Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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晴れ渡る墨田の空
2005.6.8 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)
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1
″三代″の闘魂は我が地域に滔々と
ナポレオンは叫んだ。
「虚偽と誤謬の上に作られたすべてのものは忽ちにして崩潰する」(『戦争・政治。人間――ナポレオンの言葉』柳澤恭雄訳、河出書房)
その通りである。だからこそ、「虚偽」と「誤謬」を、大風で吹き払う如く一掃していかねばならない。そして「真実」と「正義」の上に、崩れざる勝利の城を、堂々と築き上げていくのだ。
四月の二十九日、ナポレオン像も見守る八王子の東京牧口記念会館に、頼もしい墨田の「広宣流布の闘士」が集合した。「栄光の五月三日」を祝賀し、先駆者の意気、天を衝く大会を、明るく朗らかに開催されたのである。そこで、誇り高く歌われたのが、懐かしい墨田の愛唱歌「五月の空に」であった。
♪五月の空に誓いたる
先駆の誉れ輝きて
世界だ世紀だ勇み立て
ああ共戦の我が墨田
この歌は、昭和五十九年の一月二十一日、私が、墨田区江東橋にある功労者のお宅で行われた、墨田の代表者の懇談会に出席した折、発表されたものだ。
下町の同志の心意気は、いつも生き生きと雄渾である。後に、この日は晴れ晴れと地元の「支部の日」となり、毎年、近隣の方々も交え、友好の集いを、楽しく賑やかに行っておられると伺った。
私は、本当に嬉しかった。こうした垣根なき人間同士の温かい交流こそ、下町の人情であり、私も大好きである。そこに、広々とした仏法の人間主義の姿が、晴れやかに見えていくからだ。
さらにこの日は、使命に燃えた墨田区婦人部の意義深き「部の日」となっていった。
そこには、歓喜があり、希望があり、そして誓願の栄光の語らいが弾んでいった。真実の使命に生きる人! 真実の心を持てる人! そして真実の戦いをし抜いていく人には、充実と勝利と幸福の人生が待っている。
2
思えば、わが師・戸田城聖先生は、墨田の向島で第二代会長になられ、「七十五万世帯の大法弘通」を宣言された。その実現のために、二十五歳の私が、男子部の第一部隊長として、若き同志とともに、突破口を開いた舞台も、わが墨田、江東、江戸川を中心とする地域である。この激闘の歩みは、小説『新・人間革命』に書き記している。近々、掲載の予定である。
そして、戸田先生が逝去なされたあと、私が「七つの鐘」の大構想を新たに打ち出したのも、ここ墨田であった。墨田は、常に新しい広宣流布の「拡大の起点」であり、「勝利の原点」となってきたのである。
久遠より
苦楽を共に
永遠に
スクラム組みたる
墨田城かな
3
――その日は、雲一つない晴れ渡る青空であった。
一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日。この日、この時、私は、墨田区の両国にあった日大講堂で、第三代会長に就任したのである。三十二歳の私は、戸田先生がよく言われた十九世紀イギリスの名宰相ディズレーリの言葉を思い起こしていた。それは、「偉大な事業とは、そのほとんどが青年によって成し遂げられてきた」との断言である。
全国から集った約二万の親しき同志を前に、私は、青年らしく若々しく、そして革命児らしく恐れなく、正義の大長征の誓いを師子吼した。
「広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」
一歩前進!――それは、猛然と、眼前の壁を破ることだ。「新たな波」を、「戦いの波」を、「拡大の波」を、そして「勝利の波」を起こしゆくことであった。
ロシアの文豪トルストイは叫んだ。
「自ら精神的に成長し、人々の成長にも協力せよ。それが人生を生きることである」(『文読む月日』下、北御門二郎訳、筑摩書房)
何があろうが、断固として今日も一歩、そしてまた一歩と、限りなき力を秘めながら、前進をめざしゆくことだ。その飽くなき執念のなかにのみ、輝く栄光があるからだ。
シェークスピア劇の有名なセリフに、「永遠の平和という収穫を刈り入れるためには、苛酷な戦いという生死をかけた試みが必要なのだ」(『リチャード三世』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』4所収、白水社)とあった。
私の好きな言葉である。
4
学会の
心を知りたる
墨田なば
功徳の太陽
必ず昇らむ
