Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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若き正義の英雄・男子部(中)  

2004.12.24 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  君よ汝の戦いを断じて勝て!
 「人間らしい人間」は、どこにいるのか――それは、十九世紀、アメリカの若き思想家ソローの叫びであった。「手をつき通せないほど堅い背骨をもった人間はいないものだろうか!」(『市民の反抗 他五篇』飯田実訳、岩波文庫)と、哲人は鋭く言い切っていた。
 常に、偉大なる指導者には、不動の信念を持った人物を求めてやまぬ、魂の叫びがあるものだ。今も、心ある指導者たちは、若き真実と正義の人材を、全生命で渇仰しているのだ。その声に、私たちは自信をもって答えたい。
 わが創価の青年を見よ! 不撓不屈の面魂の男子部を見よ! 世界に躍り出た、若き幾百万の平和と正義の大陣列を見よ! と。
 御聖訓には「強敵を伏して始て力士をしる」と厳しく仰せである。真の強さは、強敵との対戦によってのみ、つくられていくものだ。この「強敵を伏してこそ、偉大な指導者である」との日蓮大聖人のお言葉に送る、あまりにも深き御期待に、血潮が沸き上がる思いだ。
 勝つか、負けるか。一方しかない。その熾烈な鍔競り合いを幾たびとなく制して、初めて、厳然たる叫びで「勝った」という勝利の旗を、実証として示していけるのだ。この峻厳なる勝負の中にのみ、自分自身が鍛え上げられていくことを忘れるな! 仏になる道は、ここにのみあるのだ。
 ゆえに私も、かけがえのなき、この一生をば、悔いなき偉大な人生の歴史で飾りゆくために、若き日より、いかなる戦闘にも「師子奮迅の力」で、あらゆる試練を乗り越え勝ち越え、前進してきたつもりだ。さらに、いかなる役職の使命にあっても、全精力を傾注して、勇敢に、また勇敢に闘争を進めてきた。
 「たとい困難であろうと、それでもやはりやらねばならぬ、難しければ難しいほど、ますますやらねばならぬ」(「中国語文の新生」松枝茂夫訳、『魯迅選集』11所収、岩波文庫)
 これは、中国の文豪・魯迅の精神であった。革命児たちの誇り高き合言葉でもあったろう。その先人の気概は、偉大なる目的に向かって、私たちの団結と奮闘前進を強く促してやまない。
 私は、いずこの地にあっても、常に大勝利の旗を打ち立ててきた。一つ一つ勝ち抜いてこそ、汝自身の生命の城が築かれ、そして広布の金剛不壊の城がそびえ立っていくからだ。
 私が二十四歳になった時、戸田先生は「大作に託すしかない」と言われて、蒲田支部の支部幹事に任命された。
 当時の学会の前進は、あまりにも遅れていた。皆、元気がなかった。戸田先生は、「学会の発展の推進力は青年部だ。今の青年部には、意気軒昂たる死身弘法の精神が足りない」と、厳しかった。
 私は、師のために、勇気凛々と、未来の永遠の勝利を見つめながら、敢然と立ち上がって戦った。そして、私は、戸田先生の生涯の願望であられた七十五万世帯の大折伏へ、悠然と突破口を美事に開いた。学会史にとって、あまりにも有名な、あの″二月闘争″で、当時の惰弱な壁を敢然と打ち破って、「一支部で月二百一世帯」を成し遂げたのだ。
 学会始まって以来の記録であり、快挙であった。当時の最高幹部たちは、「池田君のおかげで、学会に花が咲いてきたよ!大きな花が開いた」と、喜び勇んで拍手していた。それ以上に、戸田先生の喜びは、いかばかりであったろうか。
 さらに先生は、私の二十五歳の誕生日のその日、今度は、男子部の第一部隊の中心者の任を与えられた。私は、「遂に師弟不二の決戦の時が来たのだ!」と立ち上がった。
 残念ながら、当時、青年部はまだまだ力がなかったのだ。最低の男子部と笑われていた。
 私の率いる第一部隊の男子部は、三百三十七人からの出発であった。私は、師匠の示される指針と目標に向かって、厳然と「広宣流布」の指揮を執り始めた。若き青年部の皆が立ち上がり、私に呼応してくれた。その時の青年部の奮闘を、私は、一生涯忘れることはできない。我らのスクラムは、一年間で、千人を悠々と突破する陣列となった。皆が驚いた。皆が唖然とした。
 文豪ユゴーは語った。
 「人に与える喜びには、反射のように弱まってもどるどころか、輝きを増してはねかえってくるという性質がある」(『レ・ミゼラブル』2、辻昶訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』3所収、潮出版社)
 青年部の役職とともに、私は文京支部の支部長代理を拝命した。草創の十二支部の中で、この文京支部は最も弱く、全学会の最低の低迷を続けていた支部であった。戸田先生も困り果てていた。
