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日蓮大聖人・池田大作

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21世紀の希望都市・町田  

2005.5.20 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  「新しき時代」は「新しき力」から
 ナチスと勇敢に戦った大文豪ロマン・ロランは、ペンに託して叫んだ。
 「さあ、風よ吹け!われわれはどんな境遇にも負けはせぬ」(『バリオーニ一族』波多野茂弥・玄善允訳、『ロマン・ロラン全集』13所収、みすず書房)
 「われわれを害せんとしてる敵よ、諸君の攻撃もわれわれには達しないであろう。われわれは諸君の打撃を超越しているのだ」(『ジャン・クリストフ』4、豊島与志雄訳、岩波文庫)
2  この五月の八日は、独裁者ヒトラーを失ったナチスが遂に降伏し、第二次世界大戦がヨーロッパの地で終結してより、六十周年に当たっていた。
 その日の朝、第二総東京の婦人部の祈りを映したように、五月晴れの平和な青空が広がっていた。私は、妻と共に、愛する町田へ、愛する特区へと、車で向かった。この日は、また「母の日」の日曜日でもあった。日々、広宣流布の勝利のために、勇敢に戦っておられる町田の同志に、なかんずく尊き婦人部の皆様方に、せめて短時間でも、車中から題目を送りたかったのである。
 町田街道をしばらく進み、向きを変えて、小山ケ丘という活気ある新興の住宅街も走った。少し小高い所で、懐かしい相模原の橋本駅周辺も一望できた。道々、地域に根ざして友好を広げておられる宝寿会の方をはじめ、わが同志のお宅の前も通りかかった。
 ちょうど、その時間、町田文化会館では、親愛なる壮年部の皆様が、意気軒昂の会合を開催しておられたようだ。町田家族の前進を「すごいね!嬉しいね!」と妻と語り合いながら、わが同志の福徳と勝利を、真剣に祈った。
3  東京を一つの開いた「扇」と見るならば、町田は、まさに、その「要」に位置する。
 昨年、発展めざましい町田総区は五つの分区の体制へと大拡大した。それぞれ「南」「町田」「鶴川」「忠生」、そして「堺」の名を冠している。いずれも、市制が発足する以前の由緒ある五町村の名前だ。地域・郷土の伝統を大切にしながら、未来へ向かって、新たな大建設が力強く始まっている。
 町田は、私にとっても忘れ得ぬ天地だ。若き日、戸田先生の出版社で、児童雑誌「少年日本」の編集長時代に、玉川学園に住む画家のお宅を訪問した。今の「町田本陣区」の地域である。そして、私が文京の支部長代理をしていたころ、相模原の橋本に一つの地区があって、よく通ったものである。この「橋本地区」の中に、草創の「町田班」も、「八王子班」もあった。
 町田が「市」として産声をあげたのは、昭和三十三年のことであった。この年の四月二日、恩師・戸田先生が逝去され、真の後継の弟子として、私たちの「師弟不二」の正義の遠征が始まったのである。
 当時、町田市の人口は六万人であった。それが、今や四十万人を突破した。先日、私が訪れた「堺旭日区」の多摩境駅周辺、そして「南王者区」の鶴間地域、「鶴川常勝区」の広袴地域を中心に、町田の躍進は著しいものがある。さらにまた、隣接する神奈川の相模原市の人口は六十万人であり、二市合わせれば、実に百万人の巨大な都市圏を形成するまでになった。わが特区・町田と相模総県の創価の同志も、交流座談会など、麗しい往来を重ね、偉大な民衆連帯を広げておられる。
 「新しき友情」を! 「新しき連合」を! その「新しきスクラム」から、必ず「新しき勝利の力」が生まれるのだ。
4  ここ町田は古来、いわゆる「鎌倉街道」の幹線(上ノ道)の道筋にあった。文永八年、佐渡に向かわれる日蓮大聖人も、ここ町田を通られた。街道は町田の中央に位置する「七国山」を通っている。この山は、わが「忠生凱旋区」の地域である。かつて、周辺の七つの国(相模・駿河・伊豆・甲斐・信濃・上野・下野など)を見渡すことができたことから、この名がついたといわれる。まさに「要衝」の地なのだ。
