Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

偉大なる勝利の大東北  

2004.4.13 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

前後
1  勇気で築け! 信念の人材の城
 それは、忘れ得ぬ五十年前の春のことであった。
 一九五四年(昭和二十九年)の四月二十四日、戸田先生と私は、東北の仙台に向かった。
 この一カ月前、私は、先生より、新たに青年部の室長の役職を拝命した。
 当時の私は、一身に重責を担い、師の願業たる七十五万世帯の広宣流布を成し遂げるために、何が勝利の眼目か、思索する日々であった。
 仙台への師弟旅は、室長となった私を、戸田先生が連れて行ってくださった、最初の地方指導である。
 車中、戸田先生は、お疲れでありながら、休みもせず、あらゆる角度から、哲学の話、世界の指導者の話、牧口先生の話、そして、これからの学会の前途に対する諸注意等々、それこそ息つく暇もなく語ってくださった。
2  翌日の四月二十五日の朝、私たちは杜の都・仙台を一望する青葉城址に足を運んだ。伊達六十二万石の本陣の史跡である。
 師弟は、心も楽しく、有意義に歴史を語り合いながら、城跡の坂を上っていった。東北の青年たち六十人も一緒であった。
 伊達政宗のもとで、築城が決定したのは、慶長五年(一六〇〇年)である。断崖に守られた天然の要害に築かれた名城であった。
 苔むした石垣が、幾百年の風雪に耐えて厳としていた。
 「学会は、人材をもって城となすのだ。断じて、人材の城を築くのだ!」
 青葉城址に響く戸田先生の声に、私は粛然と決意した。
 ″広宣流布とは、どれだけ正義の人材を育成できるかだ! 私は、壮大な師子の大城を必ず築いてみせる!″
 それは、師の魂を継ぐ不二の弟子の揺るぎなき誓願となった。
3  「人間をつくることだ。指導者をつくることだ。味方をつくることだ。味方をつくったこと自体が、一切の勝利につながるのだ」
 これは、戸田先生のよく言われた指導の一つである。
 先生は自ら、東北のラジオ局の要請に応じ、インタビューに臨まれた。それは、都合三度に及んでいる。
 一九五五年(昭和三十年)二月の第一回のインタビューには、私も同席させていただいた。
 さらに、一九五六年暮れに行われた三回目のインタビューの時のことである。
 当時、″世間をあっと言わせた″創価学会とはいかなる団体なのか、世のマスコミは興味津々だった。
 いな、デマあり、中傷あり、偏見ありの情けない現実であった。
 戸田先生は、その荒れ狂う怒濤に自ら飛び込み、創価の旗を、正義の旗を打ち立て、味方を広げようとされたのである。ほかならぬ、大東北のこの天地から!
 「創価学会に青年が多いのはなぜですか?」
 アナウンサーの質問に、先生の答えは、ずばりと本質を貫き、明快そのものだった。
 「それは、哲学が深いからです!」
 聞く者の耳朶から消えることのない、不滅の名答の響きが、そこにあった。
 さらに、先生は言われた。
 ――若き青年は、その哲学を究めようとする。
 山に登るにつれ、山の高さがわかってくるのと同じで、究めようとすればするほど楽しみも増えていく。
 だから、青年は、一度ついたら、学会を離れないのだ、と――。
 ともあれ、生き生きと活躍する学会青年の事実の姿は、東北のマスコミ人を瞠目させていたのだ。
 私は、この戸田先生のインタビューの様子を伺い、心から感動した。
 その当時の私のノートには、若き日、仙台に留学した中国の文豪・魯迅の著作から、次の言葉が認めてあった。
 「事実は雄弁にまさる」(『熱風』増田渉訳、『魯迅選集』6所収、岩波書店)
 これは、妻が大事に残してくれていた記録のノートである。
 私は、その大切な日記やノートの何冊かを、親しい何人かの同志に差し上げた。そのことを、妻は大変に寂しがり、私を叱ったものである。
4  戸田先生の七回忌を目前にした一九六四年(昭和三十九年)の二月、仙台にいた私は、東北第一本部の地区部長会に出席した。
 一人の幹部が質問した。
 「教えてください!先生は、あの大阪の戦いで、なぜ一万一千百十一世帯の大折伏ができたのでしょうか」
 必死の声だった。「東北も大阪に負けない組織を作ってみせる!」との気迫を感じ、本当に嬉しかった。
 真剣な心には、真剣に応えたい。
 私は、まず、座談会を軸として、同志の勇気の行動が迸ったことを語った。
 さらにまた、当時の私の心を友に伝えたいと思った。
 ――私は、医者から″三十までは生きられない″と言われていた。毎日が死魔との闘争の連続だった。文字通り血を吐きながら戦った。
