Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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創価の使命の花咲く天地
2004.6.3 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)
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1
北陸に勝利の新世紀よ 輝け
「この動揺する時代に
自分までぐらつくのは
ただ わざわいを増すばかり。
おのれの志を守ってゆずらぬ者だけが
世の中をつくりあげて行くのだ」(『ヘルマンとドロテア』の一節。ヒルティ『幸福論』所収、草間平作・大和邦太郎訳、岩波文庫)
これは、フランス革命期の乱世を背景に、文豪ゲーテが綴った言葉である。
現在も、また大乱世だ。
だからこそ、偉大な哲学を固く持ち、世のため、人のため、法のために、厳然と戦う創価学会が大事なのだ。
笑う者は笑え。批判する者は批判せよ。
だが、この動揺の時代にあって、誰が庶民の希望の光となり、勇気の柱となって、輝く「人間世紀」を創っているのか! 創価の使命は、あまりにも尊く、深いのだ!
これは、多くの世界の学者も見通して、賞讃していることだ。
2
「杏の花が美事に咲きましたね。本当にきれい……」
「嬉しいね。北陸の皆さんにも、見せてあげたいな」
この三月の末、私と妻は、青年たちと共に、東京・八王子にある牧口記念庭園の「あんずの丘」を歩いていた。
「婦人部の木」「女子部の木」として命名された五百本の杏林は、爛漫の創価の花園の如くであった。淡いピンクの花が優しく丘を包み、私は、幾たびとなくカメラのシヤッターを押した。
二月の本部幹部会でも紹介したが、この杏の林のなかには、かつて石川・塩屋の、戸田先生の生家に植えられていた杏の種から育った木々が多くある。
軍国主義の暴虐と戦って獄死された、牧口先生の遺徳を偲ぶ庭園である。
その最高に見晴らしの良い場所に、戸田先生にゆかりある杏が咲いたのだ。
それは、広宣流布のために生死を共にされた初代、二代の師弟一体の生命を象徴しているように思えた。
私は本当に嬉しかった。
師匠の大地の上に、弟子が花を咲かせる――ここに仏法の法則があり、師弟の勝利の喜びがあるからだ。
法華経に、「在在諸仏土常与師倶生」(法華経三一七ページ)と説かれる。
仏法の師弟は、あらゆる仏国土に常に共に生まれてくるとの仰せである。不二の師弟の宿縁は、断じて壊されることも、断ち切られることもないのだ。
3
戸田先生の生家の杏の″子孫″である苗木は、石川県で地区部長をされている方が育てたものであった。
実は三年前(二〇〇一年)、彼が生家の杏の種を手にした時、なんと種は、瀕死の状態だったという。
しかし、彼は、造園業ひとすじ三十年の経験のすべてを注ぎ、「必ず蘇生させてみせる!」と題目を送りながら、必死で知恵を絞り、あらゆる手だてを講じたようだ。
半月後、瀕死の種は見事に蘇り、芽を出したのである。
そして、私の七十五歳の誕生日を目前にした、一昨年(二〇〇二年)の暮れ、大人の腰の高さほどに育った七十五本の苗木を、学会本部に届けてくださったのである。
まさに、「
いれる仏種も還つて生ずるが如し
」の御金言を思わせる、蘇生の尊きドラマであった。
私は感激した。一人の人間の人知れぬ執念の祈りが勝利を飾った事実に、感動した。
4
大聖人は、「
妙とは蘇生の義なり
」と、厳然と仰せであられる。
妙法とは、永遠の「蘇生」の大法である。生き抜く力なのだ。前進のエンジンなのだ。そして限りなき向上のエネルギーだ。
いかに「もう駄目だ!」と思うような苦境に直面しても、本来、「生き抜く力」「難を乗り越える力」が生命の大地に厳然とある。その無限の偉大な力を蘇らせるのが、信心なのである。
力強く妙法を朗々と唱えていくならば、煩悩即菩提で、「悩みを喜びに」「不幸を幸福に」「宿命を使命に」と、必ずや変えていける。
この素敵な妙法を持った我々には、人生と生活の行き詰まりは絶対にないのである。
思えば、寒き遠き北陸が生んだ偉人・戸田城聖先生の人生こそ、「蘇生の義」の証明であられたのである。
先生が、一九四五年(昭和二十年)の七月三日、二年間にも及ぶ厳しき獄中生活を耐え抜いて出獄された時、体はボロボロであった。事業も破綻していた。厳格なる父・牧口初代会長は獄死され、学会の組織も壊滅状態になっていた。
憎悪に狂ったように、戸田先生への中傷非難も激しかった。
しかし、先生の胸中は、生涯の果てまで、勝利への生命が赤々と燃えていた。
いかなる激しき嵐にも、迫害の嵐にも、全く動揺する心はなくなった。
あの絶望に追いやった権力に対し、身を震わせながら、あまりにも冷静に、反撃の勝利を深く強く決意した。
必ず立ち上がって、勝ってみせる。
必ず創価は、断じて、日本一、いな世界一の勝利者の旗を高々と掲げてみせる。
私は戦う! 私は勝つ!
