Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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北多摩の凱歌の同志  

2005.6.12 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  築こう! 正義と幸福の我が郷土
 この六月六日の朝、私たち夫婦は、「牧口先生の誕生日」を記念して、広宣流布の戦いの道を最も堂々と開いてきてくださった村山総区、秋川総区、そして新立川総区の同志の健康と幸福を祈りながら、車に乗って、それぞれの地域を一巡した。
 勝利の晴天が輝いていた。緑の風が爽やかであった。
 フランスの文豪ユゴーは叫んだ。
 「一切のものが、生長し、増加し、強固になり、獲得し、前進し、今日は昨日よりも良くなることを欲する、この特性をもっている。これが光栄であって、また同時に生命なのである」(『シェークスピーア』本間武彦訳、『ユーゴー全集』12所収、ユーゴー全集刊行会)
 今日より明日へ、日々発展されゆく村山総区の皆様方は、去る五月二十九日、第二総東京より、わが恩師を宣揚する巣鴨の″戸田講堂″に賑やかに集われた。北多摩地域のうち、東村山・東大和・武蔵村山、そして東久留米・清瀬という五市を束ねる大舞台で、来る日も来る日も、「我此土安穏」のわが郷土を創らんと、日夜奮闘されている、勇気と希望に燃えた皆様の姿であった。それはそれは、意気軒昂な大会であったと伺った。私も学会本部で、皆様の勝利とご多幸を真剣に祈った。
 思えば、私が第三代会長に就任する直前、戸田先生のご家族を案内して訪ねたのが、春の花が萌え輝く東村山方面の天地であった。今日もなお、武蔵野の面影が薫る景勝の地として有名な、狭山丘陵に抱かれた、多摩湖の周辺である。遅々として去りゆかなかった冬も過ぎ、すくすくと草花が伸びゆく輝きの春に変わっていた。そして、この春の武蔵野に戸田先生を偲び、人知れず、私は弟子としての偉大な大闘争を、深く、強く誓ったものである。
 以来、四十五星霜――わが村山の同志は、その誓いを分かち合い、私と共に、本当によく戦い、勝ち抜いてくださった。私は、一生涯、村山の同志の奮闘を、忘れることはないだろう。
2  日蓮大聖人の御在世も、そして日興上人の時代も、最高首脳が裏切り、卑怯にも退転している。学会も、幹部の卑劣な退転者が出た。弾圧を恐れての臆病者どもである。学会の恩を仇で返した愚者どもである。仏法は仏と魔の闘争であるゆえに、そこには厳しき定理がある。戸田先生は、戦時中、投獄され、退転した幹部に激昂された。
 「なんと卑怯な意気地なしどもか! そんなやつは、弟子なんかではない。牧口先生を利用した卑劣な利己主義者どもだ!」
 さらにまた――学会のおかげで、難なく、皆に守られ、祝福されて、有名人になりながら、いい気になり、増上慢になって弓を引く反逆者は、厳然と追い出せ! 一生涯、仏法の厳しさを、因果の厳しさを思い知らせよ――とは、戸田先生の叫びであられた。また、牧口先生のご精神であられる。
 とくに、戸田先生は、「多くの方々にご奉公すべき身でありながら、いい気になって議員バッジを着け、威張り腐って支持者を見下し、恩人たちに反逆したり、名聞名利にとらわれていく輩は、断固として叩き出せ!」と、峻厳に訴えておられた。議員たちの前でも、厳しく指導しておられた。
 「あまり、皆に守られ過ぎて、おかしくなっていく奴らを、絶対にのさばらせてはならない。権力は魔性であるからだ」と厳しかった。また議員に対して、戸田先生は戒めておられた。
 「国家のために死に物狂いで働くべきだ。支援者に対しては、真心ある態度で、恩を返すべきだ」
 この言葉を、先輩の議員は今でも身に染みて、心に刻まれている。
 ある評論家いわく――「学会の人びとは、あまりにも人がいい。あれだけ応援して、議員にしてあげ、偉くしてあげたのに、裏切られて! 慢心し、傲り高ぶった議員たちに、権力を背景にのさばられて! 主権在民なのだから、もっともっと議員たちに厳しくあれ! 権力の横暴には、断固、戦い抜いてほしい。これが本当の信仰の魂に燃える、立正安国に前進しゆく創価の在り方ではないか」
