Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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戦う中部 輝く中部  

2004.3.14 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  民衆ほど強いものはない!
 私が青春時代より敬愛していた哲学者の一人に、フランスのボルテールがいる。私は、彼の多くの言葉が好きだった。歳月を経ても、現実に「なるほど、彼の言うことは正しい」と思う昨今である。「十八世紀はボルテールの世紀であった」と讃えられるほど、巨大な思想家である。彼は叫んだ。
 「人民よ、めざめよ、鉄鎖を断ち切れ! おまえの本来の偉大さに立ち帰れ」(井上さつき訳)
 魂を揺り動かす響きだ。
 人民ほど強いものはない。人民ほど尊いものはない。人民が、自らの本然の力に目覚め立つ時、いかなる抑圧の鎖たりとも、断ち切れないわけがないのだ。
 日蓮仏法の真髄である「御義口伝」には、こう説かれている。
 「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く」「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり
 一人ひとりが、この大歓喜の生命を躍動させながら、不幸と不正の邪悪な連鎖をば、雄々しく打ち破っていくことが、我らの広宣流布である。
 人類史に輝く最高峰の知性の志向は、皆、仏法に通ずる。ボルテールも言った。
 「あらゆる領域における精神の開発は心を高貴にさせる」(高橋安光『ヴォルテールの世界』未来社)と。「行学の二道」に励み、わが生命を錬磨しゆく仏道修行と一致する。
 彼は、こうも語った。
 「徳とはなんであるか。隣人にたいする善行である」(『哲学辞典』高橋安光訳、法政大学出版局)
 地域に根ざし、近隣に貢献する学会活動といってよい。
 「安定した社会の存するところには、いずこであろうと宗教は不可欠である」(『寛容論』中川信訳、現代思想社)
 これまた、彼の主張であった。
2  「われわれは口と筆とによって人々をよりよく啓蒙し、よりよく改善することができる」(W・デュラント『哲学物語』豊川昇訳、『世界教養全集』1所収、平凡社)――ここに言論の戦士ボルテールの確信があった。
 政治であれ、宗教であれ、人間の尊厳を脅かす邪悪に、彼は火を吐く舌鋒と筆鋒で立ち向かった。冤罪に陥れられた市民の人権を守り抜くために、矢面に立って死力を尽くした闘争も、あまりに有名だ。彼の正義の叫びは、幾多の良識を糾合した。その一方で、彼自身が凄まじい迫害の標的とされた。
 「私を攻撃する滑稽な中傷が図書館になるほど印刷されました」(「往復書簡」井上堯裕訳、『ルソーとヴォルテール』所収、世界書店)
 全く嘘八百の卑しい作り話で、彼の名誉は散々に傷つけられ、貶められた。
 なぜ、ボルテールのような高潔な士が罵られるのか。彼を、国家の元首に勝る「思想の元首」と讃嘆してやまぬ文豪ユゴーは喝破した。
 「あれはねたみと僧しみの古い法則がはたらいていたのだ。天才は悪口を言われ、偉人はいつも多かれ少なかれ吠えつかれる」(『レ・ミゼラブル』3辻昶訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』4所収、潮出版社)
 これが、歴史の常である。
 法華経には、厳然たる法理として、「悪口罵詈」「猶多怨嫉・況滅度後」「数数見擯出」等と説かれる。
 御聖訓にも「如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可し」と仰せだ。学会は、その通りに「数数」の難を受け、戦い続けてきた。これこそ、蓮祖に直結する正統の誉れなのである。
3  いかなる宿縁であろうか、信長、秀吉、家康らが歴史を刻みし、ここ中部の天地は、創価の大法戦においても常に最も激しい決戦場となった。敵の襲撃も熾烈であった。
