Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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法華経の兵法 必死の勇敢なる信仰者には大勝利の旗が

2005.6.25 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  仏意仏勅たる「広宣流布」に向かいゆく、わが学会には、無敵の兵法がある。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし
 「法華経の兵法」とは、妙法の信心であり、それこそが最強の兵法であると、日蓮大聖人は仰せなのだ。
 永遠に、何ものにも負けない。
 永遠に、何ものにも屈しない。
 永遠に、何ものをも恐れない。
 そして、勝って勝って勝ちまくっていく生命の本源が妙法であるからだ。
 この「法華経の兵法」は、戦いのあらゆる極意のなかで、最高峰に位置する「兵法の王」であり、中国の孫子・呉子の兵法と比しても、遥かに超絶して優れているのだ。
 「兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり
 いかなる兵法も、所詮は、妙法の一分であり、仏法の真髄には絶対に敵わないのだ。
 大聖人は、「師弟相違せばなに事も成べからずと仰せである。
 「法華経の兵法」は、師の教えのまま、死身弘法を貫き、死に物狂いで、妙法流布に戦い抜く人が、相伝を受けるのだ。
 ゆえに、仏法の方程式である「師弟の不二」を感得し、「師資の相承」を受け継がなければならない。
 端的にいえば、師匠に仕えることだ。師匠と共に戦うことだ。
 牧口先生を師と定めた戸田先生は、命を捨てる覚悟で、牢獄までお供した。
 私は、偉大な大仏法の実践者であられた戸田先生に師事した。
 最高の「誇り」であり、最高の「満足」であり、そして最高の「勝利」であった。
 そして、私は戦った。
 「革命は死なり」との決意をもって師に誓い、自分自身に誓って、命をなげうって戦った。
 この学会の師弟のなかにこそ、「法華経の兵法」が相伝されてきたのである。
2  「さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ」と、大聖人は明確に御教示なされている。
 人間にとって、命より惜しいものはない。
 その命を捨てる覚悟があれば、何も恐れるものはない。絶対無敵である。
 ともあれ、法華経は「活の法門」である。
 法華経のため生命も惜しまぬ人が、限りある命の価値を最も高め、完全燃焼の一生を飾ることができるのだ。
 その人こそ、「法華経の兵法」の真実の実践者であるのだ。
 維新回天の雄・西郷隆盛は、艱難を共にして、国家の大業を成すに足る人物を、次のように言い残した。
 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」(山田済斎編『西郷南洲遺訓』岩波文庫)
 まったく、その通りだ。名聞名利をかなぐり捨てた人が、一番強い。
 あの大文豪ビクトル・ユゴーは、捨て身の決意の果てに生じる、不思議な活路を信じた。
 「最上の手段はぎりぎりの決意から生まれる。死のなかへ船出することが、ときには難船をまぬがれる道だ。棺の蓋が救いの板になるのだ」(『レ・ミゼラブル』辻昶訳、潮出版社)
 青春時代から好きな言葉の一つであった。
3  私の座右の御聖訓の一節は、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」である。
 来る日も来る日も、最大の辛労を尽くすことが「法華経の兵法」の真髄であるのだ。
 妙法の真実の指導者の資格とは、何か。
 それは、「法華経の兵法」を指導源にすることである。闘争への推進力とすることである。一切の学問・生活の根幹とすることである。
 1956年(昭和三十一年)、大阪の大法戦も、私は「法華経の兵法」のままに戦い、大勝利の旗を高々と掲げた。
 逆境で、小手先の策に安易に走ることは、真実の苦労を避けることだ。
 過去において、大聖人の弟子のなかにも、五老僧をはじめ違背の者が出た。
 そして下って、牧口先生の法難に際し、偉ぶって師を悪口した弟子も、戸田先生の事業の苦境の時、逃げ去った弟子も、まったく大敗北の哀れな姿で、一生を送っている。
 それは、現在も同じである。未来も同じである。
 退転者、反逆者のあまりにも哀れな、言語に絶する苦痛を味わい、もがきながら、敗残兵のように生きている姿、また「頭破作七分」と説かれる通り、心が狂い、乱れて、何年も動きがとれずに喘いでいる姿――。
 これらも、すべて、皆様がご存じの通りだ。
