Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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大中部に轟く正義の勝鬨  

2004.4.28 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  青年が立てば堅塁城は不滅
 「生まれつき耐えられぬようなことはだれにも起らない」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)とは、古代ローマの哲人・皇帝マルクス・アウレリウスが語った人生哲学である。
 若き青年の君よ! 何があろうが、断じて屈するな! 断じて負けるな! 前進をあきらめるな!
 法華経に説かれている「能忍」とは、「よく堪え忍ぶ」という意義を持った言葉である仏の別名のことだ。
 つまり、来る日も来る日も、苦難と苦悩に満ち満ちた危険千万である、この娑婆世界にあって、「何ものにも断じて負けない!」という不屈の師子王の生命こそ、仏であるというのだ。
 熱い涙を流し、苦悩の日々を乗り越え、悲しく歌ったあの日を勝利に変えながら、真実の栄光を、真実の幸福を勝ち取った、汝自身の魂の英雄の姿よ!
 これが、偉大なる中部の同志の方々の実像である。
2  それは、一九五九年(昭和三十四年)の秋の出来事であった。
 忘れることができぬ九月二十六日の夕刻――。紀伊半島の潮岬付近に、超大型の台風十五号が上陸したのである。
 各方面に、その恐怖の破壊を続けながら、台風は闇の中を北上していった。有名な伊勢湾台風である。
 この台風の直撃を受けた愛知県、三重県、岐阜県を中心に、全国で五千人以上の死者・行方不明者が出たのであった。
 この悲しき悪夢の如き災禍から、今年で四十五年となる。
 当時の私は、学会でただ一人の総務として、事実上、恩師亡き後の全責任を担っていた。
 あの暴風雨の晩、私は静岡にいた。皆の安否を思うと、夜も眠れなかった。
 いったん、東京に戻り、学会本部で懸命に救援体制を整えると、私は、友の嘆きを我が胸の嘆きとして、中部の大切な同志のもとへ走った。
 名古屋駅で降り、真っ先に″泥の海″のような被災地域に、数人の同志と共に足を運んだ。尊敬する友を護るために、大切な同志を護るために、異体を同心とする家族以上の友を護るために、私は全魂を打ち込んで走り回った。
 さらにまた、半年前にできた愛知会館を救援の本部とし、皆が何でも相談に来られるように開放した。
 ひっきりなしに同志が訪ねて来られた。
 家を失い、家財を流され、疲れ切った顔があった。不安に怯えた顔があった。泥まみれの姿で、中に入るのを躊躇する人もいた。
 「ここは、あなたの″家″です。そのままで結構です。どうぞ上がってください」
 一人ひとりを迎え入れては、消えかかった勇気の灯に再び油を注ぐように、私は全身全霊で励まし抜いた。
 「大悪をこれば大善きたる」と教えられた仏法である。最悪の事態も必ず変毒為薬できる信心である。
 ともかく、一番大変なところ、一番苦しんでいる人のもとへ飛び込め!
 そこで戦いを起こせ!
 これが、真実の仏法であり、学会精神であるからだ。
 それから私は、三重の四日市方面へ行くことを、即刻、決めた。
 大難があった時に、永遠に栄えゆく勝利と福運を開くべき、自分自身の魂を自殺させてはならない。
 「勇気」を与えることだ。
 「生き抜く力」を与えることだ。
 だが、台風の猛威は長良川をまたぐ交通を寸断していた。恐ろしい濁流が轟音を上げて立ちはだかっていた。
 「これでは無理だ」と、呆然と皆がつぶやいていた。
 しかし、私は、あきらめるわけにはいかなかった。
 川の対岸に、同志たちがいるからだ。行けないわけはない!
