Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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正義の闘魂輝く目黒  

2005.5.5 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

前後
1  『勇気』と『智慧』と『団結』で勝て
 わが師・戸田城聖先生は、それこそ時間があれば、いつも、私たちに御書を拝読するように言われた。文永十年(一二七三年)の五月、日蓮大聖人が佐渡流罪の渦中に認められた「如説修行抄」も、先生とご一緒に深く拝したものである。
 それは、市ケ谷の先生の会社の小さい事務所の一室であった。二人きりの講師と学生であった。厳格な先生は、大聖人の最も厳格そのものの御聖訓を通して、教育してくださった。
 「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、しかるに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ
 法難は、法華経を正しく行じている証明だ。ところが、いざ大小の難が起こると、肝を潰して、臆病になる。信心を失い、退転してしまう――この敗残の生命を峻厳に打ち破られた御文である。講義の終わった後、私の生命は、それはそれは強く深い衝撃を受けた。
 本当の仏法とは、これか! 本当の信心とは、これほど厳しいのか! そして、本当の学会の活動と使命とは、これほどまでに御聖訓通りの厳格さがあるのか! と。
 「何があっても恐れるな! 一歩も退くな!」
 先生のあまりにも厳しき指導であった。今でも、その時の、講義をなされる師の吐く息が、強く温かく、わが生命に呼吸していることを感ずるのである。
2  この四月の十二日、私は、春雨に包まれながら、品川区上大崎にある駐日コロンビア大使公邸に参上し、来日中のウリベ大統領と会見した。
 五十二歳。まさに働き盛りの大統領であられる。多忙な日程を気遣い、「お疲れでしょう」と申し上げると、即座にこう応じられた。
 「私には疲れることは許されていません」
 さすが、陣頭指揮、率先垂範の猛烈な仕事ぶりで知られる大統領である。戦う気概がみなぎっておられた。不屈の指導者の人格を、この時、私は直感した。私は、南米解放の英雄シモン・ボリバルの言葉を、幾つか大統領に語りながら、贈らせていただいた。
 「私は、困難を恐れなかった。それは、大いなる事業への情熱に燃えていたからだ」(Obras Completas 2, Editorial Lex)
 「団結しよう、されば我らは無敵となる」(Escritos del Libertador X, Sociedad Bolivaiana Venezuela)等々……。
 大統領の帰国直前の会見が有意義な語らいとなったことを、シエラ駐日大使ご夫妻も大変に喜んでくださった。大使の公邸は、かつて戸田先生が創価教育の実践場とされた私塾「時習学館」があった場所にもほど近い。公邸を出ると、車は、幾たびとなく戸田先生と師弟して降り立った目黒駅前から、山手線を右に見ながら、北へ進んだ。共に車中にいた長男の博正が言った。
 「この辺りが、目黒区の三田ですよ」
 瞬間、懐かしさが胸にあふれた。三田は、一九五二年(昭和二十七年)の五月三日に妻と結婚して、最初に住んだ土地である。私たち夫婦は、ここ目黒の天地から、広宣流布への遥かな共戦の旅路を開始したのであった。
 車窓の外を見ると、私がかつて通い続けていた街並みは、すぐにはわからないほど一変していた。あまりにも著しい変化と発展の姿が広がっていた。はつらつとした目黒の新しい躍進の息吹が感じられて、私は嬉しかった。
3  「徳行は善人によって愛されるよりは悪人によって迫害されることのほうがはるかに多いものです」(『新訳ドン・キホーテ』全篇、牛島信明訳、岩波書店)
 これは、本年、出版四百周年を迎えた名作『ドン・キホーテ』に、作者セルバンテスが綴った有名な言葉である。私も、その通りだと思う。我らの平和の大行進も、いわれなき誹謗中傷の連続であったからだ。
 一九七九年(昭和五十四年)前後、学会に対し、私に対し、御書に仰せの通りに、愚劣極まる迫害の嵐が狂気の如く吹き荒れた。学会員に向かって、低俗な週刊誌のデマを振りかざし、「学会は謗法」等と喚き散らす坊主たち、学会員の誠心を土足で踏みにじる、忘恩の冷酷な坊主どもが多くいた。
 この目黒でも、坊主の狂態は目に余った。哀れに「ものにくるう」様は、「悪鬼入其身」(法華経四一九ページ)そのものであった。皆が呆れた。皆が怒った。その悪行の数々を、断じて忘れない。断じて許さない。これでは、宗門は必ず将来は狂いに狂って衰亡することは間違いないと、私たちは直観した。皆様、ご存じのように、仏法の道から外れた、あの悩乱ぶりであった。
 御聖訓に、「一切の仏法も又人によりて弘まるべし」と仰せではないか! 広宣流布に戦う人間を護らずして、どこに仏法があるのか! さあ、反撃だ! もう一度、創価の師弟の結合から、広宣流布の炎を燃え上がらせるのだ! 断じて負けるな! と、私は、目黒へ走った。
 ある時は、目黒在住の功労者の小泉隆さん宅を訪ね、居合わせた友らを勇んで励ました。ある冬は、今は目黒国際文化会館へ新装になった旧・目黒平和会館に立ち寄った。愛する同志を励まし、健気な同志を守り、そして大切な同志と共に記念撮影をしたことも忘れることができない。
