Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

若き正義の英雄・男子部(上)  

2004.12.9 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

前後
1  大空に翻れ! 師弟の勝利の旗
 「御書を拝せ! そして、一流の文学書を、どんどん読め! 心を広々として、生き抜くのだ。勇敢に、自分らしく、青年らしく、指導者らしく、生き抜くのだ」
 私には、あの戸田先生のご指導の声が、いつも聞こえてくる。
 そしてまた、戸田先生は、常に、堂々と言われた。
 「牧口先生が幾たびとなく弟子に語った、この言葉を断じて忘れてはならない。『悪口罵詈、猶多怨嫉の難は法華経の実践者の誉れなのである』と」
 ともかく、戸田先生は喝破された。
 「嫉妬の狂人は、いつの時代にもいるものだ。そんなつまらぬ批判など、相手にするな、放っておけ! そんな下らん中傷などに惑わされるのは、最低だ。必ず仏罰が下る!」
 それはそれは、鋭く凄まじい叫びであった。
 ともあれ、牧口先生も、戸田先生も、ご存じの通り、法難のために牢獄に入った。その歴史は、年を経るにつれて、燦然と光り輝いている。
 牧口先生が獄中で記した、一九四三年(昭和十八年)十月二十三日付の書簡がある。先生は綴られた。
 「災難といっても、大聖人の九牛の一毛です、とあきらめて(=明らかに見て)、ますます信仰を強めることです」(『牧口常三郎全集』10)と。
 「九牛の一毛」とは、「多くの牛の中の、ほんの一本の毛」、すなわち「取るに足らないこと」という意味である。
2  嘘偽りの多き、この複雑な社会にあって、何が本心なのか、何が真実なのか、何が善であり、何が悪なのか、わからぬまま流されていく、人間として不幸な運命の姿よ!
 歴史には、裏切り者の奴らの陰険なる謀略の餌食になった人物が、いかに多いことか。
 大聖人も、女性問題があると誹謗された。「ただ法華経を弘めようとしているだけで、それを失にされ、妻子を持たずして犯僧の汚名が国中に満ちた」(御書九三六ページ、通解)と、仰せの通りである。さらにまた、御聖訓には、「女人は、こぞって国主に讒言し、日蓮を伊豆に流したうえ、また佐渡にも流したのであった」(御書一三一二ページ、通解)とも記されている。
 釈尊も、子どもを身籠もったなどと大騒ぎされた。「九横の大難」のなかの二つ、「旃遮女の謗」「孫陀利の謗」である。いずれも、釈尊の声望を妬んだ外道たちが、女性を唆して仕組んだ陰謀であった。
 近くは、あの高潔な周恩来総理も隠し子がいたと、さんざん世界中に、その捏造の醜聞は流された。
 最も人格者である立派な人が、最も下劣な嫉妬の策略で陥れられてきた。自らの劣等意識を、偉大な人を非難することによって満足させていこうとする、情けない最低の悪人どもの所業である。
3  いかなる迫害をも悠然と乗り越えながら、決意の目標に向かって、共々に戦い進みゆく真実の友との出会いは、一生の宝だ。胸襟を開いて、一生涯、正義のために戦い抜く、魂と魂の交流のある同志ほど、嬉しく尊いものはない。
 さらに、「師弟不二」という、師と弟子との尊厳なる人間究極の大闘争ほど、深くして美しき胸を打つ姿はない。ともあれ、惜しみなく、魂の深き交歓を為しゆく美しさよ!
 あの傲慢不遜な人間は、最後は地獄に行くだけだ。青年が、この複雑きわまりない社会にあって、神経が磨り減ってしまうような、憂鬱な苦悩に囚われてしまうことは、あまりにも不憫すぎる。
 君よ、君には天賦の才があることを、信ずるのだ! 悪人の奴隷だけには、絶対なるな!
 終始、真心を尽くしてくれる同志ほど、ありがたいものはない。絶望の日々があっても、君の鉄の爪で、何も嘆かずに登り上ってゆくのだ。その勇気! その忍耐! その奮闘!
 多くの人間を苦しめる、陰湿の社会にあって、厳然と勝利の人生を生きるための仏法だ。そして信仰なのだ。君よ、正義のために、あらゆる迫害を勝ち越えてゆくのだ。その彼方には、永遠に光り輝く満足と安息と幸福が、約束されているのだ。
 ああ、燃え上がる情熱、生き生きとした情熱をもって、いつの日か、無二の親友同士である君と語り合える喜びをもった人間は、勝利者だ。幸福者だ。