この多くの歴史を秘めた墨田は、牧口先生と戸田先生が、「人間教育」に奮闘された天地でもあった。大正九年、牧口先生は、有力者の子どもを特別扱いしなかったために前任の学校を追われ、今の墨田区内にあった三笠尋常小学校に移られた。
その時、戸田先生は、敢然と、師弟不二の行動を共にされたのであった。当時、戸田先生は二十歳。師匠が大変な時に、弟子として、一人、師をお護りしたことを、戸田先生は、大きい誇りとされていた。
戦時中、弾圧されて投獄された時も、この「弟子の道」を貫き通されたことは、ご存じの通りだ。牧口先生の三回忌の席上、戸田先生は、東京・神田の教育会館において、厳かに語った。
「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」
私も、全く同じ決心で戸田先生にお供してきた。先生に襲いかかる「三類の強敵」とは、私自身が矢面に立って戦い抜いてきた。「広宣流布の師匠」を護ることこそが、「広宣流布の命脈」を護ることであるからだ。先生に師事したのは十年余であったが、二百年分、お仕えできたと強く自負している。
嬉しいことに、墨田には、この三代にわたる「師弟の心」を深く知る草創の同志がおられる。そして、そのあとに、大空のごとき心を持つ後継の青年たちが颯爽と続いてくれている。私は、御書の「聖愚問答抄」の一節を、この墨田の若き友らに贈ったことがあった。
それは――「もし仏法を行ずる人がいて、謗法の悪人を罰し正さないで、観念や思索だけを専ら修して、邪と正、権教と実教をも峻別せず、偽りの慈悲の姿を現す人は、諸々の悪人と一緒に地獄に堕ちる」(御書四九七ページ、通解)との教えである。
5
ビクトル・ユゴーは言った。
「川は人間の栄光を歌う」
隅田川の流れとともに、わが盟友も、春夏秋冬、たゆみなく、広宣流布と我が偉大な人生の「栄光の歴史」を、楽しく強く刻んできた。
ヨーロッパの「川の王者」といわれる、あのライン川の中流のドイツ・ビンゲン市には、私たちSGIの「ビラ・ザクセン総合文化センター」が堂々とそびえている。この一帯は、今日、世界遺産にも指定された景勝の天地である。「ここから見るライン川が一番美しい」とは、大詩人ゲーテの絶讃であった。
あのビクトル・ユゴーも、この地に足跡を留めている。そして、この地にまつわる「鼠の塔」の伝説を紀行に記したことは、大変に名高い。(以下、『ライン河幻想紀行』〈榊原晃三訳、岩波文庫〉より引用・参照)
それは――ライン川のほとりの都市マインツに、邪悪な高位の坊主が住みついていた。
その強欲な坊主は、凶作の年には、小麦を買い占めて、法外に高い値段で売りつけようとした。そのため、多くの庶民は飢えて死んでいった。生き残った人びとは嘆きの声をあげながら、坊主の宮殿を取り囲み、食糧を求めた。
ところが、坊主は残酷にも、兵士に命令して、その人びとを穀物倉に押し込め、揚げ句の果てに火を放ったのである。それは、「石も泣き出すような光景」であった。だが、そのあまりに痛ましい人びとの絶叫を聞いても、坊主は平然と言い放った。
「鼠がちゅうちゅう鳴いているよ」
翌日には、倉庫は灰と化した。ところが、その中で、無数の鼠が次から次に殖え出してきた。そして、悪逆な坊主を追いかけ始めたのである。坊主は必死で逃げ続けていった。城壁が張り巡らされたビンゲンにまで逃れると、ライン川の中に塔をつくらせ、隠れ込んだ。
しかし、鼠の大群は容赦なく川を泳ぎ、塔によじ登り、最後は地下牢にたどり着いた。そして遂に、その唾棄すべき坊主を、生きたまま食い尽くしたというのである。
ユゴーは、少年の日、お手伝いの女性が聞かせてくれた、この民話から――″罪には必ず罰が下る″″罪の末路は必ず責め苦である″″悪人は必ず不幸に陥る″との寓意(教訓)を深く感じ取っていった。
かつて墨田の寺に住みつき、遊蕩三昧に耽った悪鬼入其身の堕落坊主がいた。阿部日顕である。庶民からの赤誠の供養を貪り、大聖人に違背し、先師に敵対した法盗人である。ひいては、大恩ある信徒に嫉妬し、和合僧を破壊して、魂の大虐殺まで謀ったのだ。
これほど、人間の道を踏み外した背恩の極悪はない。「大罪」の至りであり、「無間地獄の業因」の極みである。法華経に照らし、御書に照らして、提婆達多の百千万億倍の仏罰を受け、未来永劫に断罪され続けることは、絶対に間違いない。
6
私は、そして私たちは、愛する墨田に、庶民の「平和と幸福の楽土」を勇敢に築いているのだ。その願いは、着々と達成されている。
墨田は、関東大震災や東京大空襲で最も甚大な被害を受け、庶民が最も悲嘆に暮れた無限の苦悩の歴史がある。ゆえに、「墨田の勝利」は「庶民の勝利」である。「庶民の勝利」は「平和の勝利」である。「平和の勝利」は「正義の勝利」である。
その庶民の幸福という扉を開いて、日夜、戦っておられるのが、墨田の同志の方々なのである。なんと尊い人びとか! なんと心の美しい同志か!