 あの″雪の秋田指導″に飛び出す前日にも、大事な目黒の同志と共に、意義深き将来のための作戦と打ち合わせの一時を過ごした。それは、一九八二年(昭和五十七年)の一月九日のことである。
 「壁を破ろう!」と、目黒として一年間で「一千世帯の折伏」を達成すると誓願した、師弟の儀式の日でもあった。この日が、現在の「目黒師弟正義の日」となっていったのだ。
4  その歴史を見る時、私は、江戸時代の末期、破邪顕正の法戦に立ち上がった、偉大な目黒の庶民がいたことを、思い起こさずにはいられない。その人の名は、永瀬清十郎である。
 彼は小間物の行商をして資金を作りながら、東北や中部など地方まで弘教を進めた。ことに尾張の国に及んだ折伏が発端となり、文政から安政年間の数回にわたる「尾張法難」が起こったのは、あまりにも有名である。まことの時に決然と立った「一人」が、大波を呼び起こしていったのだ。
 また、江戸砂村(現・江東区内)の身延系信者との対論を契機に始まった「砂村問答」も、大いに正義を宣揚して、今も語り継がれている。数度に及んだ問答は、武士らとの法論となった。あの身分差別の厳しき封建社会にあって、町人・清十郎は、少しも臆することなく、御書を根本に、難問答巧みに邪義を破折していった。相手は答えに窮し、悪あがきの屁理屈をこねた。清十郎は一喝した。
 「勝敗は既に決した。質問するなら、まず降参せよ!」
 目黒の庶民・清十郎の勝利であった。圧倒的な、正論の勝利であった。烈々たる折伏精神の勝利であった。
 「砂村問答」から百数十年後の一九八二年、わが目黒の朋友は、猛然と正義の対話を繰り広げた。この年に達成した日本第一の「弘教千百十五世帯」は、邪宗門の暗闇を破る、大勝利の金字塔として今でも光っている。
 目黒は、強くなった。激戦また激戦を貫き、一年また一年と強くなった。あの当時、評論家、マスコミの誰が、今日の学会の隆盛を予想したであろうか。そしてまた、邪宗門と叛逆の輩は、全く哀れな姿で衰亡の一途をたどっている。名前を言わずも、その落ちぶれた厳罰に苦しむ姿は、皆様、ご存じの通りだ。国家権力をもって、わが正義の創価学会を中傷し、弾圧した政治家の末路が、どれほど惨めであるか。
 「末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」――この厳たる賞罰こそ、邪悪を責め抜いて勝った、正しき仏法の勝利の証である。我らは断じて勝ったのだ!
5  「牧口先生は目白で、私は目黒だ」
 牧口先生のお宅は、豊島区の目白であった。そこで、戸田先生のお宅は現在の港区白金台であったが、最寄りの目黒駅の名を引いて、よく師弟不二の不思議な縁を楽しげに語っておられた。当然、先生は、何度も目黒に足を運ばれた。自由が丘もその一つであった。戦前から″自由″を冠したこの街には、日本の創作舞踊の先駆者・石井漠氏が住んでおられた。戸田先生は青年たちを連れて、よく旧知の石井氏のお宅を訪問されたようだ。(石井歡人『舞踊詩人 石井漠』未来社、参照)
 「漠さん、いるかい!」
 その元気な声を、ご子息で著名な音楽家の石井歡氏が鮮明に覚えておられ、以前、聖教新聞のてい談でも、懐かしそうに語られていた。
 ともあれ、目黒は、戸田先生が「友情」と「友好」を広げられた歴史も深き舞台であった。同志の皆様方は、この目黒の街を「わが使命の天地」と決め、誠実に、また真剣に走り抜いておられる。
 「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ
 この御聖訓を″自分自身にいただいた″と誇り高く、偉大な目黒の同志は、断固として、広宣流布に一歩前進の姿を示している。愛するわが目黒で広宣流布に戦い抜く、あまりにも尊き姿よ! 負けるな、目黒! あまりにも意義深き歴史の目黒よ! 断じて、勝て! 東京第一の目黒になるのだ。
 目黒戸田区と目黒池田区は昨年の発足以来、″二つの車輪″の如く、絶妙な異体同心の団結で、美事な大発展を遂げている。広布の責任と使命に燃える新たなリーダーも、嬉しくも多数、誕生したようだ。
 この拡大を機に、聡明な指導者たちは、「今まで以上に、細かく一人ひとりに光を当てられる絶好の機会だ!」ととらえた。皆様方の懇切丁寧な指導、粘り強き激励の光が、新しい目黒に注ぎ始めていったのである。「一人を大事に」という急所に、皆の力を糾合し、その結果、二倍三倍の力を発揮していったのだ。まさに、変化を「発展のチャンス」「壁を破る好機」としたのである。
 賢明にして勇気ある、戸田先生ゆかりの目黒に、さらに、偉大な歴史を飾りゆけと、私は申し上げたい。ことに、男子部、女子部、学生部が水を得た魚の如く大活躍している。今年に入ってからも、結集・拡大の勢いはとどまることを知らない。嬉しく、頼もしい限りである。
 我らは偉大な勇気で勝つ! 我らは無量の智慧で勝つ! そして鉄壁の団結で勝つ! 
 その勇気と智慧と団結が妙法だ。常勝の将軍学だ。
 アメリカの哲人エマソンは言った。
 「すべて積極的なものは善である。ただそれを正しい場所に置くのが肝腎だ」(『エマソン選集』3、小泉一郎訳、日本教文社)
 為すべき時に、為すべきことを為せ! それも強気で! 断固として強気で!
 勝利の栄光は、その勇者たちの手にあるのだ。

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