4  戦い抜いてきた「丈夫」の顔は、一目でわかる。それは、誇り高き魂の荘厳な光を放っているからだ。「勝利者(ヴィクトル)」という名を持つフランスの文豪ユゴーも、まぎれもない「丈夫」であった。戸田先生は、彼が好きであった。青年の頃より、彼の傑作を幾たびとなく読み耽っておられたようだ。
 彼の作品を私に手渡され、「同志たちに読ませていけ!」と言われたこともある。先生も、まだお若かった。顔色も良く、目も輝き、弟子たちの成長を、最高の喜びにしておられた。
 あの日あの時の光景が、あざやかに蘇る。戸田先生は、五十一歳。弟子の私は、二十三歳であったと記憶する。先生の会社の事務所で、二人きりになった夕刻のことであった。
5  この十一月十五日、東京富士美術館で、「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」を、青年たちとともに鑑賞した。フランス国宝である『レ・ミゼラブル』の自筆校正刷りをはじめ、展示作品も、一点一点、まことに美事である。
 随所に掲げられたユゴーの箴言も、みな懐かしかった。その一つ――
 「獅子には狐のしきたりはない」(Andre Maurois, Olympio ou la vie de Victor Hugo, Hachette.)
 獅子は、どこまでいっても獅子だ。狡猾にして卑劣な狐の群れが、いかに吠えようとも、
 獅子は微動だにしない。
 さらにまた、あの『レ・ミゼラブル』で、ユゴーが謳い上げた″青春の讃歌″も記されていた。私は、青年に返った気持ちで読み上げた。
 「どんな若者でも、健康で、力強く、歩きぶりも元気がよく、目がかがやき、熱い血潮がからだをめぐり、髪は黒く、頬は若々しく、唇はバラ色で、歯は白く、はく息も清らかであれば、どんなに貧しかろうとも、年老いた皇帝から いつでも うらやましく思われるだろう」(『レ・ミゼラブル 2』辻昶訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』3所収、潮出版社)
 ユゴー研究の第一人者・辻昶先生の不滅の名訳だ。辻先生は、創価大学の名誉博士でもあられ、私もお会いし、有意義な対談をした。
 ユゴーが叫んだ如く、王冠よりも、玉座よりも、金色の光を放つ至宝は、青年の命そのものである。若き正義の丈夫こそ、最も尊貴なる生命の帝王なのだ。ゆえに、ユゴーは、青年を愛し、青年に託した。青年も、ユゴーを信じ、ユゴーに応えた。
 「ユゴー展」の一隅に、一人の二十代の青年が、大迫害と戦う、人生の師ユゴーに捧げた手紙が置かれている。
 「私には、親愛かつ偉大な貴方(=ユゴー)のお名前が危うくなるような、あらゆる批判に対して、力強く抗戦する用意ができておりますことを、再びお約束いたします」(「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」カタログ、岡田朋子訳、東京富士美術館)
 私は、胸が熱くなった。人間の真髄である「師弟」の姿を、垣間見る思いであった。
6  青年よ、若き丈夫よ! 君たちが主役なのだ。君たちの舞台なのだ。君たちの世紀なのだ。仏法の因果律から見れば、青年は「本因」の立場である。青年の「熱」と「力」が燃えたぎる魂の溶鉱炉から、壮大なる未来が創り出されていくのだ。
 大詩人ゲーテは、たゆみなき努力と拡大の象徴である丈夫ファウストに、こう語らせた。
 「休みなく活動するものこそは男だ」(『ファウスト 第一部』相良守峯訳、岩波文庫)
 一日一日が、活動である。時々刻々と、戦いだ。そこに、向上がある。そこに、前進がある。そこに、開拓がある。闘争に次ぐ闘争! 拡大に次ぐ拡大! そして勝利に次ぐ勝利!
 常勝の師弟の旗よ、いざ大空高く翻れ! これが、わが男子部の尊き大使命だ。
 わが男子部は、創価学会の「中核のなかの中核」である。
 男子部・二百七十三万人の勢いが、そして男女青年部・四百四十万人の勢いが、広宣流布の勢いだ。青年部の強さが、学会の強さなのである。まさに、その力が日本第一になったとは、無数の識者の声であり、賞讃である。
 ともあれ、「仏法は勝負」である。いかなる波浪があり、いかなる迫害の険難の山々があっても、最後は必ず勝つことが、仏法なのだ。信仰なのだ。広宣流布なのだ。
 その責任をもって戦う青年は、十方世界の仏菩薩から讃歎され、厳護され、「広宣流布の丈夫」として、永遠なる金剛不壊の生命を記別されるのである。

1
1