Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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わが闘魂を九州青年部に託す  

2004.0.0 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  若き先駆王よ いざ最高峰へ!
 よく、戸田先生は言われた。退転しゆく人間についての指導である。
 「彼らは、見栄っ張りである。欲深である。独善である。自分を偉そうに見せたい連中である……。嫉妬深い。打算的である。異体同心の御聖訓を実行しない。信仰を持つ人を最大に尊重しない。広布に走る人を尊敬できない。我見が強く、意地悪な行動をする。業の深い人間である。つまり端的に言えば、真実の人間としての振る舞いではなく、どこか狂っている」と。
 皆と歩調を合わせ、皆と手を携え、皆と互いに尊重し合いながら、広布の道と、現実の社会を歩んでいくのが、当たり前の姿だ。人間以上の偉い人間はいない。人間以下に馬鹿にされる人間もいない。人間が人間らしく生き、人間と人間が深く結び合い、助け合い、共同しながら、一家も栄え、社会も発展し、国も平和になっていくのだ。
2  「われらは前に向かって進む。
 誰がわれらの前進をとどめえよう!」(「渡り飛ぶ白鳥」片山俊彦訳、『タゴール著作集』1所収、第三文明社)
 インドの大詩人タゴールの叫びであった。
 創価学会は、怒濤の嵐を越えて、世界広宣流布の大海原を厳然と突き進みゆく、最高の「正義の大船」である。
 その吹き荒れる突風のなかを敢然と行く、最先端の船舶の責任と大使命を担うのは、一体、誰か?
 いうまでもなく、それは、使命深き「先駆の九州」の勇敢にして偉大な同志たちであり、わが九州青年部であるのだ!
 見給え! 幾度ともなく、福岡・北九州に創価の大勝利の太陽が燦々と昇り、そこから全日本列島へ、勝利、勝利の大波を起こしてきた、あの赫々たる歴史を!
 断じて忘れるな! これが、我ら九州の誉れの伝統であるからだ。
 広宣流布の大航海の先頭には、常に「先駆の九州」の雄姿があった。真っ先に波濤に立ち向かう、雄々しき力闘と決意深き闘争があったのだ!
 一九九四年(平成六年)の十一月二十三日、福岡ドームの「アジア青年平和音楽祭」で、私と共に九州青年部五万人が轟かせた、ベートーベンの「第九交響曲」の「歓喜の歌」は忘れることはできない。
 さらにまた、二〇〇一年(平成十三年)の十二月二日、九州の百十七会場を衛星中継で結び、十万人の九州青年部が大合唱した「歓喜の歌」も圧巻であった。私も学会本部で中継を見ながら、皆様と一緒に歌った。
 「勇気は汝を正しい道に導く」(阿部謙太郎『ベートーヴェンの心の手記』平原社)とは、そのベートーベンの言葉である。
3  思えば、九州には、同志を苦しめた卑劣な反逆者、退転者が何人も出た。最高幹部だった者もいた。議員だった者もいた。だが、彼らは、傲慢と欲望と嫉妬の醜い虜となり、尊き使命を忘れ、民衆奉仕の責任を忘れ去っていった。
 師匠を利用し、わがまま勝手に振る舞い、皆に迷惑をかけた者もいた。
 そして、「大慢のものは敵に随う」の御聖訓の通りに、卑劣な裏切り者に転落していった。その忘恩の末路は、一人も残らず全く無残であった。
 一九七七年(昭和五十二年)ごろに顕在化した第一次宗門事件も、九州が一つの発火点となった。悪賢き坊主に脅され、たぶらかされ、大分、佐賀、熊本等で多くの脱会者が出た。
 ひたすら広宣流布に奮闘してきた、健気にして真面目な同志が、どれほど、いじめられ、裏切られ、苦しめられたことか!
 共に頑張ろうと手を取り合った翌日に、同じ相手が、恩深き学会に対して、悪口雑言の限りを尽くして去っていった。畜生の如き裏切りの罵倒に対して、その無念さは、血の涙が出るほどであった。悔しかった。苦しかった。
 「断じて、これらの悪を打倒してみせる」と、決意を固めた。
 この宗門事件の渦中、私が会長辞任に至ったのも、九州を担当していた見栄っ張りの最高幹部の不用意な発言が、直接の引き金となった。
 何ゆえに、九州には、繰り返し、悪人や悪坊主が紛然として現れてきたのか。
 まさに、これこそ、大九州が邪悪な魔軍との攻防戦の主戦場であった証拠である。
 大聖人の受けられた大難について、「日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」と御聖訓にある。
 広宣流布は、仏と魔との戦いである。ゆえに、仏の勢力が奮い立てば、魔も強く競い起こるのである。難があるから、信心が強くなる。魔と戦うからこそ仏の生命が現れるのだ。
 ともあれ、「先駆」とは、邪悪と戦う先駆だ!