先生の胸中は、激しい叫びの炎となっていた。それは、怒りを超えて、歓喜に燃え上がったのである。その生命の深海から、怒濤の波は動き始めた。それは、わが身、わが五体を、大使命に恍惚とさせていった。やがて、生涯の大目標である七十五万世帯の達成への根源の力となったのは、当然である。
5
皆が、新しい勝利の歌を求めていた。
一九六七年(昭和四十二年)の八月十四日は、私が恩師・戸田先生に初めてお会いして、二十周年の日にあたっていた。
この日は、暑い暑い、本当に暑い一日であった。
そのなかで、私は、富山の高岡市民体育館で、北陸の四千人の同志と共に記念撮影を、賑やかに行ったのである。
古都・金沢から、小松や加賀から、また能登半島の輪島や七尾などからも、わが友は意気高く集ってこられた。暗い心の人などは、一人もいなかった。栄光の王冠を互いに分かち持っているような、晴れ晴れとした尊き勝利の方々であった。立山連峰を仰ぐ富山から、高岡、魚津、黒部から、氷見や新湊、砺波などから、さらには五箇山の一帯からも、想像をはるかに超える四千人が集ってくれたのだ。
私は、一人ひとりと、固い握手をしたかった。肩を抱いて、迎えてあげたかった。
撮影中も、会場の温度は、三十数度に上がり、息苦しいほどだった。汗が満身に噴き出し、ワイシャツの袖からも流れ落ちていった。
しかし、健気な尊き北陸の全同志が、「今日」というこの日、この時、この瞬間を、一日千秋の思いで待っていてくれたのだ。
その真剣な心に、全身全霊で応えることこそ、指導者の責務である。
私は、一回一回の撮影のたびに、マイクを握って同志を激励し続けた。
今こそ、なかなか会えぬ、わが同志の方々の胸に、確信の種を植えるのだ。
広宣流布の目覚めの種を、そして幸福の妙なる種を植えていくのだと、私は決意して行動をとった。誠実な北陸の友は、真剣に応えてくれた。
今や、北陸の天地には、あの地にも、この地にも、創価の旗が、広布の旗が、一段と高く、また高く翻っている栄光の天地となった。
この時の出会いを、学生部であった今の北陸長、女子高等部の″同期生トリオ″の北陸婦人部長、石川総県婦人部長、富山総県婦人部長をはじめ多くの方々が、青春の原点と定め、その誓いのままに、一筋に生き抜いてくれている。
私には、一生涯、忘れることができない方々だ。
6
御本仏が、わが門下の「明鏡」として、習い伝え、「未来の糧」としていきなさいと言明された言葉がある。
「
行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず
」の一節である。
江戸時代に″金沢法難″が起こった北陸では、昭和五十年代、あの第一次宗門事件の狂風が吹き荒れた。
傲慢きわまる坊主たちが、陰険なる迫害をもって執拗に信徒をいじめた。その驚くべき狂態ぶりは、呆れ果てたものであった。幹部でありながら、それらの″狂団″に紛動され、尊い同志を裏切っていった、哀れな人間もいた。
しかし、今は、皆、敗北の無惨な姿をさらけ出しているのは、皆様、ご存じの通りである。
一九八二年(昭和五十七年)の九月八日、私が名誉会長になって三年半を経て、遂に石川の小松空港に降り立った。烈風に耐え抜き、断固と打ち勝った、石川・富山の尊き英雄たちを励まさんと、六日間に及ぶ北陸指導に臨んだのである。
「とうとう来たよ!」
石川文化会館で筆を手にした私は、わが魂を北陸に置き留め、同志を守り抜かんとの決意で、こう認めた。
「誓」――。
荒れ狂う迫害の吹雪のなかにあっても、創価の旗を掲げ抜いた、愛する北陸の母よ、父よ! 若き息子たち、娘たちよ!
