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「山光」に生きる誇り(鳥取・島根)  

2004.7.2 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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1  わが郷土は「勝利」に輝く天地
 スコットランドの民衆詩人バーンズは、″正直者は王侯よりも偉大なり″と胸を張って、こう歌った。
 「さて我々は祈ろうではないか、
 (何と言われようとその日は来るのだが)、
 この地上で良識と真の価値が勝利を収める日が来ることを」(ロバート・バーッbズ研究会編訳『ロバート・バーンズ詩集』国文社)
 この六月は、私がスコットランドを初訪問して、ちょうど十周年であった。あの麗しき風光! 心美しき人びと! 私は、どこか、日本の山陰地方に通ずるような気がしていた。
 「山光」――私が、鳥取・島根方面を、こう呼んではどうかと提案したのは、二十年前(一九八四年)の五月のことであった。
 これまで私は、鳥取へ、島根へと、激しく動くなかで、その風景に何度もカメラを向けた。
 白砂青松の弓ケ浜。
 伯耆富士・大山の秀峰。
 緑深き島根半島。
 楽しげな皆生の釣り人。
 簸川ひかわ平野の田園。
 松江城の緑の木立。
 安来の空と雲。
 米子近郊の家々。
 滑走路から見た中海。
 飛び立った飛行機の眼下に広がる境港の町並み……。
 山光には、美しき自然との対話がある。行く先々でお会いした方々も、なんと人柄がいいことか!
 山光は、まさに日本の「心のふるさと」である。そして、わが山光は、健気な同志の奮闘で、この二十年の間に「地域貢献の模範」の代名詞ともなってきた。
 本年、島根文化講堂で行われた「偉大な指導者周恩来」展には、実に三万八百人が来場された。鳥取の米子では、東京富士美術館が企画協力した、報道写真家ロバート・キャパの作品展が大きな反響を呼んだ。学会のテレビ・コマーシャル「シリーズ″山光″」は、島根広告賞に入賞した。わが農村部の体験を発表する集いがあると、地元の名士の方々も、気軽に会館に足を運ばれる時代になった。
 「山光を見よ!」「山光に学べ!」と、全国の同志も、心から感嘆している。
2  今、山光の隆々たる勢いを見つめ、わが胸には、ある夏の日々がよみがえる。
 一九七八年(昭和五十三年)の熱く燃えた七月。私は打って出た。関西から岡山へ、そして、伯耆富士・大山を望む鳥取の米子文化会館へ走った。
 第一次宗門事件の烈風は、この方面でも吹き荒れ、同志は苦悩し抜いていた。ことに倉吉では、ずる賢き寺の坊主が、陰湿かつ卑劣に、真面目な学会員をだまし、切り崩しを始めていたのである。
 御書に、「猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらいいつわりたぼらか」と、喝破された通りの狡猾さであった。恐るべき邪悪の姿よ! 最大の真心を尽くし、守ってきた信徒を迫害するとは何たる裏切りか!
 「およそ虚偽というものはあらゆる悪の根源である」(「われわれは今どこに立っているのか」、ハンス=ベーア編『世界の知性――15の発言』〈長谷川博隆・長谷川明子訳〉所収、河出書房新社)とは、ドイツの哲学者ヤスパースの叫びだ。
 同志の悲痛と憤激の報告を聞くたび、血が逆流した。わが友が悪戦苦闘している激戦の戦場へ! ここに、広布の指導者の責務がある。
 シェークスピア劇の一人の王は誉れ高く言った。
 「私は誇りをもって言おう……われわれは泥まみれに働く勇士たちだ」(『ヘンリー5世』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』5所収、白水社)
 太陽の照りつける、炎暑の四日間の滞在中、お会いした方々は八千人を超えた。米子、鳥取、倉吉、境港の市部から、また八頭や岩美、気高、東伯、西伯、日野の郡部から、わが同志は波のように集って来られた。
 当時、鳥取の座談会の参加者は、県で五千人前後と聞いていたから、まさに、未曾有の勢いである。その尊き同志を、私は全身汗まみれになりながら、力の限り励まし続けた。
 民衆の中へ、人間の中へ飛び込んでこそ、広宣流布の大舞台は広がる。徹して、友に会うのだ! 友と語るのだ! 情熱と誠実の人間の「対話」なくして、広宣流布はない!
