Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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晴れ渡る墨田の空  

2005.6.8 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

前後
8  行政の「墨田区」が誕生したのは、一九四七年(昭和二十二年)の春三月十五日のことである。十九歳の私が、戸田先生と出会った年であった。
 そもそも「墨田」という名前は、どこから来ているか。「墨」の字は、桜の名所として親しまれてきた隅田川堤の通称である″墨堤″に由来する。そして、″春のうららの″と愛唱されてきた隅田川から「田」の字をとって、「墨田」と名付けたといわれる。
 江戸時代の浮世絵師・歌川広重が、その隅田川堤の花見の賑わいを描いたことは、大変に有名だ。森鴎外や芥川龍之介、堀辰雄など、錚々たる文人たちも、ここに居住していた。
 この活字文化の歴史の薫る天地は、今や「聖教の墨田」「拡大の墨田」として、その名が全国に轟き渡っている。
 墨田は強い。墨田は明るい。墨田は朗らかだ。墨田は気取らない。墨田は温かい。
 来る日も来る日も、下町の路地から路地へ足を運び、あの友この友と、活発な対話を繰り広げゆく、勇敢なる墨田の同志たちよ!
 近年は、錦糸町駅の周辺をはじめ、街のたたずまいにも新しい変化が見られると伺っている。しかし、墨田の心のぬくもりは変わらない。
 「一国の首都は譬へば一人の頭部の如し」
 これは、墨田をこよなく愛した明治の作家・幸田露伴の有名な言葉である。今の東向島に住んだ露伴は、不朽の論文『一国の首都』で鋭く論じた。
 ″江戸が衰退した一因は、萎縮せる人士、自己中心主義の人士である″(『一国の首都 他一篇』岩波文庫、引用・参照)
 つまり、ちっぽけなエゴの殻に閉じこもる卑屈な人間、浅はかな利害に汲々とする人間が充満したことが、社会、そして国家の発展を妨げた。なかんずく、首都の人間の使命の自覚、内面の覚醒こそ、最も肝要であるというのだ。これは、二十一世紀の東京にとっても、重大な課題を意味している。新しき大東京を創造しゆく原動力が、必要なのである。
 地域の繁栄を祈り、勇んで社会に貢献する創価の友が、どれほど大切な宝の存在か。
 どうか、「人材の大河」墨田から、″東京ルネサンス″の新しいうねりを巻き起こしていただきたい。これが、皆の願いだ。
 「根気が強ければ、敵もついには閉口して、味方になってしまうものだ」(勝海舟『氷川清話』勝部真長編、角川文庫)
 墨田の本所に生まれ、江戸を戦火の危機から救った指導者・勝海舟の言葉である。
 ひとたび、信念の闘争に臨めば、一歩も退かない。断固として必ず勝つことだ。
 さあ、墨田の友よ! 最高に楽しき連戦連勝の「庶民の王国」を、さらに光り輝かせてくれ給え! 無限の希望と活力に充ち満ちた民衆の「幸福城」を、そして「不滅城」を、皆様の手で創り上げていただきたい。
  妙法に
    勝る兵法
      なきゆえに
    断じて勝たなむ
      墨田の我らは

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