 戸田先生は、忘恩の弟子、そして臆病の弟子が、学会を裏切り、反逆していく姿に、身を震わせながら、激怒なされた。
 「必ず、あいつの死に際を見ろ! 人生の最終章の哀れな、あまりにも哀れな地獄の生活を見ろ!」
 一切が、その通りであった。
4  オランダの偉大な人文主義者であり、「宗教改革の父」とされた、有名なエラスムスは叫んだ。彼は、近代の平和思想の源流の一人としても名高い。
 「悪が深く根付いたものであれば、なおさら努力を注いで取り除かなければならない」(『キリスト者の君主の教育』片山英男訳、『宗教改革著作集』2所収、教文社)
 戦いは、どこまでも真剣に誠実にやり通すことだ。
 真実の強き誠実の命は、そして真剣な精神の躍動は、何ものをも恐れなく勝ち進んでいく、生命の姿勢である。勝利の魂の輝きである。
 人生は、断じて勝たなければ、不幸に泣くだけだ。
 そしてまた、フランスの詩人ペギーのこの言葉が、私は好きである。
 「勝利はあいまいな連中や弱者にはめぐまれぬ」
 「偉大なる勝利者は幸せである」(『半月手帖』平野威馬訳、昭森社)
 青年時代の人生航路は、すべてが尊い歴史となる。
 「良き青年」は、「良き歴史」を創り、幸福である。
 「悪き青年」は、「悪者の因果」として、最終章の人生は地獄の苦しみだ。
 青年時代の歴史が、最も大切なのだ。
 これは、戸田先生の全精魂を打ち込んだ指導であった。
5  牧口先生が早くから注目されていた、スウェーデンの女性教育者エレン・ケイは、語った。
 「魂のみが人の魂をかちとるし、心のみが人の心に火を点ずるのである」(『児童の世紀』小野寺信・小野寺百合子訳、富山房)
 さらにまた、ロシアの巨人トルストイは論じた。
 「現代においては、何にも信じない、何のためにこの世に現れたか、何をここで為すべきか、について何も考えず、何も知らない人々が、いよいよ増えていく。このゆえにこそ現代人の生活がかく不良で、年々、月々、日々にますます悪くなるのである」(『唯一の誠』深見尚行訳、『トルストイ全集』18所収、岩波書店)
 私は、この言葉が大切であると思った。
 このトルストイの哲学に縁した思索が、真実の信仰の道を求めた原因の一つであったかもしれない。
 戦後まもなく、肺病であった私は、英語の個人教授を受けるようにした。当然、英語が大切になる時代が来ることを知っていたからである。
 時代とともに、力を持っていかねば、多々、人から嘲笑されたり、無視されたり、侮辱されたりするであろう。断じて社会で勝つためには、それらと戦う力を持たねばならない。
 偉くなればなるほど、卑劣な輩に非難されるだろう。そのために、あらゆる力を、反撃の力を、つけなければならないと思っていた。
 ドイツの劇作家シラーの戯曲『ドン・カルロス』には、こう綴られている。
 「あの男の心臓は、全人類のために鼓動していたのだ。その志は、来るべき人類の世界にあったのだ」(北通文訳、『世界文学大系』18所収、筑摩書房)
6  「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず
 広宣流布の戦いが進めば進むほど、魔が紛然として襲いかかることは、当然の理である。
 私はただただ、攻めゆく力を養うことだと決意していた。断じて、あらゆる戦に勝利して、乗り越えていく決心をした。
 魔軍に対しては、容赦なく、攻めて、攻めて、攻め抜くことだ。それが「法華経の兵法」の鉄則であるからだ。
 中途半端な人生では、そして、中途半端な戦いでは、何ものにも勝てない。まして、強敵を打倒することもできない。それでは、負けであると考えていた。
 法華経の薬王品では、「諸余怨敵・皆悉摧滅」と、法華経の実践によって、諸々の魔軍が、ことごとく粉砕されることが約束されている。
 妙法によって、最高の祈りと行動と作戦が合致することこそ、一切の勝利の要諦である。
7  私は、開目抄の御聖訓を胸に抱いて、第三代の会長に就任した。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
 私の死身弘法の決意を、妻も察知していた。
 妻が、会長就任の五月三日を「池田家の葬式の日」と定めていたことを知り、私は深く頷いた。この覚悟があったから、創価学会は勝ったのだ。世界百九十カ国・地域に、妙法の連帯は広がったのだ。
 妙法は、大宇宙の、いな、大宇宙をば動かしゆく、根源の法であり、力である。
 我ら学会員は、その「法華経の兵法」を持っているがゆえに、無敵であり、常勝であり、一生涯、勝利と幸福と満足の人生なのだ。
 「沖縄戦の終結」六十年の六月二十三日に――
 すべての犠牲者の御冥福を心より祈り、世界平和への誓いを込めて。合掌

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