 我々は、無限の勝利の鎖で、魂と魂が繋がっているのである。
 私は前進した。大変な遠回りであったが、川を渡れない以上、岐阜から関西へ入り、そこから三重に向かうというルートを選んで、苦難と戦っている友のもとへ急いだのであった。
 どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある。救いのない運命というものはない。
 「運命というものは、人をいかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差しのべてくれる」(『新訳・ドン・キホーテ』全篇、牛島信明訳、岩波書店)
 これは、世界的に名高いスペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』に綴った一節である。彼の信念がにじみ出ている有名な言葉だ。
 息苦しい陰惨な″不可能の壁″が、いかに頑丈に見えても、鬼神をも動かす厳然たる祈りと、勇敢なる信念の行動があれば、必ずや、永遠の希望に満ち満ちた勝利の突破口を開いていけることは、間違いないのだ。
 私の尊き青春時代、四十五年前の一日一日の行動は、いな、一日一日の戦闘は、この魂をば、中部の大地に留めるためであったといえる。
 そして中部の全天に、勝利の風を巻き起こすための東奔西走であったといってよい。
3  ともあれ、日蓮仏法の「立正安国」の精神から、「人間革命」、そして「民衆の救済」と、さらには「社会革命」へと立ち上がった我が学会は、その前途に苦難の烈風を宿命づけられていくのは当然のことであった。
 特に、学会が支援する公明党が躍進するにつれ、危機感を抱いた政界や宗教界から、数限りない非難・中傷が沸騰していった。
 なかでも中部は、最も辛く苦しい歳月を歩んだ。
 思えば、私の″会長就任十周年″にあたる昭和四十五年ごろも、そうであった。
 当時、学会を狙い撃ちした悪質な中傷本に対する、一部のメンバーの抗議行動が、思いもよらぬ言論・出版妨害事件とされたのである。
 このいわゆる「言論問題」を発端に、学会を反社会的団体として抹殺せんとするが如き、囂々たる批判の嵐が吹き荒れたのだ。
 「言論問題」は国会に持ち出され、愛知選出の某議員などは、全くの憶測と偏見に基づいて学会を罵り、私に対しても不当極まりない「喚問」を要求したのである。
 中部の同志は、信教の自由を脅かす権力の横暴に、激怒した。言われ放題の情けなさに悔し涙した。
 この時、決然と立ち上がったのが、中部の青年リーダーたちであった。
 「こんなことが許されてなるものか! 必ず、必ず正義の勝鬨をあげてみせる!」
 十六人の青年たちが、固く盟約した。
 彼らは祈りに祈りつつ、胸中に不屈という堅塁を固め、「忍辱の鎧」を身にまとって、嵐のなかへ勇んで打って出たのであった。
 彼らは、陰湿な謀略に対して、そして邪悪な暴論に対して、堂々たる正論で反撃を開始していったのであった。多くの同志が誹謗と悪口に苦しめられた。
 しかし、卑劣な狂乱状態の攻撃に対して、栄誉ある尊き大使命に立ち、進んでいく我が学会を厳護せんがために、多くの友が歯を食いしばって、反転攻勢の火蓋を切ってくれたのだ。私は、生涯、忘れることができない、この同志たちの名前を、今でも御宝前の脇に置いている。
 彼は戦った。彼は前進した。彼は勇んで攻撃を開始した。そして誰人も納得できる誠実な対話で、信頼を大きく大きく広げていった。来る日も、来る日も、なかなか決着のつかない戦場で、攻めて攻めて、攻め抜いていった。
 我らの正義と、我らの戦うべき使命を叫びながら!
 法難の至高の喜びを、胸に抱きながら!
 息つく暇もなく、彼らは戦った。いや、戦い抜いた。
 そして、中部は勝った。
 彼ら「中部十六勇士」は勝ったのだ!
4   いざや起て
    いざや築けと
      金の城
    中部の堅塁
      丈夫勇みて
 かつて、私が戸田先生に捧げた誓いの歌である。
 私自身が「丈夫」となりて戦闘を開始して、絶対に人材の堅塁を築いてみせる!
