Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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師弟の魂光る 豊島・中野 正義の言論で国家・社会を諫暁

2005.6.22 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  かつて、ユネスコが古今東西の"人権の名言"を集大成した書物を出版した。
 その本の中に、日蓮大聖人の「撰時抄」の一節が紹介されている。それは、あの佐渡流罪から鎌倉に生還され、幕府の権力者・平左衛門尉と対面した折の師子吼であった。
 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず
 たとえ頸の座に据えられようが、たとえ流罪されようが、わが心は決して屈服しない!
 ――この人類史に輝きわたる師子王の精神闘争に続きゆくのが、創価学会である。
 この「撰時抄」には、こうも仰せである。
 「(日本に仏教が伝来して)七百余年の間に、いまだ南無妙法蓮華経と唱えよと他人に勧め、自らも唱えた智人は聞いたことも見たこともない。太陽が昇れば、星は隠れる。(中略)日蓮は日本第一の法華経の行者であることは、あえて疑いのないところである。これをもって、漢土(中国)にも、月氏(インド)にも、一閻浮提(全世界)の内にも、肩を並べる者はあり得ないということを推察すべきである」(御書二八四ページ、通解)
 この大聖人の大宣言から七百三十年――。
 わが創価学会が、中国からも、インドからも、絶大なる信頼を寄せられていることは、ご存じの通りだ。今や、仏法の人間主義の大光は、百九十の国々と地域を、赫々と照らし始めている。
 法華経の安楽行品には、こう記されてある。
 「遊行するに畏れ無きこと 師子王の如く
 智慧の光明は 日の照らすが如くならん」(法華経四四七ページ)
 初代会長・牧口先生は師子王であり、太陽であった。
 二代会長・戸田先生もまた師子王であり、太陽であった。
 大東京の豊島、そして中野には、この「創価の師子王」の足跡が厳然と刻まれ、「広宣の太陽」が不滅の光を放っている。
2  牧口先生が、現在の豊島区目白に居を構えられたのは、1922年(大正十一年)の秋十一月のことであった。
 その六年後(昭和三年)、先生は日蓮仏法と巡りあわれた。そして、豊島のご自宅を拠点として、広宣流布の大闘争を開始されたのである。
 三男の洋三さんも、草創の目白支部の支部長として活躍された。
 当時は、軍部政府が、国家神道のもと、愚かな戦争に人びとを駆り立て、信教の自由を奪っていった時代である。
 学会の折伏は弾圧の標的になり、座談会には特高刑事の脅迫的な監視がついた。
 国家権力の圧力に屈服するのか。服従を拒否して、断固と戦うのか。進んで戦えば、迫害は必定であった。
 昭和十八年の五月、牧口先生は、神札問題で、約一週間、中野警察署に留置され、取り調べを受けられている。
 つまり、牧口先生の最初の"獄中闘争"は、中野であったのである。
 先生の戦う覚悟は、微動だにしなかった。
 一方、臆病な邪宗門は、権力の圧迫に屈した。自ら謗法にまみれるだけでなく、牧口先生と戸田先生を総本山に呼びつけ、神札を受けるように強要したのである。
 それは、「信教の自由」の圧殺であり、国家権力への魂の隷属を意味していた。そして、大聖人が厳命された「立正安国」の命脈を断絶させてしまうことになる。
 だからこそ、牧口先生は、宗門の要求を拒絶した。
 「神札は絶対に受けません!」
 今こそ、断固として立ち上がり、国家の誤りを正して、戦う時ではないか!