 毎月の最重要の行事である「本部幹部会」を、米子文化会館で行ったのも、この時である。本州の日本海沿岸で、初めての本幹であった。五月に広島で本幹を開催したばかりであり、中国方面にとっても、黄金不滅の歴史となったのである。
 会場を彩ったヒマワリの花の如く、誇らしき笑顔、また笑顔の鳥取、島根の友よ!さらに、広島、岡山、山口の中国の兄弟姉妹よ!
 私たちが作った中国の歌「地涌の讃歌」が発表されたのも、この席上であった。全同志が鳥取・島根を見た。いな、驚いた。そして、ここから響いてくる、雄々しき広宣流布の行進曲に、戦う勇気を奮い起こしていった。
 ここ鳥取が、また島根が、創価の「本陣」であった。私と共に、師弟不二の決心で全創価学会を動かし、堂々と指揮をとったのだ! 勇気を持て! 誇りを持て!
 それは、大きい転機であった。皆の胸中に激しく回転を始めた心の革命だった。
3  米子に滞在中のことだ。たまたま広間をのぞくと、役員や合唱団の方々が残っておられた。すぐに私は、広間へ飛び込んだ。
 皆の間を前から後ろへ歩きながら、一人ひとりと、目と目で、深い挨拶を交わしていった。自然に皆が「回れ右」をするような格好になった。私は、広間の後ろ側から、そのほほ笑ましい、決意あふれる皆の姿を、カメラに納めさせていただいた。
 「いつも同じ視点」からだけでは、一面的になり、真実の姿はわからない。たとえば、山光の地域は、かつて、中国大陸、韓・朝鮮半島との交流の″表玄関″であった。渡来船は、美しき大山をめざし、日本海の荒波を越えてきたのであろうか。
 近年、その大交流を物語る、日本最大級の弥生遺跡や遺物が、続々と出土している。また、淀江では、日本最古級の彩色仏教壁画も発見された。仏教文化が栄えた古の国際交流の一大拠点――それが、わが山光であった。
 近代では、日本海側を″裏日本″と呼ぶ風潮があった。しかし、見る目を変えれば、地図は全く変わるのだ。日本海沿岸の道府県は、本州では青森、秋田、山形、新潟へ富山、石川、福井、京都、兵庫、鳥取、島根、山口。そして北海道と、九州の福岡、佐賀、長崎がある。
 今や環日本海エリア、また北東アジアは、二十一世紀の平和と繁栄の鍵を握る、希望の先進地となってきた。その意味でも、鳥取、島根をはじめ、日本海沿岸地域の民衆力の拡大が、どれほど多くの人びとの勇気と決意の光源となることか!