わが偉大なる「誓願の同志」たちよ!
「誓」とは、歴史をつくる「力」である。
「誓」とは、暗闇を照らす「光」である。
「誓」とは、邪悪を破する「剣」である。
私もよく知る、富山の多宝の母がいる。わが聖教新聞を配ってくださる、″無冠″の誇りに燃えた母であった。
二十五年前(一九七九年)、彼女の地域では、坊主らに騙され、多くの同志が去った。
聖教新聞も激減した。配達に走りながら、彼女は悔し涙で誓った。
「負けない! 絶対に私は負けない! 私が拡大して、購読者を取り戻そう!」
以前から聖教の拡大に挑んでいた彼女の勇気は、猛然と燃え上がった。その執念の挑戦は、昨年(二〇〇三年)で遂に通算二千部を突破した。
聖教購読が仏縁となって入会する友も多く誕生し、地元の組織は、かつての世帯数をはるかに超え、二地区に発展している。無冠の母は勝った!
美しき、また強き北陸の母は、勝ったのだ!
7
北陸の富山といえば、大地を赤や黄に彩る、あの「チューリップ畑」が目に浮かぶ。
その歴史は、八十六年前(一九一八年)、一人の青年の誓いから始まったことは有名だ。
「チューリップの父」と呼ばれる、故・水野豊造氏である。
″農家の人びとの生活を、もっと楽にしたい″――菩薩の心ともいうべき、この水野青年の決意が、幾多の苦難を乗り越え、やがて郷土を豊かにし、世界の人びとに平和の心を届ける、壮大なる花園を咲かせていったのだ!
まことの「誓い」の種は、必ず花と咲いてゆく。大事なのは、絶対にあきらめることなき執念と、前進ヘの戦闘を続けゆく負けじ魂だ。
北陸に広宣流布の一粒種が誕生したのは、五十年前の昭和二十九年のことであった。以来、妙法の種は、十年を節に大きく開花してきた。
十周年――金沢会館、富山会館が誕生。
二十周年――記念の北陸の大総会。
三十周年――五万人による第一回北陸平和文化祭。
四十周年――第一回の北陸栄光総会。
そして本年、遂に広布五十周年を迎えた!
北陸広布の百周年に向かって、大勝利で折り返す、新たな大発展への大いに記念すべき新世紀の年なのだ!
昨年の七夕(七月七日)のことである。その日、開港した能登空港の一番機に飛び乗って、北陸の友が学会本部に駆けつけてくださった。
能登から羽田まで一時間。「さらに″本部直結″の信心で戦います!」との、共戦の「心」が嬉しかった。本当に嬉しかった。涙が出た。
今年(二〇〇四年)もまた、北陸の完勝の一番星が、七月の空に輝き光ることを、私は深く祈る。
石川の友よ! 富山の友よ! 誇り高き北陸の同志よ!
妙法は、永遠に勝利だ。
師弟は、永遠に一体だ。
次の五十年へ、断固として、共に勝ち進もうではないか!
共に、そして共々に!
朗らかに愉快に!
強く、また強く!
断固として、勝利の金字塔を創りながら、不滅の歴史を誇り高く勝ち残していこうではないか!
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