Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御書を心肝に染めよ  

2004.10.20 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  「行学の英雄」を育成しよう
 君よ! 厳粛な偉大な使命の道を、断じて一生涯、変えるな!
 それは、あの竜の口の法難の嵐が、日蓮大聖人を襲った直後の、文永八年十月のことである。流罪の地である佐渡にご出発を前にして、大聖人は我が弟子たちに、真心をもって書き送られた。
 「法華経は、紙に書かれてあるままに声に出して読むことはできても、その経文通りに振る舞い、行動することは難しいであろう」(御書一〇〇一ページ、通解)
 そして今、大聖人お一人が大難を受けられ、「軽賤憎嫉」「猶多怨嫉・況滅度後」等の経文を如説修行し、″身に当てて読んでいる″と、厳然と、高らかに宣言されたのである。その師子の王者の声は、愛する弟子たちの胸中を激しく揺さぶったにちがいない。――わが弟子よ、お前たちは、どう戦うのか、と。
 御書は、「永遠の経典」である。御書は、大聖人の魂の叫びである。
 この魔性に覆われた悪世末法に、法華経を修行する我らのために――「勇敢に戦い、絶対に退転するな!」「人生を勝ち飾れ!」「断固として悪を打ち破れ!」と、師子の声、厳然と、大聖人が遺された正義の絶叫である。ゆえに、我ら弟子一同もまた、御書を拝するたびに、深く自らに問いかけていかねばならない。汝は、いかに生きるのか、汝は、いかに戦うのかと。
 「身で読む」とは、他人事として、また、昔話としてではなく、「自分のこと」として、「現在のこと」として拝し、わが人生の闘争に立ち向かうことだ。そこに厳粛なる、「師弟一体」となる正しき軌道があるかちだ。
 たとえ一節でもよい。一行でもよい。「この仰せの通りだ!」「この御書は今の自分にいただいたものだ!」と、深く生命に刻みつけ、厳然たる信心で、新たな広布の戦いを起こしゆくのだ! それが、「御書を心肝に染め」との、日興上人の遺誡を守ることになるのだ。
2  あの戦時中、戸田先生は、軍部政府の弾圧で、二年間の暗い獄中生活を送られた。
 先生は、牢獄で「一生涯の自分の使命は広宣流布にあり」と、究極の使命を自覚された。
 無念にも獄死された牧口先生の弟子として、傲慢にして卑劣な連中への仇討ちを誓った。銃殺刑も恐れなかった。そして、出獄と同時に、広宣流布の大闘争を開始されたのだ。
 しかし、その同じ法難は、他の弟子たちを、ことごとく退転させた。
 開目抄には、「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と仰せである。彼らは「まことの時」に、怖じけづき、臆病になり、自分で正義の宝剣を捨ててしまったのだ。
 戸田先生は嘆いた。戸田先生は泣いた。どうして牢に入ったことで退転してしまうのか。最も晴れがましい、永遠にわたる大功徳を受けるチャンスであったではないか。臆病の信心などは、御書のどこにも書かれていない。
 戸田先生は反省した。熟慮した。昼となく、夜となく、考え抜いた。どうして退転してしまうのか――天才である戸田先生の結論は、こうであった。
 信心の推進力となるべき、信心の何たるかを明かす教学がなかった。御書を読ませることを忘れていた。教学、すなわち御書を、心肝に染めさせてさえいれば、退転などあるはずはない。臆病者が奮い立って、勇気を持って、戦い抜いていくのだ。御書だ! 御書だ!
 その深い体験から悟り抜いた戸田先生の指導のもと、学会は、幹部も会員も、御書を我が身から離さなかった。教学なき仏法はない。信心なき仏法は、仏法ではない。
 時間さえあれば、御書の研鎖に励んだ。時あるごとに、その会合で御書を拝読し、御書を論じ、御書を学び合った。新しい魂の火が燃えた。新しい遠大な未来を見つめる目が輝いた。
 御書の拝読は、人間革命であった。御書の拝読は、信心を無限に深めていく原動力であった。ここでいう教学とは、観念の教学ではない。物覚えの教学でもない。学者になるための教学でもない。大聖人の教学とは、生き抜く力、戦い抜く力、広宣流布への力となってゆく教学であった。その教学は、自身の血肉となって、あらゆる現実の人生と戦い進む、社会にあって断じて勝つための教学であり、大哲学であったのだ。
3  ここで若干、横道にそれるが、多くの正義の人は、古今東西を通じて、必ずと言っていいくらい、大嘘つきと卑劣な作り話によって、中傷非難されたものだ。
 ソクラテスも、カントも、またユゴーも、トルストイも、かのマハトマ・ガンジーも、キング博士も、アインシュタイン博士も、そして周恩来総理まで、そうであった。
 さらに、卑しき卑劣な陰謀家の常套手段は、女性を使っての讒言である。
 呆れたことに、釈尊でさえ、全く事実無根の女性問題を捏造された。「九横の大難」のうちの「旃遮女の謗り」と「孫陀利の謗り」である。日蓮大聖人も「犯僧」という悪名を天下に喧伝された。そして、また、「女人からの讒言」によって、二度の流罪に遭われた。
 御書には、明確に示されている――永遠の幸福のために、永遠の生命を確率するためには、必ず難がある。必ず迫害がある。ゆえに断じて負けるな!「難来るを以て安楽」と思え! 「三類の強敵」「三障四魔」との戦いこそ、法華経の行者の証であるからだ、と。ともあれ、「正義は必ず迫害される」という法則を、悠然と、わが命に刻みつけていくことだ。
 正義を陥れる策略を見抜く眼を磨け! そして君よ、邪悪な鎖を断ち切る剣を持て!
