Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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偉大なり 創価の婦人部(1)  

2004.6.10 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  最も勇敢なる母よ! 平和と幸福と慈愛の母よ
 ロシアの文豪トルストイのこの言葉は大好きだ。
 「自分を磨くことが、人生のどんな目的よりもはるかに重要である」(Полне собрание сочинений, Том 75-76, Терра)
 その手本として、「仏法即生活」の模範的な深き人生を生き抜いている学会の婦人部の方々は、本当に輝いている。
2  数日前、一日を荘厳に飾りゆく大空に、皓々たる満月が浮かび、わが創価の母たちの笑顔のように輝いていた。それはそれは、美事な大月天子であった。
 広宣流布とは、世界平和への大遠征である。
 愚かな人は、私たちのこの崇高な行動を知らずに非難する。また、怒りの嫉妬に狂っているような人は、人類の未来を決定する尊きこの法戦をば、薄ら笑っている。
 自らは、人のためにも、社会のためにも、何も貢献することなく、批判もされず、嘲笑されることもないのに……。
 ともあれ、あの人も、この人も、平和と幸福を満喫できるような、「皆が勝利者の時代」を創りゆく大行進が、広宣流布の実像だ。
 広宣流布とは、その意義を持っているのだ。
3  凍りついた野道を、人のために、仏法のために、歩き抜いてゆかれた尊き母の姿! 
 真夏の、ぐったりと疲れゆくあの道、この道を、友のために歩みゆく健気な母よ! 
 万巻の幸福の書を読むよりも、確かなる幸福を与えゆかんとする真実の人間よ!
 疲れて黙々と家路へ向かう無名の仏の使いこそ、有名な政治家たちよりも、著名な芸能人たちよりも、さらにさらに讃え迎えたいと、涙を流したアメリカの教育者がいた。
 世界の至る所で、この賞讃の声と光は広まってきた。
 笑いながら、わが道をば、幼子と手を結びゆく、一幅の絵の如き母親の姿よ!
 眠そうに泣いている我が子を背負いながら、汗に濡れて歩みゆく偉大な母よ!
 すべてが、人のためである。
 すべてが、法のためである。
 すべてが、平和のためである。
 すべてが、汝自身の勝利のためである。
 暗黒と不安の社会にあって、なんと愛おしき慈愛の光を抱きながら戦ってくださる母よ!
 崇高な母よ! そして、偉大な母よ!
 名誉も欲せず、ひたすらに、重い涙に暮らす人びとをば、今日も、明日も、幸福な軽い生命にと励ましゆく金色の魂の貴女よ!
 貴女の魂は、千年も、万年も、無量劫の彼方まで、美しき厳たる功徳となって、消えることはないでしよう!
4  十九世紀後半から二十世紀の初頭に活躍したアメリカの詩人ホアキン・ミラーは、「母」と題する詩を詠った。感動深い、この言葉を、私は忘れることができない。
 「これまで戦われた中で、最も勇敢なる戦い!
 それが、どこで、いつ戦われたかを教えましょうか?
 それは、世界の地図を探しても、見つけることはできないでしょう。
 なぜなら、それは、母たちによって繰り広げられた戦いなのですから」(The Bravest Battle, The Complete Poetical Works of Joaquin}Miller, BiblioBazaar)
5  地味な洋服、そして地味な着物を着ながら……しかし、億万長者よりも優れた財宝を胸に、その魂は最高に新鮮な金色の輝きを持っている。
 仏法の話になると、いかなる著名人も、いかなる学者も向こうに回して、それはそれは小気味よく、浅薄な非難を切りまくり、反論し、納得せしめていく、仏法の力、信心の力、慈愛の力よ!
 母は負けない! いかなる嘲笑にも、毒牙の批判にも負けない!
 負けないことが、勝つことだ。勝ったことだ。その人が真の勝利者なのだ!