 この町田の重要性に、私も早くから着目してきた。「東京にも神奈川にもない、一つの独立した地域として、世界に模範の理想的な国土を建設しよう!」と訴えたのは二十年前のことだ。日本初の「特区」として大前進を開始してより、本年で十周年でもある。不思議にも、二十一世紀の町田は、広々と七国を見渡すが如く、全首都圏を結びゆく模範の電源地となってきた。
 近代史を見れば、多摩地域にあって、町田は、明治初期の「自由民権運動」の発祥の地ともいわれている。野津田には「自由民権資料館」があり、市内の各地に、歴史変革の偉大な足跡が残っている。町田の青年たちが、民権運動の先頭に立って、日本の民衆史に輝きわたる連帯を築き上げていったのだ。奔流の如く、次々に入ってくる世界の新知識を、青年たちは貪欲に吸収した。彼らは常に集い合い、学び合った。政治の現状を憂え、国の前途を真剣に討議した。民衆のなかに飛び込み、熱烈に理想を訴えた。筆をとっては新聞・雑誌に発表した。
 動かずにいられなかった。叫ばずにいられなかった。戦わずにいられなかった。政治も、社会も、国家も、一部の権力者の独占物では断じてない! 我らが新時代を創るのだ!
 町田にゆかりの深い詩人・北村透谷も、当時、着ていた法被に″時めぐり来る″(=「土岐・運・来」)と染め抜いて、多摩の民権運動家と交流を広げたという。
 立ち上がる時は来た! まさに青年が、そして民衆が、「変革の主役」の自覚で立ち上がったのだ。
5  私の師である戸田先生は、「青年とは批判力猛し」と、鋭く見つめておられた。理想、情熱、向上心、進取の気風、正義感、闘争力……青年の胸に熱く燃える闘魂は、卑劣な邪悪を怒り、堕落と旧弊の壁を打ち破らずにいられない。若き北村透谷は叫んだ。
 「偉大なる国民には必らず偉大なる思想あり」「われらが尤も悲しく思ふは、一国の脊膸なる宗教の力の虚飾に流れ、儀式に落ち、活きたる実際的能力を消耗し去りたる事なり」(『北村透谷集』勝本清一郎校訂、岩波文庫)
 偉大なる思想、偉大なる宗教が、どれほど大事か。「立正安国」を掲げ、民衆のため、社会のために戦うわが同志こそ、尊き「国の宝」の存在なのである。
 さらに彼は、庶民を食いものにして私腹を肥やす、厚顔無恥の権力者を激しく弾劾してやまなかった。「政治家の仮面を取り去れ!」と。欺瞞と虚勢の仮面などに、断じて騙されてはならない。戸田先生が、「心して政治を監視せよ!」と、青年に厳命された通りである。
6  南アフリカの「正義の巌窟王」マンデラ氏(前大統領)が、私たちの言論の城・聖教新聞本社を訪問してくださったのは、一九九〇年十月三十一日の秋晴れの日であった。
 二十七年半、一万日に及ぶ獄中闘争を勝ち越えて出獄されたマンデラ氏の笑顔は、いかなる苫難の闇も打ち破る「太陽」の如くであった。
 会見の席上、私は南アフリカの先覚の人びとに深い敬意を込めて、両国の教育・文化交流を提案した。その一つとして具体的に掲げたのが、反アパルトヘイトを訴える写真展(ヒューマン・ライツ写真展)であった。
 「民権運動」の源流の地・町田の青年部は、この私の心を心として、マンデラ氏との約束を守るべく、友情と信念の写真展を意義深く開催してくれた。アパルトヘイト(人種隔離政策)の傷跡がなお深い時代にあって、真剣にして英通な町田青年部は、創意工夫を重ね、人権意識の調査やアフリカヘの理解を深めゆく行事も推進していったのである。嬉しいことに、当時の青年たちが、今や町田広宣流布の柱となって活躍している。
 マンデラ氏は、創価学会、SGI(創価学会インタナショナル)のことを、こう呼ばれた。
 「人類の『永遠の価値』を創りながら、その価値によって、人びとを結びつけている団体!」と。
 ともあれ、広宣流布とは、根源の悪である無明の闇を破り、万人の胸中に、仏界という尊極の生命を輝かせていく戦いだ。最も根本的な革命であり、人権闘争である。人びとの生命を根底から揺さぶるのだ!