 自らの使命を果たし、広宣流布を遂行するために、何が正で、何が邪か、厳正に見極める根体規範こそが、御書である。それが教学なのである。
4  「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」とは、日蓮門下の全同志が、永遠に継承すべき御遺誡だ。
 「行」とは、広布の行動である。「学」とは、教学の研鑽である。その勇敢な「行」と「学」の挑戦こそが、自身の革命と広宣流布への前進の原動力である。この「行」と「学」が、両輪となって大回転してこそ、真の日蓮大聖人の仏法の興隆があると、断言しておられるのだ。その通りである。全く正し御教訓である。
 この十一月、「学会伝統の教学試験」が行われる。自分自身の無限の「人間革命」のためにも、そして壮大なる「広宣流布」のためにも、その基本の力と言うべき、この教学試験に皆が参加して、信心を磨いていただきたいのだ。ご承知の通り、今回は、特別に「初級」と「青年部三級」を統合し、共通の試験として実施される。
 ともあれ、戸田先生は「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」と、鋭く洞察して指導された。教学が信心を深める以上、教学の研鑽は、必ずや信心の人材の育成につながることを知らねばならない。この教学を学びゆく「道場」から、偉大な「行学の英雄」が必ず涌出することを確信していくことだ。
 今回の受験対象者は、助師・講師の方々である。これからの創価学会を担いゆく、使命も深き同志たちだ。全国の各部においても、求道に励みゆく受験者の応援に一段と力を入れていただきたい。特に、壮年部の方々や婦人部の先輩の方々は、未来を背負って立つ、若き男女青年部の受験者たちに、さまざまな角度から、指導激励をお願いしたいのである。
 仏法は、「因果の法則」である。受験する人も応援する人も、皆、「仏の行」を為しゆく功徳が満々と具わっていくことを、決して忘れてはならない。仏法の実践には、いささかの無駄もないのだ。全部が、自分自身の「幸福革命」につながることを忘れては、損をするだけだ。
 イタリアの革命家マッツィーニは叫んだ。
 「大なる革命は銃剣よりも主義によって遂行される」(『人間義務論 他二篇』大類伸訳、岩波文庫)
 要するに、武力革命、経済革命等々、さまざまな革命があるが、最も偉大なる革命は「思想」による革命であると断言している。
 広宣流布は、思想戦である。その戦場で、わが学会は「思想界の王者」として日本一となり、世界的な広がりを、現実に、歴史的に建設しているのだ。
 世の乱れは人間の乱れであり、諸悪の源は善悪正邪の乱れにある。ことに、正義の人が陥れられ、卑劣な者、邪悪の者、嘘八百の連中がはびこるような社会は、必ず衰亡していく。
 今も、同様の乱世だ。御書に照らし、嫉妬や讒言の攻撃を受けるのは当然であり、全く恐れてはならない。臆してもならないのだ。人間を苦しめる邪悪を打ち倒し、全民衆を幸福にせんとされた、日蓮大聖人の偉大な「戦う魂」が燃え、脈動しているのが御書である。この御書の実践者は、菩薩であり、仏になりゆく絶対に強き人びとなのだ。結論するに、勝利は絶対なのである。
5  ともあれ、いかなる思想も、その思想が血となり、肉とならなければ、観念の玩具に等しいのだ。十七世紀のフランスの著名な文人ラ・ロシュフコーは、人間の本質を冷徹に喝破し、ボルテール、ニーチェ、ショーペンハウアー、トルストイらにも影響を与えた。その彼は、高尚ぶった哲学を揶揄して、こう言った。
 「哲学はやすやすと過去及び未来の不幸を打ち負かすが、現在の不幸には打ち負かされる」(『マクシム』関根秀雄訳、白水社)
 いわゆる哲学は、今、人が直面している「現在の不幸」に対しては無力だというのだ。手厳しいけれども、その通りだと、誰人も異論がないであろう。しかし、日蓮大聖人の大仏法は、それらとは根本的に違うのだ。
 わが師・戸田城聖先生は、敗戦の焦土に、「正しい大仏法を広宣流布するしかない!」と、ただ一人、厳然と立ち上がられた。そして、わが創価学会は、貧乏、病気、家庭不和、仕事や人間関係の苦悩、人生の挫折、社会的差別等々……あらゆる「現在の不幸」と真っ向勝負で戦ってきたのだ。不幸の暗黒の宿命に泣いてきた人びとが、生命の大哲学を持ち、健気に信心を貫くなかで、人生の勝利の喜びをもって、幾千幾万の仏法の深遠なる力を証明してきたのだ。仏法の魂は「行動」の二字にある。