 わが師匠は、常に、私を厳しいところへ、最も苦しい戦場へ送られた。私も、師の意志と構想に応え、満足していただくために、それはそれは戦った。文京支部は、皆が見違えるが如く目標を明確にし、自身の使命を再確認し、全国一の弘教を誇る最高峰の支部に大発展していったのである。
 いかなる立場にあっても、若き私は、決然と勝利への固き決意を持っていた。戸田先生は「大法弘通」そして「慈折広宣流布」の大指導者であられる。その師の大願に応えることが弟子であると、私は明確に確信していた。「華果成就御書」にいわく、「師弟相違せばなに事も成べからず
 師弟の「一念のギア」がかみ合えば、無量無辺の力が生まれ、勝利の大回転が始まるのだ。私は祈り抜き、祈り切った。戦い抜き、戦い切った。「戦う人」の周りにしか、人は集まらない。「戦う人」の後ろには、必ず人は続いてくるのだ。
 古代ローマの哲学者セネカは論じている。
 「もし君が自分のために生きようと望むならば、他人のためにも生きねばなりません」「生きているというのは、多くの人々の役に立つ人のことであり、自分自身を役に立てる人のことです」(『道徳書簡集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会)
2  一九五四年(昭和二十九年)、二十六歳の私は、青年部の室長となった。中枢中の中枢の立場であって、「師弟直結」の最も重要な役職であった。とともに、この年、初代の渉外部長に就任し、一切の外交戦、攻防戦の指揮を執ることになったのである。
 当時、戸田先生や学会に対して、無認識の誹謗や悪意のデマが急激に渦巻き始めていた。
 御書には「法華経の行者をあだまん人をば父母のかたきよりもなをつよいましむべし」とある。最も正しき広宣流布の闘士に対する侮辱は、絶対に放置しない! 父母の仇敵以上に、厳しく鋭く責め抜く! この決心は、また、蓮祖の厳命であられた。
 新聞が嘘を書けば、私は自ら抗議に飛んでいって、真実を叫び、訂正させた。中傷記事を見つければ、記者に会い、誠意をもって正義を打ち込んだ。誹謗を垂れ流す無頼漢のところへ、単身、乗り込み、偉大な師の真実を訴え抜いたこともある。
 社会的な地位もない。財力があるわけでもない。恰幅もない。ただ一人の正義と誠実の青年として、私は全生命を凝結して師子吼したのである。
 十九世紀のドイツの法学者イェーリングは叫んだ。
 「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である」(『権利のための闘争』村上淳一訳、岩波文庫)
 まったく、その通りだ。なかんずく、人間の尊厳を踏みにじる嘘八百のデマを、完膚無きまで粉砕することは、青年の特権であり、責務であるからだ。君たちよ、若き人権の師子たれ! 邪悪の心臓を射抜くが如く、正義の言論をば痛烈に放ちゆくのだ!
 「声に出して言わないことがときとしてもっとも多くの禍をもたらす」(『言行録』稲垣直樹訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』9所収、潮出版社)とは、文豪ユゴーの鋭き洞察であった。
3  私は、歴史上、幾多の冤罪に苦しめ抜かれた先人のことを、忘れることができない。
 釈尊も、そして大聖人も、そうであられた。高邁なフランスの哲学者ボルテールや、ドイツの哲学者カントも、マハトマ・ガンジーも、あのアインシュタイン博士も、そして周恩来総理さえも、低劣な女性問題などを捏造された。
 釈尊は厳然と喝破された。――悪意や復讐の心に囚われた野心家は、嘘をついて人をたぶらかし、自らの野望に立ちはだかる正義の人を必ず誹謗中傷する、と。
 デマを言いふらす連中は、それが事実無根の嘘であることは百も承知である。自分たちが嫉妬し、敵視する正義の存在に泥をかぶせ、汚せれば、それでいいのだ。
 大聖人は、末法濁世の実相について――「讒人(讒言を構える者)」「佞人(こびへつらう者)」「和讒の者(陰に回って人を陥れる者)」「曲理の者(道理を曲げる者)」ばかりが充満する時代であると断定されていた(御書一〇九五ページ)。ゆえに、そうした輩から根も葉もない虚偽で圧迫されること自体が、大仏法を正しく実践している証なのである。
 私も、法華経と御書に説かれた通りの「悪口罵詈」「讒言」「讒訴」「不実の濫訴」などの難を、矢面に立って一身に受け切ってきた。そして、すべてを勝ち越えてきたことを、最大の誉れと思っている。
4  最も私が信頼し、未来の一切を託しゆく、わが優秀なる男子部のご健闘と大活躍を祈りたい。素晴らしき歴史的な新年を迎えようではないか!
 一年間、本当にありがとう。ご苦労さま。いつまでも健康で! いつまでも勝利を!

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