3  その直後の昭和十八年七月六日、牧口先生も戸田先生も、特高警察に検挙された。「治安維持法違反」と「不敬罪」の容疑である。
 警視庁での長い取り調べに続き、牧口先生は九月二十五日に豊島区西巣鴨の東京拘置所へ身柄を移された。その折、警視庁の二階で、戸田先生と瞬時の出会いがあった。
 「先生、お丈夫で!」
 弟子は、全生命を打ち震わせながら叫んだ。師は、その眼に無限の慈愛と勇気を湛えながら頷かれた。
 これが、今世の師弟の最後の邂逅となったのである。
 "罪は我が一身に集まり、高齢の師は一日も早く自由になるように!"と真剣に祈り続けていた戸田先生は、牧口先生より遅れて東京拘置所に移られた。
 それは、池袋駅にほど近い、現在の東池袋三丁目付近である。私も、その跡地を車で回ったことがあった。
 ここで、牧口先生、戸田先生が国家権力の魔性と戦い、苦しい悔しい一日一日を送られたことを思うと、厳粛な感動を抑えきれなかった。
 牧口先生は、広宣流布の戦いを、「敵前上陸」と言われていた。
 先生の獄中闘争は、まさに「敵前上陸」であり、正義の言論の剣を握って敵陣に攻め込む白兵戦であった。
 悪法下にあって、牧口先生は、犯罪の被疑者とされた。
 だが、間違っているのは、断じて権力の方なのだ。
 ゆえに取り調べは、まさに「諌暁」の場であった。
 「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子……」との折伏精神で、堂々と正義を訴えられている。
 さらに牧口先生は、約二年間に"座談会二百四十余回""地方指導十回"等々を実行し、学会創立以来、"約五百人を自ら折伏した"ことも、明確に語られたのである。
 この「勇気」、この「闘魂」、この「気迫」、この「大確信」――。
 わが同志よ! この「学会魂」をば、断固と受け継げ!
 その不屈の獄中闘争は、戸田先生も同じであった。
 戸田先生は、獄中からの書簡にこう記されている。
 「決して、諸天、仏、神の加護のないということを疑ってはなりませぬ。絶対に加護があります。現世が安穏でないと嘆いてはなりませぬ」(原文は片仮名書き)
 「開目抄」の御金言を心肝に染めての叫びであった。
4  今から六十年前の昭和二十年の七月三日のことである。
 その日、戸田先生は、中野区新井町にあった豊多摩刑務所におられた。
 四日前、西巣鴨の東京拘置所から、未決囚のまま、突然、中野に移された。
 そして、この日、二年間の獄中生活から解放され、保釈出所の身となったのである。
 午後七時であった。
 監獄の門が開かれた。
 囚われの師子・戸田先生は生きて獄門を出て、遂に自由の野に放たれたのだ。
 その胸中は、ただ仇討ちの念に燃えていた。
 先師・牧口先生は、前年の十一月十八日、牢獄で殉教していたのである。
 師匠の獄死を知らされた戸田先生は、慟哭と激怒のなかで一人誓った。
 "一生を通して、必ず牧口先生の正しさを証明してみせる! 今に見よ! 生きて出獄し、「巌窟王」となって、仇を討ってみせる!"
 師を牢死に至らしめた権力の邪悪を粉砕し、圧倒的に勝利するとの、烈々たる決心であられた。
 この日、中野の大地を踏みしめて、新たな決戦の第一歩が始まったのだ。
 不滅の「7・3」よ!
 それは、民衆を虐げる重い扉を打ち破り、正義の勝利の夜明けへ、躍り出る日だ。
 若き弟子が一人立ち、師匠が戦った敵を、必ず打ち倒しゆく誓いの日だ。
 「断じて勝つ!」と決めた人間の一念は、遂に歴史をも変えるという、偉大な「人間革命」の原点の日なのである。
 師弟は不二である。正義の闘魂は、川の流れのように、師匠から戦う弟子の生命に脈々と流れ通っていくのだ。
 この豊多摩刑務所(後に中野刑務所と改称)は、今は取り壊され、緑に包まれた「平和の森公園」となった。
 刑務所の鉄の門扉は、中野の有志が譲り受けられ、今、中野南文化会館に保管されている。
5  豊島、中野は、私にとっても、終生、忘れ得ぬ歴史と同志の天地だ。
 1953年(昭和二十八年)の一月六日、二十五歳の私が、恩師戸田先生から七十五万世帯の拡大への旗頭として、男子部第一部隊旗を拝受したのは、豊島の池袋である。
 文京支部長代理として戦った地域も、豊島が中心の一つであった。
 第一次宗門事似のさなか、私が会長を辞任した直後に、邪悪を打ち砕く、正義と勝利の大城となったのは、巣鴨の戸田記念講堂である。
 「威風堂々の歌」の指揮をとり、二十一世紀最初の「五月三日」から、創立百周年の二〇三〇年へ新出発した本部幹部会も、戸田講堂が舞台となった。
 この師弟の城を、誇り高き「常勝不敗の歴史」で荘厳してくれたのが、わが豊島の同志である。
