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日蓮大聖人・池田大作

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″わが原点″を持つ幸福  

2005.3.26 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  君よ師弟の誓願に生き抜け
 三月十六日、私が「わが子」とも「わが生命」とも思っている若き創価学園生たちの意義深き、晴れがましき卒業式に出席した。
 その式典を終えた夕刻のことである。「教育の城」学園を出て、八王子の東京牧口記念会館に着いたころは、夕焼けに包まれて、王者の富士が光り輝いていた。それは、学園生たちの新たな旅立ちを祝福しているようであった。そしてまた、永遠の青年のごとく、白雪の富士が敢然と戦っているかのようでもあった。
 ″南米解放の英雄″と仰がれる、かのシモン・ボリバルの言葉は有名である。
 「学問のない人間は、未完成である」
 学び、向上しゆく青春は、美しい。そこにこそ、未来の勝利の道が輝いている。
 若き日に、戸田先生が語られていた三国志の諸葛孔明の言葉を、私は思い出した。
 「学ばなかったならば才能を広められないし、志がなかったならば学問を完成させられない」(中林史朗『諸葛孔明語録』明徳出版社)という意義の言葉だ。
 人生は戦いだ。一生涯、戦いである。何があろうが、断固として戦い進む生命こそ、永遠の青年なのである。断じて勝利するために、学問があるのだ。
 この「三月十六日」の日は、私たちにとって忘れることのできない記念日である。
 四十七年前、わが戸田先生をお迎えして、「広宣流布の模擬試験」ともいうべき大儀式を挙行した日であった。若き六千人の強靱なる、広宣流布に向かいゆく青年部の代表が登場し、深き決意をもって戦闘を開始したスタートの日であった。絶対に同志を裏切ることのできない日でもあった。天空は青く高く、真白き富士の山は、金色燦然と燃えていた。
 創価の青年たちが、生き生きと若々しく、早朝から、「不二の高嶺」を仰ぐ静岡へ、広宣流布の師匠の待つ会場へと、はつらつと駆けつけていった。下を向いている青年など、一人もいなかった。「偉大なる師」と共に戦う「偉大なる若き革命児」として、誰もが誇り高く胸を張っていた。
 我らは断じて、この一生を何ものにも勝ってみせる! 我らは絶対に、広宣流布の大法戦に必ず勝ちゆくのだ! この厳たる決意の精神は、今もって、幾百万の我が青年部に、厳密に燃えている。師弟の栄光は、戦い勝った弟子の凱旋にあるのだ。
2  ここで、私は、未来に勝ち抜くべき使命のある、大切な大切な弟子のために、歴史上の″師弟の劇″を語り残しておきたい。(以下、ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド『シモン・ボリーバル』〈水野一監訳、上智大学イベロアメリカ研究所訳、春秋社〉、神代修『シモン・ボリーバル』〈行路社〉から引用・参照)
 その師の名は、シモン・ロドリゲス(一七七一〜一八五四年)。改革の熱意みなぎる教育者、啓蒙思想家であった。その弟子こそ、南米解放の夢を実現したボリバル(一七八三〜一八三〇年)である。
 二人ともスペイン支配下の南米ベネズエラに生まれた。師弟が出会ったのは、ボリバルが少年時代のことである。ロドリゲスは、ボリバルの教師の一人であり、十二歳年上であった。彼は、若き魂の大地に、新しき未来建設の種子を懸命に蒔いていった。ボリバルも、この師に魅せられ、「彼の助言と慰めはいつも私の心に大きな力を与えてくれた」と、深く感謝している。
 その後、ロドリゲスは、ベネズエラの独立計画に関与したと疑われて投獄された。そして釈放後に欧米に亡命したのである。
 一方、ボリバルは二十歳の時に、ヨーロッパへ、二度目の旅に出た。その際、彼は、懐かしき師ロドリゲスと再会を果たしたのだ。再び結合した師弟は、やがて共にイタリアを訪れる。
 一八〇五年の八月十五日、今からちょうど二百年前のその日、師ロドリゲスと弟子ボリバルは、ローマの北東にある「モンテ・サクロの丘」に足を運んだ。
 この丘は、古代ローマ史上に名高い「聖山(モンテ・サクロ)事件」が起こった場所であった。紀元前四九四年、貴族の横暴に怒った平民たちが権利を求め、ローマの街を出てこの丘に登り、断然、抵抗したのだ。この事件を契機として、平民を保護するために設置されたのが、有名な「護民官」であった。
 それから二千三百星霜の後、民衆勝利の歴史を刻印した、その場所――モンテ・サクロの丘に、南米民衆の解放を願う師弟は不二となって立ち上がったのである。
 丘からは、「永遠の都」ローマの街が一望できた。夕日が、荘厳に空を染めていた。
 師は、弟子に熱く語った。
 「イスパノアメリカ(=スペイン系アメリカ)を解放するときが到来した。君はそれをしなければならない」「大切なことは、行動を起こすことである」(前掲、神代修『シモン・ボリーバル』)
 本格的な行動だ! 想像もつかぬ、断固たる行動しかない! 断じて成し遂げよ!