 自らの戦いで魔を呼び起こしては、木っ端微塵に打ち破り、完勝の旗を高々と翻らせる!
 これが、わが九州の永遠の名誉の称号なのだ!
 イギリスの劇作家シェークスピアは言った。
 「反逆はつねにその報いを受けるのだ」(『ヘンリー四世 第一部』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』5所収、白水社)
 「裏切り者たちは歴史に僧むべき悪名をとどめる」(『アントニーとクレオパトラ』本多顕彰訳、岩波文庫)
4  私は「時」を待っていた。
 そして私と共に立つ、正義の「青年」を待っていた。
 昭和五十六年の十二月八日――この日、私は、断固たる決意で九州の大分に入った。あの宗門事件で、最も早くから悪辣な坊主の迫害を受けてきたのが、わが大分の同志であったからだ。
 直ちに、私は、その苦渋と憤怒の日々を、地元幹部から事細かに伺った。
 その際、坊主どもに騙されてしまった会員たちのなかで、青年部の退転者は、ごくわずかであったと聞いたのだ。
 ″大分の青年は、よくぞ耐えた! 勝ったな!″
 わが胸の空に、希望の光が稲妻の如く走った。
 青年しかない。青年が立ち上がる時が来たのだ!
 そして、私は、修羅場となって魔軍と戦いゆく、ここ九州の天地で、わが正義の闘魂を託し遺そうと決めた。
 十二月の八日の夜更け、私が執務する部屋に、信頼する九州の若き弟子を呼んだ。
 「これから、大事な儀式を行うよ。
 私は、これを授与するために、九州に来たんだ!」
 私は、数枚の原稿を入れた封筒を手にした。実は、数年前に書いて厳重に保管していた原稿を鞄に収め、大分入りしていたのである。
 「中身は後で見なさい。私の大事な原稿だ。
 時が来たら、これを持って、九州は立ち上がりなさい!」
 封筒を受け取った弟子の顔が、みるみる紅潮した。
 「今は誰にも見せなくていい。命をかけて守りなさい」
 封筒には、私の二種類の原稿が入っていた。
 一つは、私が第三代会長を辞任した一九七九年(昭和五十四年)の四月二十四日の夜、聖教新聞社で記者会見した直後に、心境を綴ったものであった。
 もう一つは、宗門事件が公然化してきた、忘れ得ぬ一九七七年(昭和五十二年)の十二月四日、九州・宮崎の宿舎で書いた一文である。この時も、私は、日蓮仏法に違背する無数の邪悪と、大攻防戦を繰り返してきたのであった。
 私は、憤怒の叫びを原稿に叩きつけるように書いた。
 「宗門問題 起こる。
 心針に刺されたる如く 辛く痛し」
 「広宣流布のために、僧俗一致して前進せむとする私達の訴えを、何故、踏みにじり、理不盡の攻撃をなすのか」
 「大折伏に血みどろになりて、三類の強敵と戦い、疲れたる佛子に、何故、かかる迫害を、くりかえし来るのか、私には、到底 理解しがたき事なり」
 「尊くして 愛する 佛子の悲しみと怒りと、侘しさと辛き思いを知り、断腸の日々なりき。此の火蓋、大分より起れり……」
 さらに、福井、兵庫、千葉などで、信徒迫害の悪坊主が現れた無念を、私は書き留めた。
 そして、一九八一年(昭和五十六年)に迎える蓮祖の第七百御遠忌を荘厳できるように、「血涙をもって祈り奉りしもの也」と、真情を綴っていった。
 そうでなければ、「邪宗、邪義、悪鬼魔神のみが喜ぶところ」であるからだ。
 これが、私の心の中に決意深く描かれた真実正義の絵画であった。
 九州の弟子たちよ、断じて仏子を守れ!
 邪悪と戦い、断固と勝ちゆく、わが闘魂を受け継いでくれ給え!
 そして私は、瞬時の休息もなく、創価の青年に新しき指標を贈らんと、思索を巡らせていった。その結実が、あの長編詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」の劇的な発表となったのだ。
 さらに、翌一九八二年(昭和五十七年)の五月、長崎で青年たちと作った九州男子部の愛唱歌、火の国・「青葉の誓い」も忘れることはできない。
5   幾度か
    また幾度か
      中傷の
    嵐を乗り越え
      われは勝ちたり
 四月二十日は、聖教新聞の「創刊記念日」である。
 皆様のお陰で、創刊五十三周年を迎えた。心より感謝申し上げたい。
 「悪書は単に無益であるのみでなく、断然有害」とは、ドイツの哲人ショーぺンハウアーの有名な言葉である。
 悪書やウソの言論の猛毒は、必ず人間性を蝕み崩壊させる。
 ゆえに、ロシアの大文豪トルストイは、ショーペンハウアーの次の言葉を、強い共感をもって記した。
 「出版された最初の年が、その存在の最後の年となるようないっさいの出版物(=悪書)を唾棄すること」(『文読む月日』北御門二郎訳、筑摩書房)
 下劣な悪書や言論の根っこには、恐るべき「人間不信」「信念の欠如」がある。
 恩師・戸田先生が、「信なき言論、煙の如し」と喝破された通りだ。
 聖教新聞と同じ五十三年の歴史を刻む青年部よ!
