Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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広宣流布の永遠の都
2004.5.8 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)
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1
仏法者は「国宝の中の国宝」
人間社会で、一番、「協調」を壊し、一番、「目的」を破壊していくものは何か。
それは「増上慢」であり「我見」である。おごり高ぶった慢心であり、自分に固執した、いわば自分勝手な考えである。
この増上慢と我見は、厳格に戒めていかねばならない。
人の意見を聞かず、「異体同心」を踏みにじることは、人びとを不快にし、「広宣流布」という目的観を崩してしまう、仏法上、極悪の行為であるからだ。
増上慢や我見は、人びとから嫌われる。その言々句々は、誰からも納得されず、皆が嫌な思いをする。
尊き同志や後輩を、幹部面して手下のように見下すことは、邪道中の邪道である。
初代の牧口会長は、常々「下から上を動かせ」と教えられた。
その下からの真剣な正しき声に耳を傾けないのは、上位に立つ真実のリーダーではない。
さらに牧口先生は厳しく指導された。
「広宣流布の和合僧を、自分勝手な我見と増上慢で破壊するような人間は、即座に除名せよ! 絶対に、そんな幹部に従う必要はない。
『法に依って人に依らざれ』である」
階級ではない。大事なのは、「広宣流布への信心」である。そこにこそ、偉大にして尊き人材の和ができあがり、常勝不滅の城が築かれていくのだ。
2
第二代の戸田会長も、よく厳しく言われた。
「要領のいい幹部もいる。傲慢な幹部もいる。
学会を利用して、自分がいい立場になることばかり考える幹部もいる。
腹の中で学会員を小馬鹿にしたり、大した人間でもないのに自分を偉そうに見せたり、学歴があるからといって尊大ぶる愚劣な幹部もいる。
また、皆の支援によって名誉ある議員にさせてもらいながら、信心を失い、退転して、恩知らずな行動をとっていく愚者や卑怯者も出るだろう」
そして先生は叫ばれた。
「本当の立派な信心とは、後輩を心から尊敬し、大事にする。創価学会の大恩を知って、創価学会を命をかけて護ることである。
和合僧を尊重して、我見や増上慢の幹部や議員を叱り飛ばし、異体同心の理想的な広宣流布の前進へと戦う人こそが、信心強盛な仏法者である」と。
3
平安朝の日本に、法華経を正しく伝えた伝教大師は、「国宝とは何物ぞ」と問いかけている。その結論は「道心ある人を名づけて国宝となす」であった。そしてまた「能く行い、能く言うは、国の宝なり」と、伝教大師は断言された。(「山家学生式」、『伝教大師全集』1所収、世界聖典刊行協会)
仏像や伽藍などが、国宝なのではない。正法正義のため、断固として平和を語り、仏法を語り、断固として平和のために、仏法のために行動する人が、真の国宝であるというべきなのである。
まさしく悪世末法において広宣流布に戦い抜く、わが創価学会員こそ、「国宝の中の国宝」の存在といってよい。
戸田先生は、私にしみじみと語られた。
「学会のために一切をなげうって、一生涯を学会に尽くされた人を、永遠に讃えゆくことだ。永遠に、その人の名を忘れてはならない。
大作、それが学会精神だよな。これが学会の崇高なる仏法の真髄だよな」
わが創価学会の平和と人道の陣列も、一千万へと近づいている。
牧口先生も、戸田先生も、願っておられた。
「一千万人になれば、すごいな。広宣流布の流れは、これで決まるだろう」
その一千万が、夢ではなく、現実に目前に近づいたのだ。
日蓮大聖人の御賞讃は当然のことながら、広宣流布の闘士であられた、牧口・戸田の両先生も、いかばかりか、お喜びのことであろう。
私も、心から感謝したい。
御本尊に、そして、妙法流布のわが同志に、感謝しても感謝しても感謝しきれない熱い思いである。
皆が仏である。皆が菩薩である証拠だ。
4
この「劫濁」「煩悩濁」「衆生濁」「見濁」「命濁」の「五濁」の濁り切った現実社会の真っ只中にあって、ありとあらゆる迫害、ありとあらゆる中傷非難、ありとあらゆる陰険な謀略を、私をはじめ、学会は受けてきた。しかし、すべて勝った。