 師の話に耳を傾けるうち、若き弟子の頬は紅潮し、目に涙が光っていた。
 二十二歳のボリバルは、抑え切れない熱情をほとばしらせ、師の前で誓願した。
 「私は誓います。スペインの権力によって私たちがつながれている鎖を断つまで、私の腕に休息を、私の心に安らぎを与えないことを」(同前)
 わが同胞の勝利と自由を勝ち取るその日まで、我に休息はない! 戦い続ける! 断じて続ける! 弟子が誓い、師匠が見守る――永遠の名画であった。
3  それは戦いも進んだ、二年後のことである。英雄ボリバルが祖国に戻ったころから、十九世紀の自由と文化を建設しゆく、新しき若き青年たちは、献身的に戦い始めた。独立運動は風雲急を告げ、彼も若き指導者の一人として勇気凛々と立ち上がった。
 「勇気」――それは、英雄の第一条件である。ボリバルは語った。
 「エネルギーのない所に功績は光らない。強さのない所に徳はなく、勇気のない所に栄光はない」(前掲、ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド『シモン・ボリーバル』)
 一八一一年七月、ベネズエラは独立を宣言するが、この翌年以降、スペイン軍と戦争になり、独立軍は一進一退の悪戦苦闘が続いていった。そのなかで、共和政権は二度も崩壊してしまった。救世主ボリバル自身、幾たびも絶体絶命の窮地に追い込まれてしまった。
 苦しい敗北もあった。哀しき亡命もあった。許せぬ味方の裏切りもあった。嫉妬の攻撃もあった。だが、新しい時代の解放者ボリバルは、ただひたすらに、南米の解放という大目的に向かって、一心不乱に戦い突き進んだ。必死の一人は、万軍に勝る。
 ノーベル平和賞を受賞された「核戦争防止国際医師の会」の創設者であり、私が親交を結んだ、バーナード・ラウン博士の言葉が、思い起こされてならない。
 「今こそ、生命を尊重し、苦しみや困窮、蔑みを受けた人々へ手を差し伸べることを主要な仕事とする、影響力のある模範的な指導者が一人でも多く求められている」(『病める地球を癒すために』田城明訳、中国新聞社)
4  ボリバルを支えたのは、師弟の誓いであった。それは、一八二四年の一月、ボリバルは、わが師匠であるロドリゲスに、こう書き送った。
 「先生、覚えておいでですか? 祖国の自由を、かの聖地で誓うために、ローマのモンテ・サクロにご一緒したことを――」
 彼は、その日を「永遠の栄光の日」と呼んだ。「祖国の解放」のため、「南米の解放」のため、そして「民衆の解放」のために、戦って戦って、戦い抜いてきた彼であった。彼の心には、あの日の誓いが″永遠の炎″となって燃え続けていたのだ。
 ボリバルは、この一八二四年の年頭には、結核で倒れてしまった。私も肺病を患ったので、その苦しみはよくわかる。戦況も厳しかった。敵軍に加えて、病魔・死魔とも戦うなか、だからこそ彼は、「原点の誓い」を思い起こしたのであろうか。
 我らは勝つ。断じて勝つ! ボリバルは、猛然たる総攻撃に打って出た。そして、この年、独立軍はスペイン軍に圧勝し、十数年に及んだ戦争は、遂に、南米各国の解放・独立という勝利で終わったのだ。ボリバルは言った。
 「革命という迷路における最良の案内人は信義である」
 彼は本物の″信義の人″であったのだ。断固として、人間としての誓いを果たし切ったのだ。その彼に、「勝利の冠」は輝き待っていた。
5  私は一貫して、師である戸田先生のいかなる指導も、強く深く胸に刻みながら、人生と広宣流布の戦いの一生涯の源泉力としてきた。これが「師弟不二」であるからだ。