 そして、大中部から、「死身弘法」の幾千幾万の青年たちを、必ず育てあげてみせると、私は大御本尊に真剣に誓ったのである。今、その通りの中部となった。理想的な中部の基盤は、出来上がった。本当に、私は嬉しい。
 仏典には、「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」とある。
 人間の生き方として拝すれば、「浅き」とは惰性であり、安逸であり、臆病である。この惰弱な心を勇敢に打ち破って、「深き信念」と「深き人間の偉大さ」につくのが「丈夫の心」だ。
 おお、一番星の中部の青年部よ、自分自身に勝っていくことだ!
 それが、本当の信念であり、仏の使者としての意志であるからだ。
 勝ちゆく人生は、素晴らしく幸福である。誇り高く正義の輝きである。そして、勝ちゆく人生を生き抜く人は、無限の価値と歴史を創り残しゆく、庶民の大王である。
 君よ、正義の友とスクラムを組め!
 下劣な力に負けるな!
 世間の日々の労苦にも負けるな!
 正義を貫き、人生を牛耳っていくのは、自分自身の自由な生命だ。
 負けるな!
 君よ、負けるな!
 愚か者になるな! 賢く、勝利の賢者になるのだ。
 さらにまた仏典には、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とも説かれている。
 自分の弱い心や感情に翻弄されることなく、本来の自分らしく、尊き使命に生きるのだ!
 その最も自分らしい人生の羅針盤が「信心」だ。
 そしてまた、正義に生きゆく学会と共に、広宣に戦いゆく師弟の大道を生き抜くことだ。これを外れて、信心はない。勝利はない。幸福もないからだ。
5  「あらゆる困難は、新たな発展への一つのチャンスです」
 現在、私が親しく対談を進めている、インドの大科学者スワミナサン博士の言葉は、私に、中部青年部の雄姿を想起させるものであった。(=『「緑の革命」と「心の革命」』と題し、二〇〇六年四月に潮出版社から発刊)
 それは、昭和五十七年の四月二十九日、岐阜で行われた第一回中部青年平和文化祭のことだ。その最後の演目である男子部の組み体操で、強風にあおられたように、五基立てられた五段円塔のうち、中央の円塔が崩れていったのだ。
 皆が驚いた。皆が蒼くなった。そして皆が固唾をのんだ。音楽も止まった。瞬間、全会場が静まりかえった。沈黙が長く感じられた。
 だが、直ちに、師子が吼える如く、不屈の声が沸き上がった。
 「もう一回だ!」
 「やるんだ!」
 崩れたことで、がっくりと打ちひしがれている弱虫など一人もいなかった。次の瞬間には、もう跳ね起きるように再挑戦が始まっていた。
 私は胸が熱くなった。
 そうだ。この不屈の挑戦が中部魂だ!倒れても、倒れても、断じて負けるな。立ち上がって、前へ進むのだ! やり遂げるのだ!
 全同志の祈りに応えるかのように、若き英雄たちの再びの挑戦は、永遠に輝く勝利の金字塔を築き上げた。
 青年たちは勝ったのだ!
 青年たちは歴史を築いたのだ!
 中部の天地に、「二十一世紀の希望の虹」が大きく輝いていることが、皆にはっきりと見えた。
6  おお、使命ある若き君よ! 
 おお、広宣流布の青年よ!
 いかなる困難の壁も、悠然と乗り越え、厳然と勝ち越えていってくれ給え!
 その尊き責任と、勝ち抜く力が、諸君自身の胸にあるのだ!
 ともあれ、私はすぐさま、第二回の文化祭を行うことを提案した。少々、疲れている青年に早すぎると思ったが、これこそ訓練の中の訓練をするのだという決意であった。
 皆がいっせいに、「やります!」と大声で叫んだ。
 五カ月後、中部の若人は、この文化祭も、圧倒的な勝利で飾ってくれた。若き諸君こそ、尊き広宣流布への「堅塁中部」の誉れ高き直系中の直系なのだ!
