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日蓮大聖人・池田大作

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雄々しき学会歌とともに  

2005.4.28 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  威風堂々と創価の大前進
 ドイツの文豪ゲーテのあの『ファウスト』に書かれた文章は、多くの学生に鋭く支持された。
 「自分に都合がわるければ、善であろうと、美であろうと、
 すぐにけちをつけたがる人々、
 おれはすでにそういう人間には慣れている」(『ゲーテ全集』2、大山定一訳、人文書院)
 つまり、愚かな嫉みの連中など、相手にするな! 見下していけ! というのである。
2  我らの「栄光の五月三日」を祝賀する今回の本部幹部会で、学会歌「紅の歌」の歌詞が、新しくなったことが紹介された。
 この「紅の歌」は、いまだ、あの嫉妬に狂い叫ぶ坊主どもによる、第一次の宗門事件の激浪が続いていた、一九八一年(昭和五十六年)の十一月に発表されたものだ。それは、私が″正義の反転攻勢″を期して四国を訪れた際、男子部諸君とともに、楽しく、そして真剣に作り上げた歌だ。
 この皆から愛されて歌われた「紅の歌」は、誕生してから既に四半世紀近くになるが、先日、青年たちと懇談するうち、新たな思いが胸に突き上げてきた。それは、三番の――「老いたる母の 築きたる 広布の城をいざ 護り抜け」という歌詞のことだ。「母」の労苦のなかに学会のすべてがある。学会を護ることは、この「母」を護ることである――そういう思いを込めた歌詞であった。
 「この一節に『父』を加えて、『父母』としたいが、どうだろうか」
 二十一世紀を担う青年に、広布後継の魂を伝え抜くためには、偉大な「父」への敬意も込めたかったのである。私の提案に、青年たちも、大賛成であった。
 「よかった。これで完璧になるね。壮年部の皆さんも、喜んでくださるだろう」
 そして、凛々しき「音楽隊・しなの合唱団」の方々に新しい歌詞を吹き込んでもらったテープも聴き、最終的に「老いたる父母の……」と決まったのが、四月十五日のことであった。
 聞けば、この翌日には、「紅の歌」誕生の天地である四国の同志が、はるばる八王子の東京牧口記念会館に集い、意気も高らかに大会を開催するというではないか。ちょうど二十五年前(一九八〇年)の一月、約千人の四国の友が、客船「さんふらわあ7」号で、海の見える神奈川文化会館にいる私のもとへ来てくださり、胸熱く、もてなしたことが思い出された。
 そこで、全国に先立って、わが四国の皆様方にお伝えしたのであった。
3  ♪ああ紅の 朝明けて
  魁光りぬ 丈夫は……
 ともあれ、「紅の歌」は、詩心の国「詩国」――四国で生まれたのだ。これこそ永遠不滅の歴史となっていくにちがいない。
 一九八一年(昭和五十六年)の秋十一月、瀬戸内海の絶景の朝日と夕日に輝く、香川・庵治町の四国研修道場で、多くの友と私は、数日間、研修に明け暮れた。
 その可愛い大切な四国の青年たちは、未来への眼差しを輝かせながら、「黎明の歌」と題する歌詞の案を見せてくれた。彼らは真剣であった。心が燃えていた。あまりにも瞳の光が美しかった。この新しく生まれゆかんとする「正義の歌」で、彼らは必ず「新しい正義」を、「新しい広布の突破口」を、更に更に、そして一段とまた一段と、奇跡的な勢力をもって、切り開いてみせるという気概に満ちあふれていた。
 私は胸打たれた。私は嬉しかった。私は、学会の未来は洋々と開かれていくだろうと確信した。そこには、師弟の呼吸があった。その真剣な心が、私は涙が出るほど嬉しかった。よし、一緒に作ろう!
 「少し直してもいいかな」――皆の了承を得て、私は、まず、歌の題名を「紅の歌」に変えた。「紅」の一字には、熱血の情熱が燃えている。真っ赤な太陽のイメージもある。「真実一路」の赤誠にも通じる。
 それから私は、推敲に推敲を重ねた。四国を発つ間際まで四日間、熱き魂を込めた。二十数回に及んだ添削のなかで、その入魂の思いを、青年たちに伝えていった。
 一番に「邪悪の徒には栄えなし」の歌詞がある。私は強く、強く語った。
 「現実の歴史には、善人が陥れられ、悪人が卑劣な手で栄える悲劇があまりにも多かった。この一節は、その苦渋の歴史を転換していく、闘争宣言なんだ。断じて、弱い正義ではいけない。正義が勝って、歴史を変えるのだ!」
 それまでの数年間、裏切り者たち、邪悪な反逆者、更には驕慢の坊主どもの謀略によって、どれほど健気な学会員が苦悩し抜いたことか――。もしも正義の学会が敗れてしまったら、悪党どもが正義面してのさばる。人間と人間の幸福の城は崩され、人類の希望の炎が消えてしまう。これほど悲しく恐ろしいことはない。
 だから戦うのだ! 邪悪を責め抜くのだ!
 邪悪な坊主と戦うのは、あくまでも正しいのだ!
 御書には、「悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべし」と厳しく仰せである。ゆえに、今日でいえば、どこまでも日顕宗の坊主を責め、勝ちゆかねばならない。
 ともあれ、正義の勝利の太陽を昇らせてゆくのだ! 赤々と燃える、その戦いの歌こそ「紅の歌」であった。
