Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広島の誓いの同志  

2004.4.14 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

前後
1  青年が猛然と立ち上がった!
 戸田先生が、それはそれは厳しかったのは、恩知らずの人間のことであった。
 「恩を知らない者は、畜生である。
 恩を仇で返す者は、必ず地獄に堕ちる。
 そしてまた、傲慢な恩知らずほど、鬼畜の如き卑しい人間はいない」
 それは峻厳であった。 
 いかなる役職であれ、いかなる功績者であれ、創価学会に大恩を受けながら、恩を仇で返していった議員、そして幹部たちの哀れな最後は、皆が知っている通りだ。
 「恩知らずが、組織の中にのさばると、妙法の功徳は、毒に汚される。功徳が消えるだけでなくして、魔物が動き始める」と、それはそれは、先生は厳しかった。
 純真な後輩を馬鹿にし、真剣に広宣流布に生き抜く人びとを軽蔑する。
 広布のために戦う仏子を、口先一つで動かそうとする。その性根を、先生は、落雷が炸裂するが如き激しさで、叱り飛ばした。
 去っていった幹部も、多い。しかし、その忘恩の輩が去った組織は、不思議にも大発展した。心から懺悔して、一会員のように純粋な信心に立ち返った者も多くいる。そうであっても、なかなか、その人間は、大きい勢いのある功徳は出ないものだ。
 仏法は厳しい。因果の理法は厳しい。
 わが中国方面にも、幾人かの不知恩の退転者がいた。反逆者がいた。
 その末路は、同じく哀れだ。皆様、ご存じの通りである。
 彼らは、御本仏から見放され、諸天善神から突き放される。
2  「来たな! 中国の青年部だね。すがすがしいね」
 広島から、岡山から、鳥取・島根の″山光″から、そして山口から、わが弟子である青年たちがやって来た。
 皆、躍動していた。
 皆、闘魂が光っていた。
 八王子の東京牧口記念会館で、世界広布の指揮を執っていた私は、青年の到着の報告を伺い、胸を躍らせた。
 この三月の二十一日、中国の新世紀・第四回青年平和総会の折のことである。
 大成功の総会に、私は万感のメッセージを寄せ、心から励ましたのであった。
3  わが中国青年部の平和総会は、二十一世紀になって四回目であるが、実は十年ほど前から、毎年続けてきた偉大な伝統がある。
 その最初の総会が行われた一九九五年(平成七年)といえば、学会は、来る日も来る日も、狂気のような誹謗・中傷に晒されていた。
 この前年から、嫉妬と憎悪を燃やした政治家や宗教団体等の野合による、卑劣な学会攻撃が荒れ狂った。
 信教は自由である。また、宗教者が政治活動を行うことも当然、自由である。いずれも、憲法上、明確に保障された国民の権利である。
 ところが、国民の人権を守るべき国会議員たちが、その「信教の自由」を下劣な政争の具にして、騒ぎ立ててきたのだ。
 いやしくも、国会での質問の場で、デマ雑誌の記事を振りかざし、一般市民たる学会員の人権を冒涜する者、「喚問」「喚問」と、何度も喚き散らす者……これが国民の代表者かと、全く恥ずかしく、唖然とした。
 日蓮大聖人が迫害の権力者に対して、「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ」と一喝された如き、無様な狂態であった。
 この異常な攻撃の陰で蠢いていたのが、中国地方出身の例の反逆者であり、日顕一派の坊主どもであった。
 ともあれ、憲政史上の大汚点ともいうべき、この″宗教弾圧″の嵐のなかで、私のもとに駆けつけ、「今こそ、わが師弟の正義を示さん」と立ち上がった若師子こそ、わが中国の青年部であったのだ! この歴史的事実は、永遠に光り輝くことであろう。
4  「彼は自分のうちに、憤激して沸きたつ力を感じていた」(『ジャン・クリストフ』豊島与志雄訳、岩波文庫)――文豪ロマン・ロランの傑作の主人公、ジャン・クリストフの純粋な魂が燃えたように、青年たちは燃え立った。
 「あらゆる害悪を復讐し、あらゆる不正を復讐し、悪人を罰し、大事をなさんがために、彼は生きたいという激しい願望をいだいていた」(同前)
 若き魂は、悪を許さない。悪を倒せ――その正義の情熱こそ、青年の生命だ。
 我らの″復讐″とは、血で血を洗う野獣の道ではない。どこまでも、正々堂々、痛快なる正義の勝利である。
 そして戦う以上、中途半端はありえない。
 断じて悪を叩け! 断じて勝ちまくれ!