 しかし、わが友は、荒れ狂う弾圧の嵐を耐えに耐えた。いな、激怒しながら、歯を食いしばって前へ前へ進んだ。そして勝ちに勝った。勇敢なる中部の同志こそ、忍難弘通の「この道」を、第三代の私と共に歩み抜いてくださった誉れの戦友なのだ。
 かのボルテールは、凶暴なる言論の暴力に対して、敢然と切り返し、打ち返した。
 「批評すると称して、論拠をあげるかわりに、烈しい侮辱や、無知や、悪意や、誤謬や、欺瞞をさらけだすものは、誠実な人々の嫌悪と軽蔑を招くだけだ」(『ルイ十四世の世紀』丸山熊雄訳、岩波文庫)
 正義と真実を冒涜した者は、必ず厳しい報いを受ける。
 健気な中部の友を、傲慢不遜にも苦しめ抜いた輩が、厳粛な因果の理法に裁かれ、悉く滅び去っている現実は、ご存じの通りだ。
 ボルテールは、正義の同志を励まし続けた。
 「兄弟よ、皆してうまく恥知らずを攻撃されよ。私の唯一の目的は信念と真実を伝え広めることです」(W&A・デュラント『世界の歴史』28、城戸顕子・大月邦雄・大林トヨ訳、日本ブック・クラブ)
 彼が常に手紙に書き添えた言葉がある。
 それは、「恥知らずを粉砕せよ!」であった。
 この「恥知らずを粉砕せよ!」の一言は、時を超えて、正義に戦い抜く勇者たちのモットーとなった。二十世紀、ファシズムと対決した文豪ロマン・ロランも、その一人である。
 大中部の破邪顕正の英雄たちも、この烈々たる闘魂を若き血潮にたぎらせてきた。
4  「ピラミッドは頂から作り始めるものではない」(『ジャン・クリストフ』豊島与志雄訳、岩波文庫)とは、ロマン・ロランの名言だ。
 天空にそびえる大建築も、固く地中に打ち込んだ基礎なくしてありえない。表面は立派に飾られても、土台が脆弱であれば、いずれ崩れる。
 ゆえに、完勝と栄光の高みを目指す者は、断固として、足元の土台を盤石に固めよ!
 この勝利の鉄則を、誠実に堅実に貫き通してきたのが、我らが中部の誇りである。
 あのトインビー博士は、「安逸は文明にとって有害である」(『歴史の研究』3、松永安左エ門監修、下島連・山口光朔他訳、「歴史の研究」刊行会)と論じられていた。
 地道にして真剣なる中部には、いささかの安逸もなかった。
 中部の堅塁とは、無量の汗と涙で築かれた「忍耐」の土台、「執念」の土台、「努力」の土台の上にこそ、威風堂々と、そびえ立ったのだ!
 なんと尊き、中部の地涌の菩薩であろうか!
 この気高き同志たちを守り抜きたい!断じて断じて勝ってほしい!
 私は、ただその一心で百回以上も中部に馳せ参じ、激励を重ねてきた。
 なかでも、第三代会長を辞任してから一年が過ぎた一九八〇年(昭和五十五年)の五月、愛知で行った、あの自由勤行会は絶対に忘れることはできない。
 私が、大阪から名古屋入りした翌日の五月九日であった。朝早くから中部文化会館に来られた同志の波は、あの広い名城公園にまで及んだ。
 報告を聞いた私は、直ちに決断した。「皆さんに会館に入っていただき、一緒に勤行をしよう!」
 一番広い「雪山会館」は、たちまち人であふれた。私と同志は、幾たびとなく、歓喜の自由勤行会を繰り返した。
 当時、悪逆な坊主と反逆者が結託し、学会蹂躙の暴風が吹き荒れていた。
 私は、悪との大闘争を厳然と宣言した。
 「宗教に、邪悪との妥協はない。妥協は宗教の生命を失うことだ。創価学会は永遠に邪悪と戦う!」
 ″仏法は勝負″である。
 赤誠の供養を受けてきた坊主どもが、その大恩ある広宣流布の同志を苛め抜き、苦しめ抜いているのだ。この極悪を黙って傍観できるのか。戦うことこそが、正しいではないか。
 『三国志』の英傑・諸葛孔明は語った。
 「そもそも正しい道に準拠して悪行を討伐することは、多勢か無勢かには関係がない」(中林史朗『諸葛孔明語録』明徳出版社)と。
 負ければ、民衆を苦しめる害毒は限りなく増劇(ぞうぎゃく)する。
 勇気と正義の言論の剣で、完膚なきまでに、悪の根を断つ以外にないのだ。