7
私は、この深き思いを込めて、墨田区の日大講堂から、幾たびとなく、日本へ、世界へ、重要な提言をしてきた。
世界平和のため、「核廃絶」への具体的な方途を提唱したこともある。二十一世紀の平和のフォートレス(要塞)たる「創価大学」の設立構想と使命を語ったのも、墨田の日大講堂であった。この講堂から、「ベトナム戦争」の停戦も、繰り返し訴えた。そして「沖縄の本土復帰」も、強く強く求めてきた。
一九六八年(昭和四十三年)の九月八日、あの「日中提言」を発表したのも、日大講堂で行われた学生部総会の席上である。
「広宣流布とは妙法の大地に展開する大文化運動」と、壮大なる展望を語ったのも、ここ墨田であった。その一回一回の会合の成功を真剣に祈り、いつもいつも変わらざる真心で支え、護ってくれたのが、健気な偉大なる墨田の同志である。
あまりにも
思い出多く
歴史ある
墨田の国土の
不思議光りぬ
8
行政の「墨田区」が誕生したのは、一九四七年(昭和二十二年)の春三月十五日のことである。十九歳の私が、戸田先生と出会った年であった。
そもそも「墨田」という名前は、どこから来ているか。「墨」の字は、桜の名所として親しまれてきた隅田川堤の通称である″墨堤″に由来する。そして、″春のうららの″と愛唱されてきた隅田川から「田」の字をとって、「墨田」と名付けたといわれる。
江戸時代の浮世絵師・歌川広重が、その隅田川堤の花見の賑わいを描いたことは、大変に有名だ。森鴎外や芥川龍之介、堀辰雄など、錚々たる文人たちも、ここに居住していた。
この活字文化の歴史の薫る天地は、今や「聖教の墨田」「拡大の墨田」として、その名が全国に轟き渡っている。
墨田は強い。墨田は明るい。墨田は朗らかだ。墨田は気取らない。墨田は温かい。
来る日も来る日も、下町の路地から路地へ足を運び、あの友この友と、活発な対話を繰り広げゆく、勇敢なる墨田の同志たちよ!
近年は、錦糸町駅の周辺をはじめ、街のたたずまいにも新しい変化が見られると伺っている。しかし、墨田の心のぬくもりは変わらない。
「一国の首都は譬へば一人の頭部の如し」
これは、墨田をこよなく愛した明治の作家・幸田露伴の有名な言葉である。今の東向島に住んだ露伴は、不朽の論文『一国の首都』で鋭く論じた。
″江戸が衰退した一因は、萎縮せる人士、自己中心主義の人士である″(『一国の首都 他一篇』岩波文庫、引用・参照)
つまり、ちっぽけなエゴの殻に閉じこもる卑屈な人間、浅はかな利害に汲々とする人間が充満したことが、社会、そして国家の発展を妨げた。なかんずく、首都の人間の使命の自覚、内面の覚醒こそ、最も肝要であるというのだ。これは、二十一世紀の東京にとっても、重大な課題を意味している。新しき大東京を創造しゆく原動力が、必要なのである。
地域の繁栄を祈り、勇んで社会に貢献する創価の友が、どれほど大切な宝の存在か。
どうか、「人材の大河」墨田から、″東京ルネサンス″の新しいうねりを巻き起こしていただきたい。これが、皆の願いだ。
「根気が強ければ、敵もついには閉口して、味方になってしまうものだ」(勝海舟『氷川清話』勝部真長編、角川文庫)
墨田の本所に生まれ、江戸を戦火の危機から救った指導者・勝海舟の言葉である。
ひとたび、信念の闘争に臨めば、一歩も退かない。断固として必ず勝つことだ。
さあ、墨田の友よ! 最高に楽しき連戦連勝の「庶民の王国」を、さらに光り輝かせてくれ給え! 無限の希望と活力に充ち満ちた民衆の「幸福城」を、そして「不滅城」を、皆様の手で創り上げていただきたい。
妙法に
勝る兵法
なきゆえに
断じて勝たなむ
墨田の我らは
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