Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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未来を開く神奈川
2004.3.30 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)
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1
正義のために断じて勝て
「指導者は、まず自らを正し、その後に、訓令を行う」(「教令第十三」、普頴華・鄭吟韜編著『白話諸葛亮兵法』所収、時事出版社)とは、諸葛孔明の有名な言葉である。
孔明は、率先垂範の勇敢な指導者であった。そして清廉であり、生活は質素であった。私利私欲がなかった。人民のことを真っ先に考えた。
この孔明の人生を語り合ったのが、私の会長退任後、神奈川文化会館にての、同志たちとの一時であった。
当時、私は、学会本部で新会長が仕事を進めやすいようにと、しばしば″神奈川文化″の方で指揮を執ったのである。
2
よく、私と妻は、青年たちと一緒に、神奈川文化会館の前にある有名な山下公園を散策した。ある時は、写真を何枚か撮ったりした。
賑わう港には大きな客船が錨(いかり)をおろし、平和な公園では鳩が群れを成して舞っていた。
ベビーカーの中で幼子が、すやすやと眠っていた。私はシャッターを切り、その母子に写真を贈った。
すると後日、「本当に嬉しい!」という喜びの便りをいただいたのである。
いつ来ても、ここには活発な語らいがあり、詩情があった。車で走った横浜の街々は、本当に大発展の勢いをもっていた。
3
それは、一九五六年(昭和三十一年)の十二月八日のことである。
第四回の女子部の総会が、神奈川の川崎市民会館で盛大に開かれた。その時の戸田先生の指導が、私には忘れ難い。
「諸君らと会って嬉しい! 若い諸君らと会って楽しい! 私は、みんなに必ず幸せになってもらいたいと祈るだけだ」
それから一年後の一九五七年の十一月二十三日、同じ川崎の会場で、第五回の女子部総会が開かれた。
この時、戸田先生は、重い病状にあった。私が一番、それを知っていたのである。
私は、体調を崩されていた恩師の代理として、この総会に向かった。
川崎の市民会館は、熱気にあふれていた。決意にあふれていた。前進の息吹にあふれていた。
戸田先生は常々、中国革命の先駆者・孫文の洞察を通して、教えてくださった。
″多くの人が皆、その志すところに立ち向かえば、成功は一層たやすくなる″
広布への決意を、皆が深く胸に鼓動させながら、集い合った女子部の方々は、あまりにも尊く美しかった。
この総会では、戸田先生が神奈川の三ツ沢の競技場で師子吼された「原水爆禁止宣言」がテーマとなっていた。師の期待に応えんと、被爆した女子部員の体験や原子力問題を論じる研究の発表もあった。
若さは、力である。若さは、希望である。若さは、勝利の象徴だ。
私は女子部の友が皆、幸福になるように願った。かのソクラテスも、その方途を教えている。
″幸福になろうとするならば、節制と正義とが自己に備わるように行動しなければならない″(『ゴルギアス』加来彰俊訳、『プラトン全集』9所収、岩波書店、参照)と。
病床で痩せていかれた先生に、はつらつたる女子部の様子を報告すると、嬉しそうに何回となく頷かれていた。
4
戸田先生は、この川崎での女子部総会の三日前にあたる十一月二十日の朝、広島の指導に向かおうとして、ご自宅で倒れられたのである。
その前日、衰弱の著しい先生のご様子を目にして、私は医師と連携をとって、すばやく手を打ち始めた。
私は、学会本部の小さな応接室で、広島行きを強く強くお止めした。
「ご無理をなされば、お体にさわり、命にもかかわります。おやめください!」
弟子の涙の懇願に、師もまた涙し、厳として言われた。
「仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。大作、俺は死んでも行くぞ。行かせてくれ。行かせてくれ」と叫ばれた。
出発の朝、先生は倒れられたが、それでも行こうとされた。
医師は、絶対の安静を厳しく言った。よって、先生の広島行きは、中止となったのである。
私自身も、広島行きを中止した。今は何があるかもわからない。どこにいても、すぐに駆けつけられるように、先生のお近くで、静かに見守っていた。
いな、先生が「大作、大作、側にいてくれ」と言われたのであった。
ともあれ、先生は、広宣流布の法戦にあっては、断じて一歩たりとも引かぬ決意を弟子たちに示しておられた。
「いかに踏みつけられようが、いかに苦しめられようが、私は広宣流布の指導者として、絶対にあとには引かぬ!」
それはそれは、鋭い鋭い気迫に満ちた指導であられた。
私は、師の壮絶なる決意を胸に刻み、弟子もまた同じ決意であらねばならぬことを深く誓って、戦い続けた。
「困難は私たちに祈ることを教えてくれる。
苦しみは感覚を研ぎ澄まし、身体を活性化させると同時に、何よりも、私たちの心を動かして、その内奥にある最も崇高な感情を呼び覚ますのだ」(The Education of Man: Aphorisms, translated from the German original by Heinz and Ruth Norden, Philosophical Library)
青春時代に愛読した、スイスの大教育者ペスタロッチの言葉である。
5