 善良な人びとを迷わせる煙幕の虚言など、真実の太陽で、正義の旋風で打ち破るのだ。
 広宣流布とは、正義の師子吼の「仏の言論」で、猛毒のウソやデマの「魔の言論」を打破する闘争なのだ!
 君よ語れ!
 君よ叫べ!
 「広宣流布の言論」の原点の日に集った、わが九州青年部に、私は「正義の言論王者の剣」を厳然と託したい。
6  「勇猛精進し給え!」 
 初代会長・牧口先生は、常に青年に言われた。
 この「勇猛」とは、「敢んで為すを勇と言い、智を端すを猛と言う」(「依義判文抄」六巻抄一二四ページ)とある。
 「勇」とは、「勇んで行動する」勇気だ!
 状況がどうあれ、「さあ、今日も語ろう!」「さあ、今日も前進しよう!」と、勇んで立ち向かっていくことである。
 「猛」とは、「智慧の限りを尽くす」執念だ!
 どんな壁に突き当たっても諦めない。
 「あの友を、どうすれば味方にしていけるか」「この友を、どうすれば納得させられるか」
 ――必死に祈り、最高の智慧を発揮していくのが「猛」である。
 わが友よ、戦おうではないか! わが同志よ、戦おうではないか!
 九州の男子部の君たちよ!
 女子部の貴女たちよ!
 学生部の諸君よ!
 毅然として誇り高く、正義の大道を歩み抜いてくれ給え! そして、勝って勝って、勝ちまくってくれ給え!
 「闘わなければ勝利もないのです。わたしは闘うつもりです」(『光は暗黒を超えて』早坂四郎訳、河出書房)とは、インドネシアの女性解放のために先駆した乙女カルティニの有名な言葉である。
 「どこをみてもなすべき仕事が山ほどございます!
 手を伸ばしさえすればりっぱな仕事、やり甲斐のある仕事が見つかるのです! うれしいことです! 仕合わせです!」
 その通りだ。偉大な使命に生きる青春ほど尊く、幸福なものはないのだ。
7  一九七六年(昭和五十一年)の夏八月、私は、鹿児島の九州総合研修所に集った、九州をはじめとする、学会後継の若き青年たちの代表八百人を前に語った。
 「将来、もし、学会が、一歩でも二歩でも後退するようなことがあったならば、全責任は諸君にある。諸君がだらしないからだ。そう自覚してほしい」
 厳しい言い方であったかもしれない。だが、わが青年たちを深く信頼するからこそ言ったのだ。責任を自覚するから、成長できる。責任は、自分を向上させる最高の近道なのだ。
8  私が対談した、チリ共和国の哲人指導者エイルウィン元大統領は語った。
 「基本的人権は、なによりも信教の自由に裏打ちされる」(『太平洋の旭日』。本全集第108巻収録)
 最も重要なる「人権」の闘争を繰り広げゆく、九州青年部よ!
 決然と集った「英知」と「勇気」と「勝利」の若々しき生命に輝く、一万人のわが名誉ある弟子たちよ!
 そしてまた、わが全九州の偉大にして永遠に歴史を創りゆく、誇り高き青年たちよ!
 広宣流布の全責任を担って立て!
 そして勝て! 勝ちまくってくれ給え!
 勝利の旗を、高く掲げるのだ!
 福岡で! 佐賀で! 長崎で! 熊本で!
 そして鹿児島で! 大分で! 宮崎で!
 ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯は語った。
 「一つの思想が実現されるか、どうか。それは、その思想にどれだけの人が味方するか。どれだけの実行力があるか。その数と力で決まる」(『クーデンホーフ・カレルギー回想録』鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会。参照)
 君よ進め、断じて前へ!
 君よ戦え、猛然と前へ!
 全員が勝つのだ。そこに幸福があるのだ!
 全同志のために!
 後世の友のために!
 九州の夜明けのために!
 自分自身の勝利、勝利の大歴史を築くために!
 諸天善神が見つめ、断固として君たちを護るであろう。
 御本仏が見守り、断固として若き偉大なる弟子を賞讃されるにちがいない。
 私は見つめている。
 諸君の勝利、また勝利を!
 二十一世紀の新たな栄光の最高峰を制覇しゆく、「先駆王」の君たちの決着力を!

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