 とりわけ、議員を終えた人たちは、人生の「大勝利」と「大敗北」の分かれ道にいる。ご存じの通り、一方は、立派な信心で、広宣流布のため、同志と共々に進んでいる尊き方々だ。
 反対に、金に狂い、名誉に狂って、大恩ある会員に裏切りの策略を企て、暴言を吐く連中がいる。こうした輩は、激しい怒りをもって追放すべきだ。
 日蓮大聖人は、厳然と仰せになられた。
 「不知恩の人間は、無間地獄に堕ちる」(御書八九五ページ、趣意)
3   村山の
    勝利勝ち取れ
      断固して
    鉄の団結
      魔軍を破りて
 村山総区の久米川の天地は、文永八年十月、流罪地の佐渡に向かわれる日蓮大聖人が一泊なされた、歴史ある宿場であった。
 その足跡を記された有名な「寺泊御書」には、法華経の「猶多怨嫉」の文と合わせ、釈尊に怨嫉した外道が、仏を「一大悪人」と呼び、さらに「一切の悪人が、そのもとに集まっている」と誹謗したという、涅槃経の文を引かれている(御書九五一〜二ページ)。そして、大聖人と一門への悪口罵詈が、これと同じ構図にあてはまることを、鋭く指摘しておられるのである。
 嫉妬と憎悪の讒言なのだ。嘘八百のデマであり、陥れんがための作り話なのだ。
 今日、私をはじめ、学会が受けてきた悪口罵詈等も、全く同じである。北多摩で勇敢に戦う、わが村山の同志が明快に見抜いてこられた通りだ。正義と真実の言論で、デマを打ち破ってこられた通りだ。誰が泥を塗ろうと策略をめぐらそうとも、真実は断じて真実である。
 牧口先生とも親交が深かった、著名な教育者である新渡戸稲造博士は喝破した。
 「ホラ吹きと臆病者は、同じ身体の中に宿っている」(『編集余録』佐藤全弘訳、『新渡戸稲造全集』20所収、教文館)と。
 嘘つきは、臆病である。ゆえに、強き正義の師子吼の前には、恐れをなして逃げ去るものだ。
 大詩人シラーも、小賢しい誹謗者どもに、鋭き寸鉄を放った。
 「鼠が、獅子に手向えるのか?」「おまえにできることといえば、歯ぎしりぐらいだ」(『群盗』久保栄訳、岩波文庫)
4  それは、大聖人の御入滅より満五十年を過ぎた元弘三年(正慶二年=一三三三年)の正月のことであった。師弟不二の弟子である日興上人は、生命を振り絞って、未来永遠のために二十六箇条の御遺誡を残された。そのなかの一箇条に、こう仰せである。
 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」と。
 思えば日興上人は、十三歳で師匠日蓮大聖人に師事されてより、御年八十八歳のこの時まで、七十五星霜――。蓮祖の伊豆流罪にも、佐渡流罪にも、また数知れぬ法難にも、「先陣をかけ日蓮に影の形に随うが如くせしなり」と記された通り、常随給仕の傍ら、先陣切って戦い、勝利の突破口を開かれた。
 そして大聖人が御入滅された時、日興上人は三十七歳。以来、半世紀にわたり、正法正義を厳護し、あの五老僧をはじめ、大聖人に背いた忘恩の輩を呵責し抜かれた。さらにまた、「立正安国」の大願を掲げて、幾度となく国主諌暁も敢行された。
 その五十年の、また七十五年の大法戦の総決算となる師子吼こそ、「広宣流布のために不惜身命で戦え!」との御遺誡であったのだ。広布のために戦って、戦って、戦い抜く魂――ここに、真の師弟がある。仏法の永遠の生命があるのだ。
 フランスの文豪ロマン・ロランは言い切っている。
 「生命は格闘である」(『内面の旅路』片山俊彦訳、『ロマン・ロラン全集』17所収、みすず書房)
5  さて、「日興遺誡置文」が残された、その同じ年(一三三三年)の五月、現在の村山総区の天地に繰り広げられた、歴史的な決戦があった。鎌倉幕府の軍勢と、その打倒を叫んで決起した新田義貞の軍勢の合戦である。(以下、『太平記』1〈後藤丹治・釜田喜三郎校注、岩波書店〉、『太平記』〈山崎正和訳、河出書房新社〉を参照)
 義貞はこの時、三十代前半であろうか。上野国(現在の群馬県)の新田荘で挙兵した時、彼の軍勢は、百五十騎ほどであった。だが、恐れなく、戦う決心がたぎっていた。幕府征伐の勅命を受けて、大義名分もあった。今、立たずして、いつ立つのか! 今、戦わずして、いつ戦うのか! たとえ一騎になろうとも、必ず鎌倉を攻め落としてみせる!
