず無惨に滅びゆくのだ。
5  中傷記事で、私と学会を陥れようとした「月刊ペン事件」も、真っ赤な嘘で塗り固められたものであった。
 学会の隆盛に嫉妬の炎を燃やし、邪な意図をもって画策されたデマであった。
 厳正な裁判の結果、当時の名誉毀損罪では最高額の罰金刑が下っている。
 悪党どもは、まともな言論戦では勝ち目がない。だから、ありもしない社会的事件を捏造し、それを足掛かりに正義を攻撃する。事実無根であっても、デマが騒ぎになったこと自体を「事件」と称して、また騒ぐのだ。
 御書には、迫害の原因について「讒言」「讒訴」「讒奏」等と、幾度となく明言されている。「讒」とは「悪し様に中傷して人を陥れる」という意味である。
 大聖人の御生涯も、また、いわれなき中傷・デマとの戦いであられた。
 大聖人を「犯僧」(破戒僧)呼ばわりしたデマなどが巷に流され、悪用されていったのである。
 大聖人は、自身への誹謗に対し、「事を権門に寄せて日蓮ををどさんより但正しき文を出だせ」と反撃された。権威を借りて脅すよりも、肝心の証拠を出せ!見よ、何一つ出せないだろう!
 火を吐くような師子王の叫びであられる。
 「熱原の法難」の折にも、悪質なデマが使われた。
 日興上人による弘教に恐れをいだいた邪僧・行智らは、幕府要人と結託し、「苅田狼籍(稲の略奪)」の罪を捏造した。これが、無案の農民信徒を連行する大迫害につながったのだ。
 大聖人は、「苅田狼籍」は「跡形も無き虚誕(=嘘)」(「滝泉寺申状」、御書八五二ページ)と見破られていた。"行智が自らの悪行を隠そうとして種々の計略をめぐらし、何の根拠もない嘘で陥れようと謀ったものである"と、謀略の本質を喝破され、行智の悪行の数々を暴き出された。
 ともあれ、「人間も意気地なしと思われると、悪党どもから勝手なまねをされる」(『フィガロの結婚』辰野隆訳、岩波文庫)とは、フランスの劇作家ボーマルシェの言葉である。
 ゆえに、邪悪には、容赦なく責め抜くことが正しいのだ。
 魯迅は、「デマをとばしたやつの化けの皮をひんむいてやる」(『朝花夕拾』竹内好訳、『魯迅文集』2所収、筑摩書房)と憤怒した。
 嘘を「嘘だ」と言い切れ。人間を軽賤するデマは、鋭き言論で叩き切れ!
 正義と真実で戦うのだ。
 勇敢なる師子吼のなかに、大聖人の仏法の血脈がある。そしてここに、悪を見て見ぬふりをする精神風土を根底から変革する、最も着実にして正しき道があるのだ!
 詩人シラーは叫んだ。
 「勝利はわれわれのものであります。わたしは諸君の眼前にすでに勝利への道を拓きました」(『フィエスコの叛乱』野島正城訳、岩波文庫)
 私も勝った。一切のデマを打ち破り、荘厳なる師弟勝利の旗を打ち立てた。
 青年よ、後継の君たちよ!
 君の言論の勝利なくして、真の師子吼はない。青年らしく、勇敢に叫び抜け!
 「立正安国」の理想に燃えた君たちの敢闘で、精神革命の世紀を開くのだ!
 大歴史家トインビー博士は、こう断言された。
 「現代社会の病根を治すには、人間の心の内面からの精神革命による以外にない」(『二十一世紀への対話』。本全集第3巻収録)

1
1