4  さらにいえば、「人を見る目」も、決して一面的であってはなるまい。こちらの姿勢いかんで、人間関係は大きく変わってくるものだ。それが、「あの人は駄目」「この人はこう」と固定観念をもち、決め込んでしまうと、相手の違った顔が見えない。いな、相手と真っすぐ向き合うことができないのだ。相手ではない。自分の目に惑わされるのだ。また、自分に対してすら、「自分は、もう、これだけしかできない」と決めつけてしまう場合もある。
 先入観。我見。固定観念。思い込み――それらが自分を縛り、閉じ込めてしまっているのだ。その心の檻を打ち破ることだ! それには祈りと行動だ。勇気をもって、ぶつかっていくことだ。動けば、おのずから、視点は変わるのだ。
 思えば、法華経は、あらゆる人びとに幸福の可能性を開いた経王である。「この人は駄目だ」とは、絶対に決めつけなかった経典なのだ。そして、万人にそれを教えようとすれば、かえって嫉妬され、迫害されるとの、峻厳な定理を説いたのである。
 創価学会もまた、どれほど偏見や嫉妬に歪んだ色眼鏡で、曲解され、似ても似つかぬ虚像をでっち上げられてきたことか! しかし、だからこそ、学会は正しいのだ。学会は真実なのだ。だからこそ、何があろうとも、広宣流布の大道を、勇敢に突き進むのだ。
5  一九八四年(昭和五十九年)の五月、私は再び鳥取に飛んだ。
 あの宗門事件の焦点の地・倉吉市で、「鳥取青年平和文化祭」が開催されるのである。倉吉駅前の大通りに歓迎の横断幕が張られ、希望の祭典を祝ってくださっていた。
 文化祭に先立って、倉吉会館を訪れた。問題の寺が側にわびしく立っていた。私は、車で寺の前を横切り、凱旋門をくぐるように、我ら正義の会館の門を入った。
 「倉吉は勝ちました!」
 私が皆に宣言すると、歓声があがり、歴戦の闘士たちの顔がぱっと輝いた。
 声は炎である。声は剣である。声は弾丸である。偉大な庶民の英雄たちは、その正義の声をあげ、厳然と戦ってくださった。
 「反逆は常に反逆者を裏切る」(『追放』中、神津道一訳、『ユゴー全集』9所収、ユゴー全集刊行会)とは、ユゴーの確信であった。反逆者が使った刃は、必ず彼自身に返る。さんざん悪口の限りを尽くした悪侶も、反逆の輩も、今は見る影もない。
 「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」と仰せの通り、生命の因果はあまりにも厳しい。我らは断じて勝ったのだ!
 約四千人の若人が出演し、延べ一万七千人が入場参加した文化祭も、それはそれは美事な、大成功の舞台であった。勇気の光、勝利の光、生命の光が、全参加者の胸を晴れ晴れと照らしていた。文化祭の翌日、鳥取から島根に向かった私の心の空には、「山光」という言葉が太陽の如く輝き始めていた。
 十一年ぶりの島根訪問であった。安来、そして松江へと走る私は、あまりにも清く、健気な、島根の友の祈りを感じてならなかった。松江城にも宍道湖にもほど近い、我らの島根文化会館に到着した私は、直ちに、万感込めて提唱したのだ。
 ――ここ山陰を、光り輝く地の意義から、「山光」と申し上げたい――と。
 松江での夢のような三日間。松江・安来方面をはじめ、多くの友にお会いできた。出雲、平田、木次など出雲方面の友よ! 大田、江津、浜田、益田、さらに森鴎外の故郷の津和野など石見方面の友よ! また隠岐の友よ!
 私は、絶対に忘れない。松江でのスピーチで、私は二十一世紀への「世界広宣流布」の展望を確認した。
 ここ「山光」から、広布の法戦の火蓋を切るのだ! 栄光燦たる二十一世紀へ、私と共に、共々に! 仏法の眼で見れば、いずこであれ、一人立つ英雄がいるところ、そこが「広宣流布の電源地」となるのだ。わが偉大なる山光よ!
 島根・八雲村(現・松江市)の山光平和記念墓地公園――松江市街にも近く、心の行き届いた美しき平和の園と讃えられている。桝水高原の鳥取研修道場――秀峰・大山を間近に仰ぐ、気宇壮大な環境だ。いつか、この生命の園林を皆様と愉快に歩きたい。
 さあ、今こそ戦おう!
 強くあれ、山光の友よ!
 強く立て、山光青年部よ!
 さらにまた、師子の中国の英雄たちよ! 君らしく、君の声で、どこまでも正義を、毅然と叫び抜いていってくれたまえ!

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