 法華経には、広宣流布に勝ち抜く人を、三世十方の諸天善神が守りに護れと厳命されている。一生涯、君たちを、諸天善神は断固として護っていることを、確信してくれ給え!
 そしてまた、大中部は、固い大地を蹴って、使命と勇気の鳳が飛翔しゆく舞台でもあった。
 一九九八年(平成十年)、世界六十三カ国の、人種も異なる多種多様な人びとをば、名古屋に賑やかに迎え、それはそれは絢爛たる世界青年平和文化祭が開催されたのである。「飛翔そして勝利」という、私も大好きなテーマであった。
 中部青年部十万人の代表二万人が、ナゴヤドームを揺り動かした青春の舞を、青春の心意気を、そして青春の勝利へのスクラムを見せてくれた。
 素晴らしかった。嬉しかった。
 嫉妬と僧悪が渦巻く、この世の世界でない、未来の理想としている人間愛の縮図が、ここにあった。
 さらに、中部の青年部は、私が日中友好に注いだ真情を汲んで、「偉大な指導者周恩来」展を、独自に企画・制作してくれた。
 天晴れ、中部青年部よ!
 君たちは、日本中に、大いなる新しき勇気の波動を広げてくれたのだ。
 「新たな戦いを起こせ!
 新たな勝利をもぎ取れ!
 それが、青年の青年たる所以だ」と。
 これが、青年の特権であるからだ。
  堂々と
    断固と勝ちたり
      中部かな
7  日本のど真ん中で、東西を見渡しながら、二十一世紀を決する広宣流布の、妙法流布の戦野を、縦横無尽に駆け巡ってくれ給え!
 東京、首都圏の勝利も、そしてまた関西の勝利も、中部の君たちが責任をもつ決意で、立ち上がってくれ給え!
 ともあれ、私が心から愛する愛知、三重、岐阜の青年たちよ!
 そして、偉大なる静岡の青年たちよ!
 大中部の若師子たちよ!
 完勝の金星よ! 勝って、勝って、勝ちまくれ!
 諸君が美事に築きゆく、永遠不滅の、夢に見た大堅塁城を、私たちは祈り待っている。
8  20040502 栄光燦たる五月三日よ 
9  創価の同志は勝ちに勝ちたり
  勝ちにけり
    五月三日の
      同志かな
 おお、晴れやかな五月の三日よ!
 威風堂々の凱旋の記念日よ!
 希望の世界に船出しゆく記念日よ!
 栄光燦たる五月の三日よ!
 見よ! 全日本、全世界の偉大な菩薩たちの生き生きと躍動しゆく姿よ! 前進しゆく姿よ!
 この明るい姿、邪悪を責め抜く勢い、仲良き団結こそ、我らの勝利と幸福だ。
 前進、前進、また前進!
 それこそが、我らの祝福の姿だ。
 素晴らしき同志よ!
 素晴らしき弟子たちよ!
 勇敢なる皆様ありての創価の栄光であり、勝利である。
 私は、全同志に、感涙をもって感謝申し上げたい。
10  五月三日――この日には、創価学会の魂の炎がある。
 一九五一年(昭和二十六年)の五月三日。
 我らの師である戸田城聖先生が、牧口初代会長の殉教から七年にして、第二代会長に決然と就任された記念日である。
 快晴だった。私の心も澄み切った快晴であった。
 この日、先生は、烈々たる口調で師子吼された。
 「私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は、私の手で必ずいたします!」
 広宣流布への大誓願である。当時の会員は三千人。驚天動地の目標でもあった。
 しかし、私は、嬉しかった。五体に勇気があふれた。
 広宣流布の大指導者であられる私の師匠が、いよいよ立たれたのだ!
 我も断じて立つ!