  勇敢な
    魂吹き込む
      豊島かな
    恩師の叫びの
      源忘るな
6  1947年(昭和二十二年)の八月二十四日、私は中野駅から炎天下を歩き、入信の儀式の場に向かった。わが師と出会って十日後のことである。
 学会に大難が襲い来るたびに、縁深き中野の友は、私と共に戦い抜いてくれた。
 信義の大道を歩む、偉大な「中野兄弟会」の皆様方は、世界の模範である。
 1979年(昭和五十四年)の三月、「法師の皮を著たる畜生」による謀略の嵐が吹き荒れるなか、私は中野区の大ブロック(現在の地区)の「協議会」に出席した。
 あの創価の母たちを中心とした明るい庶民の語らいには、何ものにも壊されぬ創価家族の希望が躍動していた。
  いついつも
    中野の激戦
      乗り越えて
    創価の勝利に
      東京光らむ
7  中国の周恩来総理は、日本留学中、東中野に住まわれたことがある。現在の中野文化会館のすぐ近くである。
 以前、中野青年部の英才たちの研究調査によって、周総理の下宿一帯が復元された。その模型は、両国の友好の象徴として、天津にある「周恩来・鄧穎超記念館」に大切に展示してくださった。
 総理は、激戦につぐ激戦の中で、同志に語られた。
 「私たちは悲しみの涙など流したりしません。私たちが流すのは怒りの涙です」
 「私たちは人民のために闘いますが、センチメンタリズムなどは私たちには何の役にも立ちません」(『周恩来語録』秋元書房)
 広宣流布の戦いも、また、惰弱な感傷などで勝ち抜くことはできない。
 庶民を食い物にし、嘘八百のデマで人を陥れる、卑劣な悪党がうごめく濁世である。
 だから邪悪には、容赦なく、猛然と戦うのだ。
 インド独立の父マハトマ・ガンジーも語った。
 「耐えがたい悪に対しては立ち向かうのが、あらゆる国民、あらゆる個人の権利であり、義務である」(K・プリパラーニ編『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 戸田先生の出獄から六十星霜――鉄をも溶かす情熱と執念の言論戦で、新たな歴史を開きゆく時は「今」だ。
 仏法の勝負は、常に「今」であり、「ここ」である。
 だから、「今」を勝つのだ! 「ここ」で勝つのだ!
8  先日、私は、創立百二年を誇る中国の名門・華中師範大学より、名誉教授の称号を拝受した。
 華中師範大学が立つ武漢は、"革命の起点"として名高い。
 この地で、牧口、戸田両先生と同時代に、「教育革命」を遂行した陶行知は、青年の進歩にとって不可欠な三つの要件をあげていた。(以下、斎藤秋男『陶行知 生活教育理論の形成』明治図書出版。参照)
 第一は、「自分の持ち場にしっかり立つ」こと。
 第二に、「スピードと正確をもって事に処する」こと。
 そして第三に、「締めくくりを立派に仕遂げる」ことだ。
 すなわち、自らの使命の舞台で、迅速かつ的確に、追撃の手をゆるめず、戦い抜き、勝ち切っていくことである。
 わが豊島、わが中野の青年たちも、この勝利の軌道を真っ直ぐに進んでくれている。
 "革命とは何か?"
 フランスの女性哲学者シモーヌ・ベーユは、高らかに語った。
 「生命に障害となるあらゆるものとの戦いが革命なのである」(S・ペルトマン『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ』1、杉山毅訳、勁草書房)と。
 眼前に高い壁が立ちはだかろうとも、怯まない。私たちには、勇気があるからだ!
 周囲に容易に説得し難い友がいようとも、恐れない。私たちは、自分の誠意を確信しているからだ!
 いかなる時代の混迷にも、迷わない。私たちの心には、確固たる哲学が光り、師弟の星がいつも輝いているからだ!
9  ああ、不思議なるかな!
 私が昭和三十二年の大阪事件で、国家権力による冤罪ゆえに入獄したのは、戸田先生の出獄された日と同じ七月三日、時間も同じ午後七時であった。
 三代にわたる「不惜身命」の法戦で築き上げた、偉大なる広布の大本陣・大東京!
 わが永遠なる「豊島」の同志よ!
 そして、わが三世の絆の「中野」の同志よ!
 崇高な君たちよ、勇気に満ち満ちた勝利と栄光を創りゆくために、一日また一日を、戦い勝ってくれ給え!
 そして栄光の「7・3」を、晴れ晴れと、新しき永遠にわたる完勝の歴史の出発と自覚し、大きく飾っていってくれ給え!
 出獄と
   入獄の日に
     弟子よ 勝て

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