Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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言論戦の勇者たれ  

2004.9.7 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  聖教の 厳たる信念 不二の山
 日蓮仏法は、「広宣流布の宗教」である。御書には、この広宣流布に戦う魂が刻まれている。日蓮大聖人は、その不滅の大闘争をば、何度も、何度も「身命を惜しまず」「声も惜まず」と宣言された。
 御本仏が「声も惜しまず」師子吼されたのだ。どうして我ら末弟が、正義の声を惜しむことができようか! 言論戦の勇者たれ! 声を惜しまぬ師子たれ!
 「声仏事を為す」とは、仏典の重要な教義だ。凡夫たりとも、妙法を唱え、正義を叫ぶ限り、尊き仏の事業を遂行できるというのだ。
 広宣流布とは「声の戦い」である。いかなる悪口罵詈があろうが、三類の強敵の迫害があろうが、臆病になって、沈黙しては絶対にならない。大聖人は、迫害者の卑劣な画策を、「内内諸方に讒言を企てて余が口を塞がんとはげみしなり」とも喝破された。
 邪悪な連中は、正義の人の「口を塞ぐ」ために、讒言を使って迫害をするというのだ。
 正義が勝つか、讒言が増長するか。真実が勝つか、デマ、が蔓延するか――。
 広宣流布は、言論戦そのものである。
2  戦いである以上、「武器」が必要だ。ゆえに、戸田先生が第二代会長として広宣流布の大闘争を開始される直前、真っ先につくられたのが、言論戦の武器「聖教新聞」であった。
 先生は、「聖教新聞は広宣流布の機関銃である!」と言われた。さらに、先生は、無理解の卑劣な批判の嵐に向かい、「信なき言論、煙のごとし」と一刀両断された。そして「学会には不動にして正義の信念がある」と確固たる宣言をされた。
 際限のない労苦を光らせながら、民衆の救済へと、烈々たる大確信で、深い使命を断行しゆく戦う魂こそ、わが聖教新聞の信条でなければならない。聖教は、邪悪を倒し、嘘八百のデマを撃ち砕く、正義と真実の弾丸なのだ。
 正義を実現するには、正義の武器が必要である。平和の実現には、平和の武器が絶対になくてはならない。仏法のヒューマニズムの凱歌も、人間勝利の武器をもって戦い取ることだ。正義の「言論の自由」で、卑劣にして悪逆な言論を倒すことだ。
3  思えば、嫉妬に狂った陰湿な日顕一派によって、広宣流布へ行進しゆく、わが創価学会の徹底的な破壊を狙い、第二次宗門事件が勃発したのは、一九九○年(平成二年)の暮れのことであった。その激しく我らを誹謗する狂人じみた姿には、誰人も唖然とした。
 しかし、年が明けるや、正法正義の創価の陣列は、猛反撃を開始し、陰険な謀略を木っ端微塵に粉砕していったのである。その最大の武器こそ、聖教新聞であった。
 あの平成三年の年頭より、私は猛然と動いた。吹き荒れる嵐よりも、強く、激しく、怒濤の戦いを起こした。大小の会合に出れば、必ず正義の叫びを放った。仏法の人間主義を高らかに宣言していった。その内容は、間髪入れず、聖教に掲載された。
 世間には、当初、「宗門が勝つであろう。学会の敗北はやむをえない」という見極めもあったようだ。「宗門は、仏教の伝統を持っている。学会は信者ではあれ、大教団をつくる要件が整っていない」と冷笑する学者もいた。
 そのなかで、私は、西へ、東へ、南へ、北へ、全国を懸命に走った。海外に出れば、そこから全同志に励ましを送り続けた。国内外の指導者、識者、文化人とも、この一年間で百回はお会いした。皆が、学会の正しさを深く認識した。いな、正義の学会の力となってくれた。社会の人は、賢明である。
 「客観的に見ても、明確に、宗門が理不尽で、貪欲で、世間知らずである。人間を救うどころか、人間を愛せぬ機械だ。古い中世の金取りのようだ」と言った来賓もいた。
 そして、五月三日からは、小説『人間革命』十一巻を、権力の魔性と戦った「大阪」の章から再開した。私は全力をあげた。
 語って、語って、語りまくった。書いて、書いて、書きまくった。いな、日蓮仏法の正義を、創価の師弟の魂を、声も惜しまず、叫んで、叫んで、叫び抜いた。
 この時、学会は、もはや勝っていた。もはや勝利していたのであった。その記事が載った聖教新聞を読んでは、全同志は勇気と確信を強めた。正義の闘魂を燃え上がらせた。
 師弟不二で、聖教が師子吼したからこそ、あの狂乱の暴風を突き抜け、栄光の創価の旗は高々と翻ったのだ! 創価学会は、勝ったのだ!