 真実の不二の弟子として、この大師匠の誓願を必ず実現してみせる!
 五月三日は、大宗教革命に戦いゆく、若き我らの決意の日でもあった。
11  それは、戸田先生の会長就任から二カ月余りが過ぎた、七月十一日のことである。
 土砂降りの豪雨のなか、男子部の結成式が始まった。西神田の小さな古びた本部である。わずか百八十人ほどの出発であった。私も一班長として、参加していた。
 その席で、先生は、皆が思いもよらぬ発言をなされたのである。
 「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。必ずや、私は、このなかにおられることを信ずるのであります。
 その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」
 そして、深々と頭を下げられたのである。皆が驚いた。唖然とした。
 先生は、「広宣流布は戸田がやる」と断言されていた。
 しかし、それが、一代で終わるはずのない、壮大な聖業であることを、誰よりもご存じであった。
 先生と不二の大誓願に奮い立つ青年なくして、広宣流布は成しえない。
 第三代会長として立つのは、その青年以外にありえないことを、聡明な師は叫ばれたのである。
12  三十二歳の私が第三代会長に就任したのは、一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日であった。
 晴れわたる記念のこの日、私は、二万人が集う日大講堂の壇上で青年らしく叫んだ。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」
 明るく力強い万雷の拍手が、私を包んでくれた。
 そして、折伏の大将軍であった戸田先生の弟子として、師が遺言された三百万世帯の実現を誓ったのである。
 戸田先生は、生前、さらに私に言われた。
 「一千万人が信心する時代がきたら、すごいことになるぞ。楽しみだな……」
 その一千万という盤石な平和と人道の民衆連帯を、この日本に築くことを、私は生涯の誓いとしたのだ。
 日蓮大聖人は、「大願とは法華弘通なり」と仰せである。
 ともあれ、五月三日は、我らの「広宣流布の誓願」の日と決まったのである。
 この日は、巡り来るたびに、創価の師弟が、広宣流布を誓う日となり、正義の戦闘開始の日となってきたのだ。それは永遠に!
  激戦に
    また激戦を
      勝ち越えて
    五月三日の
      輝く歴史は
13  今年(二〇〇四年)の「大白蓮華」五月号から、私は新たに「開目抄講義」を開始した。その「開目抄」の一節は、会長就任の時の私の決意であり、以来、片時も、わが胸を離れたことはない。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
 私は、いかなる大難にも断じて負けぬ魂を、我が師である戸田会長から鍛えられたという誇りを持っていた。
 大偉業を成しゆくには、平坦な道など、どこにもない。使命の道を歩んでいくには、「忍耐」、そして「もっと忍耐」、さらに「もっと、もっと忍耐」であると語っていた、ある国の大統領の言葉を、私は思い出すのだ。
 「諦め」の中には、「敗北」があり、「暗闇」がある。
 「忍耐」の中には、「希望」があり、「勝利」がある。
 見渡せば、峨々として連なる、峻険な尾根を登攀しゆく宿命の歳月であった。
 第一の険しき尾根は、あの一九七〇年(昭和四十五年)である。この会長就任十周年の五月三日は、日本国中からの集中攻撃を受けた「言論問題」の渦中にあった。
 次の十年も、山に山を重ねる艱難の連続の日々であった。第一次宗門事件の嵐のなか、一九七九年(昭和五十四年)五月三日を前に私は会長を辞任した。
 翌一九八〇年(昭和五十五年)も、私と学会への攻撃また攻撃が繰り返されていた時であった。陰険極まりなき悪侶と結託した恩知らずの反逆者らが、釈尊を攻撃し、殺害しようとした提婆達多の如き正体を露にしたのだ。
 その激戦のさなか、私は、常勝の都・関西の天地に走った。そして五月の三日、ここを本陣として、泥棒の如き邪悪を打ち破る壮絶なる決意を固めて、勝利のための戦闘を開始したのである。
 ともあれ、このような大攻撃を受け、戦い抜いたがゆえに、わが創価学会は清浄なる正義と団結の大教団として、日本一の基盤を作り上げることができたのである。
 さらに、日顕一派が広布破壊の魔性を現した、第二次宗門事件が惹起したのは、私の会長就任三十周年(一九九〇年)の時であった。
 邪宗門が暗き密室で、正義の学会の破壊を謀議していた時、わが学会は広々と世界を呼吸し、人類の幸福のために、悠然とスクラムを組みながら、平和への大行進を拡大していたのである。
 世界の識者と私との対話も、急速に広がっていった。ゴルバチョフ氏(元ソ連大統領)や南アフリカのマンデラ氏(前大統領)と、初めてお会いしたのも、この年であった。
 このように、会長就任から、ほぼ十年ごとに、大きな苦難の節目があった。
 しかし、そのつど、学会は最高峰の「文化の団体」、唯一の「正法正義の教団」、そして「世界の宗教」として飛躍した。艱難の山を乗り越え、勝ち越え、連戦連勝の王者の教団となったのだ!