4  「紅」燃える正義の炎が、男子部の魂とすれば、女子部には、萌え出る「緑」の清新なる息吹がある。それは「緑の栄冠」――私も、妻も、この女子部の愛唱歌が大好きだ。
 そのみずみずしい歌声を初めて聴いたのは、昭和四十三年の五月、青年部の野外研修であったと記憶する。舞台は、武蔵野の青葉に包まれた、創価大学の建設予定地であった。武蔵野の緑の林は、あまりにも静かであった。大きく燃え上がる青春の炎ともいうべき、記念の″大焚き火″の前に、凛々しき女子学生たちが進み出た。
 ♪朝日に薫る 清新の
  若葉の樹々に 風そよぐ
  …… ……
 春夏秋冬――移りゆく季節のドラマが目に浮かぶような美しい歌詞であり、旋律である。
 青春という人生の新緑の季節を生き抜く、女子学生部の友が作った歌である。
 当時、全国の大学は、学生運動の熱狂が渦巻いていた。だが、この歌には、急進的な思想に狂い踊る世相とは対照的に、若木が大地にどっしりと根を下ろし、大空高く、希望に向かって伸びていく青春が歌われていた。
 「希望」があった。「ロマン」があった。「勝利の人生」があった。「師弟の心」があった。
 ――名曲ができたな。
 「緑の栄冠」は、私の忘れ得ぬ歌となり、やがて全女子部の愛唱歌となった。今も私は、この乙女たちの″青春の心の歌″を聴くと、万感の思いが湧いてくるのだ。
 二十一世紀を生き抜く乙女たちよ! 貴女たちは、華やかな流行や人気を追って右往左往する、あの空騒ぎに惑わされるな! まっすぐな心を歪める、悪意と嫉妬の泥沼に足を取られるな! この歌のごとく、わが使命の場所で断じて勝て! 嵐や雷や雪にも負けず、そこで、大樹と育ちゆけ! そこに真実の幸福があり、「緑の栄冠」――生命の凱歌の宝冠が輝いていくからだ。
5  創価の前進は、常に、民衆の歌声とともにあった。わが音楽隊、鼓笛隊、合唱団の皆様が響かす、大音声とともにあった。
 四十五年前、私が第三代会長に就任した昭和三十五年は「前進の年」であった。その時、広宣流布の大進軍の歌声を轟かせ、勝利、勝利、また勝利と、全同志を鼓舞していったのが、「威風堂々の歌」である。
 ♪濁悪の此の世行く 学会の
  …… ……
  威風堂々と 正法かざし
  駒を進めば 草木もなびく
 歌には、師子王の誇りと情熱がみなぎる、勝利への行進があった。
 我らは宗教界の王者なり! 我らは思想界の王者なり! ゆえに我らが、邪悪を打ち破り、苦悩の民衆を救わん! 正義の道を、いつまでも悠然と! 苦しみ悲しむ人びとを包みながら行進する、尊き足音よ!
 一見、激烈とも思える歌詞は、人間を不幸にする邪悪と戦う心が燃えているからだ。
 大聖人は、「たとえ強い言葉であっても、人を助け救うならば、真実の言葉であり、柔らかい言葉である」(御書八九〇ページ、通解)と言われいる。この宗教革命、破邪顕正の闘魂こそ、我らの「威風堂々の歌」の魂であった。だからこそ、半世紀前、猛然と折伏に戦う京都地区の歌として生まれたこの歌は、時を得て、全日本の同志の闘争歌となっていったのだ。
 そして、あの晴れ渡る五月三日、私の会長就任式の掉尾を飾り、新たな出陣を告げる銅鑼の如く、両国・日大講堂の大鉄傘を揺るがした、この我らの歌声こそ、「威風堂々の歌」であった。
6  イギリスの作曲家エルガーの傑作「威風堂々」の曲名が、偉大な劇作家シェークスピアの『オセロー』の台詞に由来することは有名だ。その『オセロー』には――人間の嫉妬が、「みずからはらんでみずから生まれる化け物」であり、「人の心を餌食とし、それをもてあそぶ」怪物である等々、その本性が鋭く描き出されている。(小田島雄志訳、『シェークスピア全集』1所収、白水社)
 ともあれ、濁悪の世の中に生き抜く以上、卑劣な嫉妬の攻撃は必ずある。いわんや、広宣流布の前進には、「猶多怨嫉」の大難は必然だ。
 ゆえに、何も恐れるな! 我らは王者だ。品性下劣な嫉妬の群雲など、悠然と見下ろしながら、痛快に蹴散らしながら、澄み渡る正義の大空を進むのだ!
 シェークスピアは、人間の高貴な魂をこう活写した。
 「私の王冠はこの胸のなかにある、(中略)
 『満足』という王冠だ、
 この王冠を胸に抱く王はめったにいるものではない」(『ヘンリー六世』小田島雄志訳、同全集7所収)
 仏法の偉大さも、仏法の深遠なる人生観も同じだ。この一点を示している。つまり、三世にわたるこの永遠の生命にあって、「大満足」「大勝利」の宝冠を、自らの頭にかぶせるための信仰であるのだ。そのための、断じて勝たねばならぬ、誉れある今世の戦いだ。
 わが男子部よ、学生部よ、「紅燃ゆる」勝利王たれ! 勝利の若き王者たれ!
 わが女子部よ、「緑の栄冠」の幸福女王たれ!
 尊き大切な人生を、永遠にわたるわが生命を、「勝利の王者」「幸福の王者」と、人間革命していく。これが――「仏法」なのだ! 「信仰」なのだ! 「信心」なのだ!
 ゆえに今日も、断固として立ち上がれ! 創価の久遠の同志たちと、尊き我らの最高峰のこの道をば、威風堂々と胸を張って、前進していくのだ!
 ゲーテは、『ファウスト』に綴った。
 「最高の生き方をめざして絶えず努力をつづけよ」(『ファウスト』上、手塚富雄訳、中央公論社)

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