すべての方程式が、御聖訓の通りなのであった。
遠くは釈尊もそうであり、近くは大聖人もそうであられた。
「真実」は、永遠に勝利して残る。「嘘八百」は、一時は毒の如く人びとを害すが、必ず消えてしまうものだ。
ともあれ、人生は勝負である。仏法も勝負である。平和と繁栄のために、それぞれの民族も、それぞれの国家も、勝負しているのである。
敗北は地獄である。勝利は天界であり、さらに、恐れることなき仏の世界となる。
永遠なる世界の平和のために戦い、人類の幸福のためへの戦いをば、断じて勝たねばならない。これが広宣流布であるのだ。
戸田先生は、ホール・ケインの名作『永遠の都』を青年に読ませた。
西暦一九〇〇年のローマを舞台に、若き革命児たちが、腐敗しきった政治や宗教の権力に敢然と立ち向かった。
そして、幾多の苦難や弾圧も、揺るぎなき信念と同志愛で勝ち越え、夢に見た人間共和の「永遠の都」を開いていく物語である。
今、私どもは、新しき「永遠の平和の都」を、そして「永遠の人間の都」を建設するために、動き、働き、戦っているのだ。
なんと大ロマンの舞台であり、作業であろうか!
我らは、人間としての最高の価値ある生き方をしている。
その「世界の広宣流布」の本陣が、わが新宿にあるのだ。
共々に
勝利 勝利の
新宿城
5
戦後、西神田にあった学会本部が、現在の新宿区の信濃町に移ったのは、一九五三年(昭和二十八年)の秋十一月である。
昨年(二〇〇三年)が五十周年の佳節となった。そして、創価の全同志が新たな五十年の勝利へ邁進している今この時、学会本部に隣接して建設中の、新しき平和と文化の大城も、七階建ての堂々たる雄姿を現した。(=創価学会本部別館は二〇〇四年八月に開館)
この学会本部を擁する「新宿本陣区」、さらに「新宿常勝区」、そして「新宿池田区」の三分区のスクラムは、それはそれは金城鉄壁の強さと誇りを持っている。
6
思えば、この愛する新宿の国土と、私は幾重にも不思議な縁で結ばれてきた。
「新宿池田区」の落合には、わが母校の大世学院があった。現在、高田馬場駅近くにある東京富士大学である。
また、戸田先生が捲土重来を期して会社を興したのは、百人町である。当時の百人町は、ここ「池田区」、そして「本陣区」にまたがる地域であった。
その後、先生の会社は、市ケ谷に移った。今の「常勝区」の地域である。
ここに、思い出深き学会の分室が置かれたことも、ご存じの通りだ。
さらに、一九七二年(昭和四十七年)一月十五日、新宿の同志三千四百人との、あの忘れ得ぬ記念撮影が行われたのは、この地にあった新宿区体育館である。
なお、戸田先生は若き日に、「常勝区」の早稲田鶴巻町に下宿されていた。
私たち一家が、一九六六年(昭和四十一年)の秋、大田区の小林町から「本陣区」の信濃町に越してきて、もう三十八年になる。その時、私は三十八歳であったから、すでに人生の半分を、新宿区のブロック員として、お世話になってきた。
わが新宿の友は、皆、家族以上のかけがえのない同志である。
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戦後、戸田先生の事業が最も苦境に立たされた時、多くの弟子は臆し、去った。
その中で、ただ一人、私は師匠をお守り申し上げ、阿修羅の如く戦った。
いかなる大迫害にも、師弟というものは断じて変わってはならない。それが師弟不二であるからだ。これが創価の魂である。ここ新宿で厳然と示し留めた学会の命である。
「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」
この若き日からの座右の銘を、私は筆で認め、新宿文化会館に贈った。
この文化会館を初訪問したのは、落成間もない一九七八年(昭和五十三年)の三月二十八日である。第一次宗門事件の烈風が吹き荒れた渦中であった。
「この広布の城から、新宿が勝ち戦の波を!」と、私は祈り願ったのである。
いついかなる時も、新宿の友は変わらなかった。
常に勇敢であり、常に雄々しかった。絶対に信じられる師弟と同志が、新宿には光っていたのだ。
「犬どもが吠えている。それは我々が馬に乗って進んでいる証拠だ!」
私が対談している、アルゼンチンの人権運動家エスキベル博士が贈ってくださった箴言である。
我らは、正義の師子の声が、嘘八百の言論の暴力に勝利する時代を築いている。
我らが声も惜しまず正義を叫び抜けば、必ず時代は変えていけるのだ!