 中国の青年たちは、痛烈な言論の刃で、凄まじき決意で、邪悪を責め、破折し抜いていった。正義の轟音は、響き渡った。
 ″民衆の敵″と戦い抜いた文豪・魯迅は叫んだ。
 「いつかかならず、だれが是でだれが非か、どちらが亡んでどちらが生き残るか、すべて明々白々になる」(「『文人は軽蔑し合う』再論」竹内好訳、『魯迅選集』6所収、筑摩書房)
 今や、その通りとなった。
 狐の如く悪賢き悪党たちの巣窟となっていた、あの化け物屋敷の如き寺を見よ!
 さんざんに我らを騙し、いじめ抜いた罪は、白日のもとに晒され、彼は追放された。
 あの徹頭徹尾、悪辣な権力者の野合もまた、宗教弾圧の永遠に消えぬ汚名のみを残して、露と消え去った。
 邪悪と戦えば、大善が輝くのだ!
 これが、仏法の鉄則である。人間の因果の鉄則である。
 おお! 大中国には、今、王者の如く、赫々たる勝利の旭日が昇った。もはや、我らは、侮辱を叩き割り、虚言を叩きつぶし、高貴にして聡明な真実の人間の大城を築いたのである。嘘で固めて、我らを蹂躙することは、断じてできない。
 中国は勝ったのだ!
5  それは、三十五年前の一九六九年(昭和四十四年)の年頭であった。私は、全国の同志に、詩「建設の譜」を贈って励ましたことを、忘れることができない。そして私は、″建設は死闘なり!″と、猛然と「勝つため」に打って出た。
 三月の上旬には、福岡から広島へ入った。
 戸田先生が、あの「原水爆禁止宣言」から二カ月半後、衰弱しきった体を震わせ、「広島で四千人の同志が待っている。死んでも俺を行かせてくれ!」と、私に叫ばれた広島である。私は、師との誓いを抱き締めて、わが広島の無量の生命の中へ、突進していった。
 そして三月の九日。広島市内の大会場に、予想をはるかに超えた五千七百人が集い合ったのである。
 そして、歴史的な記念撮影会が開催された。
 その中には、ご主人の遺影を持つ婦人もおられた。
 即座に、近くにあった赤いシクラメンの鉢を贈ると、彼女の目に大粒の涙が光った。
 私は真剣だった。皆も真剣だった。
 ここで、正義と使命と智慧を持ちたる代表者五千七百人と、思い出深き劇をつくることができたのだ!
6  記念撮影に参加した、ある男子部の友は、小学六年の時に、原爆による″黒い雨″を全身に浴びた。
 その後も胸を患い、死線をさまよった。やがて一九六三年(昭和三十八年)に入会。
 病魔と必死に闘うなかで、この日の撮影会に駆けつけたというのである。
 「広島男子部よ、断じて勝ち抜け!」との私の期待に、彼は誓った。
 「勝つまでは、死ねない。必ず元気になり、わが愛する広島県の広宣流布をやり遂げます!」と、明るい笑顔を浮かべ、心で叫んでいた。
 あの日を出発点にき彼はその誓いを忘れることなく、地域でも職場でも、見事なる勝利の実証を示していったようである。私は嬉しかった。
 そして、敢然と大病をはね返してきたことも、報告を受けている。私は、彼の″死の淵からの生還″を涙して伺い、「更賜寿命」と認めて贈った。
 ともあれ、誓いを果たす人生ほど尊いものはない。
 「大願とは法華弘通なり」とは、蓮祖の大切な御聖訓の一節である。
 私の青春時代の誇りは、師匠である戸田先生と共にありとあらゆる苦難を乗り越えながら、広宣流布の大願に進んだことにある。
 どんなに多忙であれ、いかに苦しくとも、愚痴も、文句もなかった。青年らしき力闘を続けたと思っている。なんの悔いもない。
 ともかく、苦労し、さらに強くなって、一生涯の誓いを果たすことのみが、私の一切であった。私の青春であった。私の人生観であった。
 次々と寄せ狂う苦難の波濤などに、断じて呑まれなかった。
 「より高きものに祝福あれ!」(「神性」山口四郎訳、『ゲーテ全集』1所収、潮出版社)とは、大詩人ゲーテの喝采である。
7  世界が見つめる平和の大光の都・広島!
 懐かしき日本の栄光の港、偉大なる呉!
 完勝の歴史を飾る福山!
 広島の三総県の団結は、日本一だ。いな、世界一の国土を創りゆく理想実現の妙法の天地だ。
 おお、今日も新しき息吹の岡山の友よ!
 おお、鳥取・島根の、美しく、懐かしき山光の友よ!
 そして、世界に有名な歴史回天の舞台、山口の友よ!
 さあ、新しき夜明けの我ら大中国の時代だ。
 勝利、勝利の歴史を綴るのだ! 断固と、圧倒的な大勝利の大道を築き上げるのだ!
 その彼方に、永遠に輝く、我らの胸中の霊鷲山が見える!

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