 ゆえに、どんなに小さい会合でも、いかに多忙な場合の指導であっても、鋭く深く、ある時は手帖に、ある時は日記帳に、ある時は自分自身の脳裏に刻んできたつもりだ。会長就任以来、未曾有の大発展を遂げ、ありとあらゆる目標を実現しながら前進してきた原動力も、そこにあった。あくまでも師弟不二であったからだ。よく師は言われた。
 「臆病者は去れ! 一緒に苦楽を共にしたくない者は去れ! 学会を軽んずる者は去れ! 卑怯者は去れ!」
 今、私の胸中も同じである。
6  それは、昭和三十五年の三月十六日。私の第三代会長就任の直前であった。
 この日、青年部の二十一世紀への人材育成グループともいうべき、男子部の「水滸会」、そして女子部の「華陽会」は、厳しき恩師・戸田先生から託された「広宣流布」の使命を胸に燃やしながら、決意も深く集い合った。現在までの創価学会の最高首脳は、秋谷会長をはじめ、この時、出席した幹部が大半を占めている。
 当時、「破邪顕正」の凄まじい闘争を開始した学会に対して、マスコミなど社会の無認識の中傷非難があまりにも多かった。その悪口罵詈に負けて、去っていった者も、何人もいた。退転して卑怯者になった恩知らずもいる。同志の約束を破り、臆病になって自分勝手の理由をつけ、自分勝手の道を逃げ惑っていった者もいた。
 崇高な大偉業を成し遂げる前には、必ず難はあるものだ。その道理を、仏法では明白に説いている。それをわからず、それを忘れて逃げ去っていった敗北者の侘びしい最後の姿は、多くの人の知っているところだ。
 ともあれ、大きな師弟不二の歴史を刻んだ「水滸会」の会合で、私は未来を指さしながら厳然と宣言した。
 「三月十六日を『広宣流布の記念日』にしていこう!」
 そして、訴えた。
 「石にかじりついても、同志を信頼し合って、激励し合って、広宣流布の総仕上げをしていくのだ。前進するのだ! 勝ち抜いていくのだ!それには、耐え抜いていくのだ。祈り強き題目をあげれば、臆病な自分自身の生命は厳然と変わっていくのだ。これが、人間革命である。真実の信仰である。地涌の菩薩の証である」
 「一度もしりぞく心なし」の御金言を、絶対に忘れるな!
 今日までの私は、この精神を寸時も忘れず、ありとあらゆる誹謗中傷を受けながらも、病弱であったわが身を堂々と革命しながら、世界的な創価学会を築き上げたことは、ご存じの通りだ。次は、君たち青年が広宣流布の全責任を担い立つ時が、遂に来たのだ。
 私と同じ心で、心深く決意して進んでいく本物の弟子が、厳然と勢揃いしていることを、私は自負している。次の世代の体制は、私の胸には、完璧に描き終わっている。永遠なる正義の法脈は、限りなく世界へ流れゆくのだ。
 歳月は、峻厳に本物と偽物を明らかにした。誓いを捨てた人生は、いかに自己正当化しようが、悔恨の地獄であり敗北。若き日の誓いを果たし抜く人生は、晴れ晴れと永遠に輝く正義の勝利者なのだ。
 日蓮大聖人は、若き門下を励まして言われた。
 「願くは我が弟子等・大願ををこせ
 我らの大願とは、「広宣流布の誓願」である。この正義の道には、行き詰まりも、停滞もない。あきらめも絶対にないのだ。
 ゆえに君よ! 今日の戦いを起こせ!
 かりに昨日負けても、悠然と前へ進め!
 そして、今日を勝て! 前進だ! 勇猛精進だ!
 不滅の四月二日へ! 栄光の五月三日へ! 勝利の七月三日へ!
 創価の春は、朝を迎えるごとに、不滅の生命の輝きを増していく。
 崇高な青年の魂を見つめながら、ボリバルは叫んだ。
 「最も美しいものは正義が与える宝冠である」

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