「御義口伝」には、「
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり
」と説かれている。
妙法の大風を起こせ!
正義の大風を起こせ!
新宿の同志は、私と共に幾多の苦難を乗り越え、本部を厳然と護ってくださった。なかんずく、健気な婦人部の皆様が、来る日も来る日も、どれほど真剣に祈り抜き、祈り切ってくださったことか。
「困難が増せば増すほど獅子のような勇猛心をふるいおこす――これが私の主義です」(「随想余録」小泉一郎訳、『エマソン選集』3所収、日本教文社)とは、米国の哲人エマソンが、深い感動をもって書き留めた、無名の一女性の信念であった。まさに、この通りの新宿婦人部の祈りであり、行動であった。
激しい攻防戦の中で、苦労した分だけ、いよいよ新宿は強くなった! 堂々たる勝者となり、長者となったのだ!
8
「新宿」という地名の由来は、意外に知られていない。
江戸時代、甲州街道は、起点である日本橋から最初の宿場の高井戸まで四里(約十六キロ)の道のりであり、多くの旅人が難儀していた。そこで一六九八年(元禄十一年)、その中間に新たな宿場が設置されることになった。
待望された「新しい宿」が誕生したのである。これが「新宿」の始まりである。
「新宿」の「新」という響きからは、新しき町に喜々と集い合う、人びとの心の鼓動や活気が蘇ってくるようだ。
この「新宿」と書く地名は、全国の各地にも多く存在する。読み方は分かれるが、幾つか挙げてみると――
茨城県では、常陸太田市新宿町。
千葉県の館山市新宿、木更津市新宿、千葉市中央区新宿。
栃木県の足利市新宿町。
群馬県の館林市新宿、桐生市新宿。
埼玉県の東松山市新宿町、川越市新宿町・大字新宿、さいたま市緑区大字新宿。
東京都の葛飾区新宿。
神奈川県の逗子市新宿。
静岡県の沼津市新宿町。
愛知県の豊川市新宿町、名古屋市名東区新宿。
富山県の魚津市新宿。
このほか、東西南北、上下を名前に冠した新宿や、新宿新田、小針新宿など″新宿″の兄弟は数多い。
いずこの新宿でも、わが友が生き生きと活躍している。
常に新しき希望の発展の拠点となり、新しき前進の電源地となる――これが、「新宿家族」の誇りである。
学会本部の地元・信濃町の商店街をはじめ、わが街・新宿が賑わい繁栄していくことが、私たちは何よりも嬉しい。
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それは、昨年(二〇〇三年)の十一月、日曜日の早朝のことである。
「無冠の友」の婦人部と共に、新宿の街を爽やかに歩むアメリカSGIの友の姿があった。彼は、ニューヨークで広宣流布の指揮を執る、わが大切な旧友であった。
日本滞在中の真摯な求道の研修を終え、数時間後には帰国のフライトが迫っていた。
そのなかで「ぜひ、無冠の友と一緒に、聖教新聞の配達を体験させてほしい」という、かねてからの願いを実現したのである。
細い入り組んだ路地に分け入り、そしてまた、坂道やアパートの階段を上り下りしながら、一軒一軒、真心を込めて配っていく、静かな朝の人知れぬ戦いである。
彼は感動した。いな驚嘆した。「無冠の友」への感涙の思いを、私に伝えてくれた。
また、以前、スペインのリーダーが、新宿の「無冠の友」と一緒に配達した感激を述懐していたことが、今もって忘れられない。