14  学会が、なぜこれだけの難を乗り越え、勝利の歴史を築くことができたのか。
 それは、御聖訓に説かれる通りの「異体同心」であったからだ。
 大聖人は、「殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればちぬ」と仰せである。
 これは、中国の古代・周王朝の有名な故事である。
 当時、暴虐な支配者として民衆を苦しめていた殷の紂王に対して、断固、立ち上がったのが周の武王であった。
 しかし、七十万の紂王の軍勢に対して、武王の軍は、最初は、八百人の諸侯しかいなかった。数では、圧倒的に不利な状態である。
 では、武王は、いかにして、この劣勢を打ち破っていったのか。
 それは、武王は戦いを起こすに当たり、敵の悪逆非道を鋭く突き、決起の大義を堂々と語り抜いた。そして、志を同じくするものを、大きく結合していったのである。「人びとを苦しめる悪とは、徹して戦うのだ!」「今こそ立ち上がる時だ!」と。
 この堂々たる宣言に呼応して、陣列は大きく広がった。見方によれば、それは、決戦の時には、何十万もの連帯になっていたと考えられる。
 邪悪と戦う確信ある呼びかけに、人間は動く。正義に糾合されていくのだ。
 この鉄則を持ってきたがゆえに、学会も世界的になったのである。
15  私が第三代会長となった、あの四十四年前(一九六〇年)の五月三日、同じ日大講堂での祝賀会が終わり、私が退場しようとした時であった。
 「それっ、胴上げだ!」
 誰かの声が聞こえたと思った瞬間、青年たちが、「ワーッ」と大歓声を上げて、私に向かって突進してきた。そして、あっという間に、私の体は無数の手に押されて、宙に舞いに舞っていた。
 「万歳! 万歳! ……」
 その歓喜の渦、そして歓喜の力、さらに歓喜の呼吸は、一生涯、忘れることはできないであろう。
 共戦の同志なくして、広宣流布は絶対にできない。大事なのは、自分でなくして、同志なのである。
 戸田先生は、「三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできる!」と、何度も教えられた。
 その通りであった。戸田先生が遺言された通りに、第三代の私と尊き我が同志とが、「異体同心」で戦ってきたからこそ、世界への広宣流布はできたのだ!