 戸田先生が「大作は長く生きられない」と、あたり構わず落涙されたとも伺った。
 大阪の指揮を執った時、私は二十八歳であった。
 もしかしたら、この戦いが最後かもしれない。そう思っていた。負けたら、戸田先生の前に行けない。ゆえに、断じて勝つと決めたのだ!
 「臨終只今」の覚悟であった。今日、死んでも、今、死んでも、少しも悔いがない。そういう決意で戦ったからだ、と――。
 その私の心境を、若き妻はよく知っていた。そのために、昼となく夜となく、遅くまで祈りに祈ってくれた。必死であった。可哀想なくらいであった。
 しかし、二人とも、師匠に応えたいと、祈り抜き、戦い切った。これが、真実の人間としての道であることを知っていたからだ。
 そして、関西の同志と共に「師弟の道」に徹し抜いて、壁を破り、不滅の金字塔を打ち立ててきたのである。
5  私は、愛する東北の友に、″人道主義が最後は勝利する″と確信していた魯迅の講演の言葉を贈りたい。
 これも、私のノートに書き取ってあった一節である。
 「かつて、ナポレオンが、アルプス越えをしたときに、こういったことがあります。『余は、アルプスよりも高い!』これは、なんと勇ましく偉大な言葉でありましょう。しかしながら、彼のうしろには、おおぜいの兵士が随っていることを忘れてはなりません。もしも、兵士がいなかったならば、彼は山の向う側の敵に捉えられるか、追い返されるか、そのどちらかであります」(『墳』松枝茂夫訳、前掲『魯迅選集』5所収)
 いわんや、学会の幹部は、会員のことを断じて忘れてはならない。
 一切の広宣流布の根本に、無名の尊き会員の力があることを、深く知らねばならない。
 これが仏法である。
 これが妙法の法則である。
 また、魯迅は言った。
 「いろんな事について、私はやはり真実を語りたい。そのためには他人の『デマ』を抹殺する外はないのだ」(同前)と。
 わが東北の方々は、本当に誠実で人柄がいい。
 だが、お人好しというだけでは、悪の付け入る隙を与えてしまう。だから悪と戦うのだ。戦わなければ、善の人すら護ることができなくなってしまうからだ。
 われわれ善人は、悪魔の如き坊主たちに、完全に騙された。ご存じの通りだ。
 絶対に悪人の誹謗中傷・策略に乗ってはならない。打ち破っていかねばならない。
 「正義の東北健児よ、広宣流布の総仕上げを頼む!」とは、私が常に東北に寄せてきた期待である。
6  「われわれ自身の努力を通じて(中略)先例のない変化を歴史に与える道がわれわれには開かれている」(『試練に立つ文明』深瀬基寛訳、『トインビー著作集』5所収、社会思想社)
 これは、大歴史家トインビー博士の有名な言葉である。
 昨年(二〇〇三年)、東北の青年たちが、そのトインビー博士と私の「対話」に光をあて、「『21世紀への対話』――トインビー・池田大作展」を企画・運営してくれた。
 特に平和会議のメンバーは、寝食を忘れて準備に当たってくれたと伺った。さぞ、苦労も多かっただろう。
 その労苦の汗は全部、自身の生命の勲章なのである。
 何より、東北健児が、全国を驚嘆させる先駆の号砲を打ち鳴らしてくれたことが、私は嬉しい。本当に嬉しい!
7  あの真実の″青葉の誓い″から五十年が経った。
 降りかかる迫害を、乗り越え、勝ち越えて、高邁な広宣流布という目的に進みゆく人材の城は、全東北に確立された。
 皆が希望に燃え、皆が確信に燃えて、そして忍耐の前進をしながら、一人ももれなく、暑さ寒さを乗り切って、全東北の同志は勝ちに勝った。
 宮城で! 岩手で! 青森で! 秋田で! 山形で! そして福島で!
 わが戦友たちは、断固として勝った。
 彼らは、あらゆる苦難を打開し、不幸と離別した。大謗法の悪と戦い、真実と誠実と勇敢のスクラムで、我ら大東北は悠然と勝ち抜いた。
 皆の心は、深い喜びに光っている。その眼差しの輝きを、私は嬉しく知っている。
 目覚めゆく東北の春はあまりにも美しい。
 草原に、花が咲き満ちている。野原も、すべての庭にも、花が勝ち誇って咲いている。
 それは、希望の花だ!
 東北の勝ち抜いてゆく運命が命ずる「勝利」の花だ!
 そして、秩序ある天上に光る、憧れの名誉の花だ!
8  大東北の同志よ!
 「仏法には、耐えられないことなど、断じてない」――このことを、君たちは教えてくれた。
 そして、君たちはまた、旧習深き、嫉妬に狂った古き権威の社会から、新しい人間的な軌道へと進み始めた。
 君たちの叫びは、正義の人の叫びだ。
 君たちこそ、貧しき人びとの正義の代弁者だ。
 君たちこそ、どん底にある人びとの勇気ある慰めの救済者だ。

1
1