わが家にも、毎朝、雨の日も風の日も、尊き無冠の友が聖教新聞を届けてくださる。
私は妻と共に感謝・合掌して、全国のこの尊き広布の使者の方々の御健康を、無事故を、御多幸を祈る日々である。
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この五月の一日、中欧・東欧など、かつての社会主義国を含む十力国が、正式に欧州連合に加盟した。名実ともに、東西分断の歴史に終止符が打たれ、「大欧州」の時代が幕を開けたのである。
私は、今日の「欧州統合」の提唱者であるクーデンホーフ=カレルギー伯爵が偲ばれてならなかった。
伯爵を、初めて創価文化会館に歓迎し、語り合ったのは、一九六七年(昭和四十二年)の秋十月のことである。その後も対話を重ね、対談集『文明・西と東』を発刊した。
伯爵は、創価学会に最大の期待を込めて言われた。
「日本が輸出すべきものは、単なる物や技術ではありません。(中略)もっと大事なことは、偉大な思想を世界に向けて紹介することです。その偉大な思想とは、インドに起こり、中国を経て、日本で大成した、平和的な生命尊厳の仏法の思想です」(『文明・西と東』)
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今、聖教新聞社にも、また民音(民主音楽協会)、戸田記念国際会館にも、各国の元首や指導者、識者を、続々とお迎えする時代に入った。
我らの新宿は「
大梵天王・帝釈等も来下して
」との御聖訓に通ずる晴れ舞台となった。
新宿の
本陣 頼まむ
世界より
友は来たりぬ
友は飛びゆく
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完璧な勝利で迎えた、この五月三日を中心に、毎日数千人、多い日には二万人以上の友が、新宿の学会本部に晴れ晴れと来てくださった。
私は、熱い涙が出るほど嬉しかった。ありがたかった。
皆、広宣流布のために懸命に戦っている同志だ。偉大なる、永遠に残りゆく名誉ある戦士である。
本陣・新宿が常に勝利の城であるからこそ、全同志も安心し、信頼し、連戦連勝の勢いが全軍に浸透する。この常勝の息吹こそ、新宿の使命だ。
新宿には、拡大日本一の誉れの誇り高き伝統がある。不滅なる創価の模範の城こそ、新宿であるからだ。
あの大河小説『永遠の都』(ホール・ケイン著)で、主人公ロッシィは叫んだ。
「民衆の兄弟的な連合は着々と進みつつある。野蛮な暴力よりも力強い勢力が世界じゅうにひろがりつつあるのだ」(新庄哲夫訳、潮出版社)
これまでの世界を蹂躙してきた権力が終焉し、「人間共和」の大連帯の時代が始まるとの展望であった。
嬉しきことに、わが同志の待ちに待った「新宿池田文化会館」も、この秋、いよいよ着工される予定である。(二〇〇五年十二月に開館)
新宿は、まだまだ伸びる。まだまだ発展する。百戦錬磨の闘士たちの鍛え抜かれた、絶大なる底力があるからだ!
人間共和の「永遠の都」、我らの新宿、万歳!
「絶対勝利の信心」輝く、栄光の新宿同志、万歳!
素晴らしき
この世 飾れや
新宿の
元初の家族は
百福光りて
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