 時が来ていた。新田軍が、鎌倉を目指して南下を始めると、関東一円をはじめ、越後や甲斐からも、武士たちが馳せ参じた。勇気は、瞬く間に波動していったのである。彼らは、鎌倉街道を疾風の如く駆け上り、武蔵国の入間川河畔に到達した。
 新田軍は、まず小手差原で幕府軍と一戦を交え、さらに翌朝、敵が陣取る久米川近郊に総攻撃を仕掛けた。五月十二日のことである。現在の東村山と所沢にまたがる一帯で、ちょうど八国山周辺であるようだ。
 『太平記』によれば、この合戦は大乱戦であり、大激戦であった。「百戦の命を限りにし」と描かれた如く、百戦錬磨の命を「今この時しかない」と、両軍、死力を尽くした。
 しかし、「攻める勢い」が違った。「断じて勝つ!」という執念が違った。一進一退の攻防は、じりじりと新田軍が優勢となり、遂に幕府軍は大きく後退した。まさしく、戦いは「勝つ」と決めた方が勝つ。「久米川の合戦」は、新田軍の勝利となったのだ。
6  この久米川の合戦に続く分倍河原(現・府中市内)の合戦で、初日、新田軍は苦戦を強いられる。しかし幕府軍は、極めて優勢に立ったにもかかわらず、追撃を怠ってしまった。
 この″空白の一夜″によって新田軍は劣勢を立て直し、翌朝、反撃に打って出て、形勢を逆転したのである。
 「戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほとんど常に敗れる」(O・オブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳、岩波文庫)とは、ナポレオンの名言だ。
 攻撃精神を忘れるな! 追撃の手をゆるめるな! 我らは、一日一日、妙法という大生命力の太陽を胸中に昇らせながら、常に若々しく戦い抜いていくのだ!
 ともあれ、新田軍は日に日に勢いを増していった。そして遂に首都・鎌倉に突入し、五月二十二日、幕府を攻め落としたのである。五月八日に挙兵して、わずか二週間後の決着であった。
 新田軍の勝因の一つは、何といっても、義貞の「電光石火」の指揮であろう。「もはや立つ時!」と決断するや、猛然と打って出た。その勢いに、彼自身の予想を超えて、各地から続々と加勢が集まり来った。勢いが「味方」をつくるのだ。「戦いを起こすスピード」も、「進撃のスピード」も、「追撃のスピード」も速かった。まさに勝敗を決するのは「勢い」であるからだ。
7  わが学会もまた、このスピードで勝ってきた。攻め込む勢いもスピード。悪への反撃もスピード。友の悩みに、敏感に反応するのもスピードである。
 一九六九年(昭和四十四年)七月六日のことである。信濃町の学会本部で、一人の婦人が叫んだ。「先生、村山にも来てください!」
 必死の声に、私は即座に反応し、村山会館(現・村山緑が丘会館)に飛んで行った。今日の武蔵村山市内である。結局、この日、私は、北多摩を走り抜き、村山、立川、小平、小金井、そして中野区の、全部で五会館を休みなく駆け回ったのである。後年、私は、東村山の文化会館にも、東大和、武蔵村山の文化会館にも、寸暇を惜しんで走った。
 いつか東久留米にも、清瀬にも行きたい。北多摩に、わが尊き同志が、たくさんおられるから! そこに、広宣流布と真の平和の戦野があるから!
 大聖人は仰せである。「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよ
 断固と、正義の言論戦だ。さあ! 新しき五十年へ、幕は開かれた。決然と、新しき広布の英雄が躍り出て、戦う舞台は待っている。
 苦悩と戦い続けたべートーベンは、誇り高く語った。「困難な何ごとかを克服するたびごとに私はいつも幸福を感じました」(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』片山俊彦訳、岩波書店)
 すべての壁は、自身の可能性を広げる試練なのだ。今の自分から、新たな自分への飛躍台なのだ。
 わが信頼する村山の同志よ、眼前の壁に立ち向かえ! いな、打ち破れ! 一日また一日、その勇気の挑戦だ! 汝自身が、五倍、十倍と生き抜く、価値ある歴史が創られていくのである。疾風迅雷の進撃で、「多摩革命」を! 正義と誠実の対話で、「東京革命」を!
  大東京
    勝利 勝利の
      夜明けをば
    村山立ちて
      ついに迎えり

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