 ハーバード大学で、私が二度目の講演を行った際、ガルブレイス名誉教授とともに、講評をしてくださったのは、世界的な宗教学者ハービー・コックス教授である。
 このコックス教授は、以前、ご自身が兵庫文化会館で講演されたときの思い出を、今も大事に温めておられる。
 「一日の仕事を終えて駆けつけてくださった皆さんが、一生懸命にメモをとりながら受講されていました。その真剣な探究心に、深く心を打たれたのです」
 要するに、学者ばかりの交流ではいけないと、痛切に感じとられたようである。
 少しばかり教学ができるからといって、信心があるとはいえない。信心なき、知ったかぶりの教学など、言葉だけを盗んで自分を飾る「法盗人」だ。邪宗門の、あの無様な姿を見るがよい。
 教学や神学が聖職者の専有とされ、権威の幻の城となった歴史は、あまりにも多い。中世のヨーロッパでは、一般信徒が独自に聖書を学んだり、まして俗人が説教することなどできなかった。教会から認められず、異端の邪教として迫害された人びともいたのである。
 あの歴史的な「宗教改革」は、一次元からいえば、「誰でも聖典を読める時代」への大革命であった。苦難はあったが、それは、人間の叫びであった。庶民の勝利の雄叫びであった。
 今日にあっても、信徒自身が聖典を読み、教理を学び、人びとに説いていくことは、決して容易ではないようだ。そのなかで、我らは、いかなる権威の僧衣もまとわず、この現実社会で行動する哲学者として、真剣に教学を学んでいる。仏法を語りに語っている。人びとのために、そして平和のために、社会の繁栄のために、雄々しく実践している。
 心ある識者は言った。力強く語った。
 「これこそが、民衆による未曾有の大哲学運動の壮挙である。ここにこそ、最も深い思想革命の大潮流があるのだ」と驚嘆し、賞讃し、絶讃していたのである。
 大聖人は、「五重の相対」「三証」等の比較相対の原理を説かれ、他の宗教・哲学との高低浅深を明確にされた。原理がきちっと頭に入れば、揺るがない。迷わずに実践を深めていける。難解な法理でありながら、わかりやすく説かれている。そして、また、わかりやすいなかに、甚深の法門がある。本来、仏法の一番大事なことをわかるために、教学があるのだ。
 たとえば、勤行では、なぜ唱題を「正行」とし、読経を「助行」とするのか。
 日寛上人は、「塩や酢が米や麺の味を助けるようなものである」と、まことに巧みな譬喩で説明された。戸田先生も、同様のことを「ご飯とおかず、調味料の関係だよ」とも言われていた。おいしく食べて、それが生き抜く力となるのである。その通りだと納得すれば、確信をもって実践できる。この深き確信を生む力が、「教学力」といってもよいだろう。
6  一九五六年(昭和三十一年)の、あの関西の大法戦の時も、私は「教学」を根幹として戦い抜いた。
 誰もが「不可能だ」と思う'苦しい戦いである。しかし、断じて勝ってみせると、悩みに悩み、祈りに祈った。私は結論として、「御書を根本とした大闘争をする以外にない」と決意したのだ。
 毎朝、毎朝、同志と共に、御書を拝した。それはそれは真剣だった。日蓮大聖人から、直接、御指南をお受けするような発心と感激の連続であった。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべ
 御書の通りに戦えば、絶対に間違いなく勝てる。御書こそ、究極の将軍学である。
 この大確信を胸にたぎらせ、私は指揮を執った。大聖人の師子吼が、全軍の息吹となり、血潮となった。だからこそ、わが関西は、勝利の仏の軍団となった。だからこそ、不可能を可能として勝ったのだ。この「絶対勝利」の方程式は永遠である。
7  「彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり
 この蓮祖の烈々たる師子吼こそ、学会精神である。広宣流布に戦う皆様の一日一日に、日蓮仏法の魂は生き生きと脈動している。学会活動は、全部、御書通りの実践なのだ。ゆえに我らを、三世十方の仏・菩薩が、そして諸天善神が絶対に護らないわけがないのである。
 「創価完勝の年」の本年、我らは″御書とともに″勝ちに勝った。そして、新たな「青年・拡大の年」も″御書とともに″勝って、勝って、勝ちまくるのだ!
 「教学は、わが生命の勝利の鎧なのだ」とは、ある著名な仏法学者の言葉である。

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