 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」である。
 指導者は、決して威張ってはならない。後輩や、同志を、心から尊敬し、感謝していくことだ。そして、わが身を、同志たちのために、後輩たちのために尽くしきっていくことだ。
16  今や、わがSGIの大連帯は、百八十八力国・地域に堂々と発展した。そして全世界の同志が、晴れやかに五月三日を祝福する時代となった。
 いな、SGIの同志だけではない。たとえば南米・ブラジルでは、連邦区や州、数多くの市で、「5・3」を慶祝してくださっている。
 「五月三日は、私たち市民に、精神の滋養を与えてくれる日でもあります。″平和とは内面から発する″との創価学会の根本思想を、社会は必要としているのです。ゆえに、SGIのような平和勢力がますます発展しゆくことを念願しています」(「聖教新聞」二〇〇一年五月十一日付)
 ブラジルのパラナ州カンベー市の市長が語られた言葉である。
 さらにまた、五月三日は「創価学会母の日」でもある。
 あの「言論問題」の前後、私は体調を崩していた。また、会長の辞任後、大きな会合にも出られず、会員の方々に心配をおかけした。
 見舞いのお手紙も、数多く頂戴した。今でも大切に保管してある。同志の皆様の、ひたぶるな祈りと行動があったがゆえに、幾多の苦難に打ち勝つことができたのである。
 大恩は、わが同志に、わが後輩にあるのだ。なかでも、創価の母たちの健気な唱題こそ、一切の障魔を打ち破り、「五月三日」に栄光不滅の歴史を残す力となったのだ!
 この偉大なる母たちの信力、行力を、崇高な祈りと行動を、私たちは最大に尊敬し、決して感謝の念を忘れてはならない。母たちのこの健気な振る舞いを下に見たり、感謝がなくなった時に、信心は消える。仏法は破滅する。広宣流布は、何百年経ってもできない。皆が苦しむだけだ。そのような魔性の人間がいたら、和合僧の学会から追い出すことだ。
 これが牧口先生、戸田先生の叫びであった。
 五月三日、万歳! 創価の母、幸福の母、万歳!
 私は諸手を挙げて、力の限りに叫びたい。
17  思えば、五十年前の一九五四年(昭和二十九年)の五月三日は、私が青年部の室長になって迎えた、最初の五月三日であった。
 私は、戸田先生がお元気なうちに、広宣流布の勝利の方程式を全部、築いていく決心であった。そのためには、創価の青年たちが広布の全責任を担い立つことだ。そして、ありとあらゆる行動と実践で、一つ一つの戦いを、また行事を勝ち取っていくことを、体得することである。
 ゆえに私は、先生のお心を生命に刻んで、猛然と戦いを起こした。「5・3」の六日後には、豪雨を突いて青年部の五千人結集、その半年後には、倍増の一万人結集と、間断なき拡大と勝利の歴史を創り始めていったのである。その一年間に勝負をかけ、完勝し、私は創価の永遠勝利の基盤を築き上げたのだ。
 ドイツの大詩人ヘルダーリンの叫びを、私は忘れることができない。
 苦難が「胸には勇気を精神には光をあたえる」(「運命」手塚富雄訳、『ヘルダーリン全集』1所収、河出書房新社)と雄々しく歌った詩である。
 労苦の汗が光る一日! なんと偉大にして尊きことか! 艱難に鍛えられた一日! なんと人間として勝利し、生きゆく価値を創造していることか!
 自身の限界に挑みゆく青春の挑戦は、一日を一年に、また一年を何十年にも、黄金不滅に輝かせているのだ。
18  さあ、次は、明二〇〇五年の五月三日だ。
 我らの勝利と完勝のため、新しき劇の幕は切って落とされた!
 「この一年が堂々たる未来を決する勝負」と思い立つ人は、偉大なる福徳に包まれてゆくことであろう。
 「この一年が広宣流布の万年の大道を開く」と決意して行動する人は、無限の功徳と無量の幸福を浴びる人である。
 今日も、そして明日も、広宣流布のために、新たなる決意みなぎる戦いを開始しゆく、人間として最高最極の誇り高き創価の同志たちよ!
 断じて勝て! 断じて勝つのだ!
 「創価」とは、人間の平和と幸福と勝利の誉れの称号であるからだ。
 栄光の五月三日、万歳!
 尊き、また尊き同志、万歳!
 そして、二〇〇五年の五月三日、万歳!

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