4  過日、私は詠んだ。
  聖教の
    厳たる信念
      不二の山
 その日、八月の六日は、私が小説『新・人間革命』の執筆を始めて、十一周年の日であった。新聞連載は、いよいよ二千九百回に近づき、現在、歴史家トインビー博士との懐かしき語らいを描く、「対話」の章に入っている。ともあれ、私は今、五十年先の広宣流布の勝利を見据え、日々、スピーチを残し、日々、懸命に書いている。
 皆様もよくご存じの「雪山童子」の説話に、まことに印象深い場面がある。
 それは、仏の過去世の姿である雪山童子が、自らの命を差し出すことを条件に、鬼神から仏法の真理の一端を聞いた直後のことだ。大聖人は、雪山童子の心境を委細に綴られている(御書一三八五ページ、趣意)。
 ――雪山童子は思った。″鬼神が語ったこの言葉(半偈)が、仏の説かれたものと同じであるのは、なんと喜ばしいことか。ただ、この偈を、自分だけが聞いて、人のために伝えられないことが、嘆かわしい″
 そして、聞いたばかりの言葉を、石の上、壁面、道端の木々ごとに書き付けた。″願わくは、ここに後に来る人は、必ずこの文を見て、その意義を悟り、真実の道に入ってほしい″――と。
 なんとしても、真実の法を伝えたい! 後の人のために書き残しておきたい!
 生死の境にあって、自らの生命と引き替えにしてでも、後世のために真実を残さずにはいられないとの、やむにやまれぬ行為こそ、「書く」ことであった。ここに、なぜ、「文」が、「言論」が、巨大な力を持ち得たのか、その秘密がある。それは、「文」や「言論」が書く者、叫ぶ者の命を賭けゆく「生命」そのものであったからだ。
5  文は「善の剣」にも、「悪の剣」にもなる。
 「文飾」という言葉があるように、文は、しばしば自らを飾る。いな、飾るだけではなく嘘をつく。その嘘で人を騙し、陥れるデマとなれば、精神の毒薬をまき散らすだけだ。
 「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない」(「花なきバラの二」竹内好訳、『魯迅文集』3所収、筑摩書房)と、文豪・魯迅は怒りを込めて書いた。嘘、デマ、ふざけ半分の売文で人を狂わせる言論の暴力に、正義と真実が負けるわけにはいかないのだ!
 中国の思想家・王陽明の洞察にこうある。
 「天下の大乱は、虚文勝りて実行衰うるに由るなり」(近藤康信『伝習録』、『新訳漢文大系』13所収、明治書院)
 世の乱れは、事実と実行を離れた空文が蔓延していくからであると訴えた。まして、嘘や讒言が蜘蛛の巣のように社会を覆ったら、その社会は一段と暗黒となる。私も、何回となく、大嘘の卑劣な文章の攻撃を受けてきた。歴史上、偉大な方々も想像を絶する非道な言論の攻撃を受けてきたことは、あまりにも常識的なことだ。
 ゆえに、正義の剣、善の言論の剣が絶対に勝たねばならない。その鋭き宝剣で、邪悪な鎖を断ち切るのだ!
 社会に巣くう悪と戦い続けた明治の思想家・田中正造は、烈々と訴えた。
 「人は憶病する時に悪魔の窺うものなり。精神興起、千難万苦 毫も屈せざるの風采気力さえあれば、悪魔は遠くさけのびて、彼は面会をもさけて正義の人を怖るるものなり。
 正直ほど強きものなし」(田中正造全集編纂会『田中正造全集』16、岩波書店)
 全くその通りだ。
 創価の論陣が、善を強め、悪を斥け、正義の連帯に満々たる力を与えてゆくものだ。
 そして、来る十一月上旬には、わが聖教新聞は通算一万五千号という、偉大なる不滅の歴史の金字塔を燦然と打ち立てることになる。
 毎朝、聖教の配達をしてくださる全国の″無冠の友″の皆様、愛読者の皆様、そして聖教を支えてくださるすべての方々に、心から「万歳!」と感謝を申し上げたい。
 さあ、世界平和のために、世界の広宣流布のために、「聖教の正義の言論城」から、新たなる勝利と希望の大道を開き、邁進してゆこうではないか!
 いざや、わが友よ! 勇敢なるわが友よ! 使命と正義のわが友よ!
 人間主義の勝利のために、対話と対話の大海へ喜び勇んで飛び込み、勝利と正義の言論戦の大波を再び起こしゆこうではないか!
 その主役は誰か。その主役は我らだ。言論の武器をもった偉大な民衆だ。
 フランスの歴史家ミシュレは断固として叫んだ。
 「ことばと行動は一つだ。心に確信を吹きこむ力づよい断言は、行動の創造者だ。言ったことを生むのだ」(『フランス革命史』桑原武夫・多田道太郎・樋口謹一訳、『世界の名著』37所収、中央公論社)

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