神奈川県の川崎市は、私の故郷である大田区の″隣人″である。川崎も、大田も、ともに、多摩川の押し流す土砂から沿岸の平地が形成されていった。従って、共通の母なる大河の流れに育まれた兄弟であり、姉妹なのである。
あの悲惨な戦争の苦しみも、一緒に味わった。
一九四五年(昭和二十年)、川崎が大空襲に焼かれた四月十五日、大田もB29に襲われ、私も、両親も、火の海の中を逃げまどった。
米軍は、軍需産業の多かった川崎と大田を、同時に攻撃目標にしたのである。
戦後、焼け跡の町で、私は戸田先生とお会いし、広宣流布に人生を賭けた。
先生の言わんとされる眼目は、あのトルストイの言葉に凝結されていた。
「偽りの信仰の要求するままに服従する――そこに人間の不幸のいちばん大きな原因がある」(小沼文彦編訳『ことばの日めくり』女子パウロ会)
ゆえに、「正義の創価学会に、君の全生命を捧げていき給え!」というのが結論であった。
一九五二年(昭和二十七年)に、蒲田支部の支部幹事になった私は、幾度となく川崎方面の街々を走りに走った。
時折、風が運んでくる潮の香りに詩心が湧いた。
関西人と同じように、飾らない川崎の庶民の気風が、たまらなく胸を打った。
川崎市の中原区の田島宅や伊牟田宅で開かれた、朗らかな座談会は、今でも懐かしく覚えている。
大田への帰路、夜の多摩川の鉄橋を渡りながら、いつも私は、小さな声で題目を唱えながら念じていた。
″十年後、二十年後も、お元気な姿で!わが川崎の友よ、いついつまでも幸せに″
ここ川崎は、広宣流布の急所である。都心と横浜の間に位置し、ひとたび川崎が動けば、その勢いはたちまち東京へ、神奈川全体へ波動する。
まさに川崎は、神奈川だけでなく、東京、そして首都圏の″心臓部″でもあるのだ。
心臓の働きは、外からは見えない。一瞬の休みもない。黙々と動き、働き続けている。
それが″心臓部″の使命であり、尊い仕事であり、誇りである。
どれほど、その福運が大きいか。仏菩薩の御照覧は絶対に間違いないであろう。
「
陰徳あれば陽報あり
」――かくれての善行があれば、善き果報がはっきりと現れる。
これは、神奈川の天地で、卑劣な嫉妬の讒言と戦いながら、師弟の勝利の証を打ち立てた四条金吾への御聖訓の一節である。
人は往々にして、「陽報」のみを追い求める。しかし、それは空しく消え去ってしまうものだ。
永遠に崩れない幸福を築くためには、「陰徳」を積む以外にない。
広宣流布のため「陰徳」に徹しゆくならば、必ず、必ず偉大な「陽報」が現れる。
これが、一点の曇りも無き仏法の因果の理法である。
6
十九世紀の韓国の大思想家である
丁若鏞
チョンヤギョン
は言った。
「考えながら学ばないことと、学んで考えないことは、その弊害が同じだ」(鄭鎭石・鄭聖哲・金昌元『朝鮮哲学史』宋枝学訳、弘文堂)
神奈川には、進取の気性で生き生きと学び、そしてみずみずしい発想で、新しい世界を構築していく柔軟な精神がある。
横浜は「日刊新聞発祥の地」とされている。これも、その証左の一つといってよい。
貿易港の横浜では、両替相場、外国船の発着、輸出入品の情報をいち早く知る必要があり、日刊紙が生まれたというのだ。明治三年のことである。
それは、江戸時代の瓦版のスタイルを打ち破る、「言論の革命」「情報の革命」「スピードの革命」でもあった。
広宣流布とは、言論戦だ。社会に向かって、民衆が声をあげ、活字を届け、対話の渦を起こし、思想の優劣、正邪を決しゆく戦いだ。
その精神闘争にあって、常に新しい価値創造の大波を起こしてきたのが、神奈川の誉れの同志である。
湘南も、横須賀も、茅ケ崎も、また相模原も、大和も、平塚も、そして厚木も、小田原も、わが破邪顕正の友は、雄々しく勇敢に戦っている。
ドイツの詩人で劇作家であるブレヒトは謳い上げた。
「真理を語ることを決心した人びとのあいだでほんとうの仕事が始まっている」(『作家たちへのスピーチ』好村富士彦訳、『ブレヒトの文学・芸術論』所収、河出書房新社)
いわれなき中傷を浴びせられ、沈黙している陣営に勝利はない。反応が遅く、スピードのない組織に勝利はない。
それは、悪を傲り高ぶらせるだけである。
「傲慢は悪魔に特徴的な属性である」(「アメリカ・ノート」富原真弓訳、『カイエ』4所収、みすず書房)と喝破したのは、フランスの女性思想家シモーヌ・べーユであった。
理不尽な悪口を一つ言われたら、即座に十でも二十でも反撃することだ。
御聖訓には「
師子の声には一切の獣・声を失ふ
」と仰せである。
あらゆる悪口罵詈、あらゆる邪悪なデマを粉砕し、完全に圧倒しゆく、正義の師子の大音声を轟かせるのだ。
7
思えば、聖教新聞の創刊号を飾った見出しは、「聖火鶴見に炎上」であった。
今また、新しき正義の大言論戦の火蓋は、わが大神奈川から切るのだ。
全国のどこよりも早く、神奈川に誇り高き「ヤング男子部」が誕生して十年――。
わが神奈川青年部は、全員が一騎当千たれ!
いまだかつてない広宣流布の大拡大の原動力となれ!
勇気で勝て!
スピードで勝て!
異体同心の団結で勝て!
その模範を、全国、いな、全世界に示しきるのだ!
昨年(二〇〇三年)、神奈川文化会館も、新装なった。
待望の相模原中央文化会館、港南文化会館の宝城も、いよいよオープンする。
さあ、わが大神奈川の同志たちよ!
さらに堅固にして、さらに雄壮なる難攻不落の大人材城を、今こそ、堂々と、晴れ晴れと築いていってくれ給え!
君よ! 君たちよ!
「正義」のために、断じて勝ってくれ給え!
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