 「法華経は一切衆生の元品の無明を破るゆえに、大震動がある」(御書一一四一ページ、通解)――これは現在、町田総区の青年部が現代語訳を進めている「瑞相御書」の重要な一節である。
 まばゆい太陽を浴びて、闇に潜む悪が驚き慌てる如く、正法を説けば、三障四魔も、三類の強敵も競う。しかし、だからこそ、充満する悪人を震え上がらせ、正義なき悪世に、正義を断固と打ち立てていけるのだ!
7  町田には、常に新しい風がある。若々しい息吹がある。年代別の人口で、「三十代」が最も多いという町田。若い世代への期待は大きい。その若き力が友情で結ばれ、地域建設のスクラムが広がっていくならば、町田は、二十一世紀の「人間共和の都」となるにちがいない。そのために、わが青年よ! 勇気をもって「人と会う」ことだ。堂々と「人と語る」ことだ。
 文豪ゲーテは、人づきあいが苦手な青年に、「性に合わない人たちとつきあうこと」の意義を、こう語っている。「それを通して、われわれの心の中にあるいろいろちがった側面が刺激されて、発展し完成する」「やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ」(エッカーマン『ゲーテとの対話』上、山下肇、岩波文庫)
 要するに、「人間の海のなかで汝自身を鍛えよ!」ということである。
 君たちよ、その挑戦の先頭に立ちゆけ!近隣の友、地域の友と大いに交流し、信頼という不朽の財産を築いてくれ給え! そこに「希望都市」町田の豊かな未来があるからだ。
 そして、価値ある君たちの人生が、さらに何倍も何十倍も大きく開けていくからだ。
 御聖訓には――「草木でさえ、友の喜び、友の歎きは、一体である」(御書九三四ページ、通解)
 「たとえ他人であっても、心から語り合えば、命にも替わるほど、大切にしてくれるのである」(御書一一三二ページ、通解)等と、深き友情の道が示されている。
8  「いざ、鎌倉!」
 一旦緩急の時あらば、万事をさしおいて、鎌倉に駆けつける、その天晴れな「丈夫の心意気」を凝結した言葉だ。町田を通る、いにしえの「鎌倉街道」は、そのために開かれたともいわれる。思い出深い町田文化会館の前の道は、現在、同じ「鎌倉街道」と名づけられている。
 今、私の胸には響いてくる。「いざ、広宣流布の決戦!」と闘志をたぎらせて、町田の道を疾駆しゆく、わが友の躍動する足音が!
 私はかつて、偉大な町田の勇者の皆様に、万感の思いを筆に込めて贈った。
 「町田の大道」――前進なくして大道なし。戦いなくして大道なし。
 「町田の大道」は、「師弟の大道」だ。「栄光の大道」だ。「連戦連勝の大道」だ。百戦錬磨の誉れ高き友が、先頭に立って開く大道である。
 民衆詩人ホイットマンは、「大道の歌」に詠った。
 「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて!
 決められた決勝点は取り消すことはできないのだ」(『詩集 草の葉』富田砕花、第三文明社)
 町田の同志よ、我らの栄光の大道は眼前にある。
 さあ、出発だ! 大勝利の決勝点へ走り抜くのだ!

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