 母は、知識よりも、理論よりも、もっと深き智慧がある。慈愛がある。
 知識は水を汲み上げるポンプであり、智慧が水である。ゆえに、智慧がある人が、最高の人間学を知っている人なのだ。
 百の理論よりも、一つの深い慈愛が、魂の勝利だ。
 広宣流布に向かいゆく、その瞳は、青春の生命を燃やしたそのままの姿である。
 母は、わが母は、一日一日のこの行動を、崇高な、そして尊い義務と思っている。
 万般の知識よりも、母自身の中に宿っている慈愛は、さらにさらに広く深い。
6  戦争中、そして動乱の戦後のなかにあって、最も苦しみ、最も生活の犠牲を強いられたのは、女性たちであった。
 夫の戦死や息子の出征。さらに来る日も来る日も、火炎に包まれた、悲惨極まる空襲。そして戦後の打ち続く、飢餓のような耐乏の暗い生活。終戦になっても、人間として生き抜くことは、さらにもう一つの激しい″戦争″であった。
 最愛の夫の遺骨が、子どもの遺骨が、あまりにも侘しく戻ってきた家々も多かった。
 その人生と生活の中には、慟哭があった。限りない地獄があった。
 その女性たちの安穏と満足と幸福の大道を開きゆくことが、私の師匠である戸田城聖の命懸けの戦闘であった。
 「地上から″悲惨″の二字をなくしたい!」
 この熱願が、戸田先生の根本的思想であったのである。
7  人生の厳しさを「宿命」というべきなのか。
 その宿命を転換しながら、不幸の命をば破滅させ、永遠に朗らかな、幸福の、そして福徳豊かな「人間革命」を成し遂げていくのが、人間としての目的であるはずだ。
 そのために、苦しくとも楽しい戦いを、貴女は好んで願ったのではないだろうか。
 生命は、今世だけのものでは絶対にない。三世永遠である。いつ、どこにあっても、「衆生所遊楽」の生命を創り上げておけば、何も恐れるものはない。
 アメリカ・ルネサンスの哲人ソローは語った。
 「この世の短い期間を永遠の生活の掟に従って生きなければならぬ」(『一日一章 人生読本〈1〜3月〉』原久一郎訳、社会思想社)
 その通りの人生を実践し、歩んでいるのが、わが母たちである。
 どうして自分だけが……
 どうして私だけが……
 こんな不幸な宿命に生きてきたのか……
 弱音を吐くな! あきらめるな!
 ありとあらゆる境遇の違いがあっても、人間は人間である。「心こそ大切なれ」と、御聖訓にはある。
 その通りだ。汝自身の心の決意の仕方で、いかようにも、人生は勝利できるはずだ。幸福になっていくはずだ。それは、歴史が証明している。
 「あの人は貧乏」と指さされる人が、たくさん、いるかもしれない。
 しかし、貧乏がなんだ。
 偉大なる歴史を残した、無数の名高い勝利者の大半は貧乏であった。皆が、人から笑われるような貧乏人であった。しかし、自分が生き抜く、その舞台で立ち上がったのである。そして勝ったのだ。
 卑屈になるな! 汝自身が生きゆく道で、ささいな事で気をつかいすぎるな! それは愚かだ。
 勝負は、一生で決まる。そして最後の数年が、決定打である。
 貧しき家に生まれたことを最高の誇りとすべきだ。
 その人が、根本的に人間としての勝利者のバトンを受け取ったのだ。
 虚栄の金持ちが、何が幸せか。見栄の有名人が、何が偉いのか。
 人を軽蔑して権力の座に就いた政治家が、何が尊いのか。
 足下を掘れ。そこに泉があることを忘れるな!
 経済上で負けたとしても、心の世界で勝て!
 社会の各界の位に負けたとしても、汝自身の深き哲学で勝て!
 幸不幸は、財産では決まらない。美貌でも決まらない。血筋でも決まらない。
 外見の偉さと内面の偉さでは、天地雲泥の差があるのだ。その深き生命の奥義を、悠然と勝ち飾った自負の心にこそ、勝利の王者の王冠は輝いているのだ。
 あの卑しい嫉妬に狂った悪口雑言など、君よ、振り向くな! 朗らかに、愉快に生きるのだ! 
 人を切り捨てて、自分に、その何倍もの傷をつくっていることをわかりながら、繰り返す、その人間の愚かさよ!
 悪人は、地獄から地獄に帰る。
 勝利者は、勝利者の道を歩いていくのだ。
8  母は、今日も健気に走る。疲れても疲れても走る。
 なんと、なんと素晴らしき尊き姿よ!
 わが友の不幸と苦痛を残らず拭い去れ! と祈りながら、母は走る。
 いかなる烈風の嵐があっても、折れた枝葉が数多く散らばっている道をば、今日も、そして明日も、いな、来る年も、また来る年も、さっそうと、そして不屈に粘り強く、わが歌を歌いながら生き抜いていく、いじらしき母よ!
 有名な場所であれ、無名な場所であれ、高貴な場所であれ、貧しき庶民の場所であれ、いずこに歩み進んでも、母のいるところには、「幸福と勝利の人間の旗」が、なびいている。
 「平和と正義の生命の名優」が、光っている。
 「世界一の婦人部」の日、おめでとう!

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