5  中部文化会館の中は、熱気に満ちあふれていた。
 「まだ、お会いしていない方がいるはずだ!」
 私は、文化会館の隅から隅まで、注意を向けた。あらゆる場所に足を運んだ。動きながら声をかけ、差し出された手を握りしめた。手が届かなければ、同志の目に挨拶を送った。
 婦人がいれば、「お子さんは未来を担う太切な宝です。広布の大人材に!」と呼びかけた。ピアノがあれば、友のためにと鍵盤に向かった。会いたい方々は、あまりにも多い。時間は限られている。ゆえに一瞬の機会も逃すことはできない。
 上へ下へ動く私の後ろを、首と肩からカメラを下げた聖教の写真部員が、汗だくで必死についてきてくれた。
 私は言った。「ここで、みんなで写真を撮ろう!」「ここでも撮ろう!」
 即席の撮影会である。
 「写真で激励するのだ!」
 会館の中。玄関の外。階段の前。下駄箱の脇。部屋の隅……人が集まっていれば、そこへ飛び込んだ。それは二、三人であったり、ご一家であったり、二十人、三十人のグループの時もあった。
 隣の会館につながる橋の上で撮影し、さらに、その会館に居合わせた友に集まってもらった時には、すっかり暗くなっていた。
 後から数えてみると、記念撮影は五十回、人数は延べ千人に上った。
 来館される人の波は夜まで続き、トータルで実に「五万人」となったと伺った。
 懸命に無事故の運営に当たってくださった役員の方々に感謝は尽きない。
 お会いできなかった方々に、お題目を送りながら、名古屋での日程を終えた私は、岐阜文化会館と各務原文化会館を訪れ、思い出を刻んだ。
 三重での同志との再会は、一九八二年(昭和五十七年)の五月である。三重研修道場などで、旧友たちと記念撮影に納まった。
 なぜそこまでして、一人ひとりと、お会いするのか。それは、一対一の人間の絆に勝る力は、この世にないからだ。これこそが、広宣流布を推進していく原動力であり、生命線である。だからこそ、奪命者である魔は、この尊貴な信頼関係を壊そうと蠢くのだ。
 大聖人も、「日蓮は、この法門を語り、他の人と比較にならないほど、多くの人に会ってきた」(御書一四一八ページ、通解)と仰せである。
 勇気をもって、一人また一人と会い、徹して語り合え!
 そこに、広宣流布の主戦場があるのだ!
 ボルテールは断言した。
 「悪人は共犯者しかもたず」「有徳な人間だけが友人をもつ」(前掲『哲学辞典』)と。
 我らは「悪知識」を責め抜きながら、「善友」との友情の連帯を拡大しゆくのだ。
 私は、命の限りを尽くして愛する中部の同志とお会いし、祈りに祈ってきた。
 わが友よ、断じて勝て!勝ちまくれ!
 一人また一人の胸に、勇気の炎よ、燃え上がれ!
 ご家族へ、地域へ、縁する方々へ、希望の光よ、いやまして広がれ!
 この創価の絆こそ、万年に崩れぬ堅塁・中部の礎なのである。
6  私は名古屋城が大好きだ。お堀端を同志と散策し、壮麗な天守閣や、水面を舞う鳥たちの写真も撮った。
 本年(二〇〇四年)、その天下の名城を眼前に望み、中部創価学会の中心となる大殿堂が、堂々と開館した。見給え、偉大なる同志が築いた大城を! さらにまた、意気揚々として、ここに集い来る、勇敢なる友と友との難攻不落の団結を!
 私は、中部の方々の雄姿に、ふと、ユゴーの『レ・ミゼラブル』に描かれた名場面を想起する。それは、革命に蜂起した市民が、パリの街に防塞を築き、不屈の市街戦を展開する局面であった。
 青年も、女性も、年配者も、少年も、皆が一丸となって、圧倒的な権力に挑んだ。
 それは「堅塁中部」と同じように、民衆が堅固に結束した人間の砦であった。
 ユゴーが描いた″砦の人びと″には、激しい攻防戦のさなかでも、歌があった。詩があった。何よりも、勇猛果敢に戦う魂があった。
 土壇場に追いつめられ、苦境になればなるほど、彼らは勇気と信念を示した。
 「最上の手段は最後の決心から生まれてくる」(『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳、岩波文庫)
 青年リーダーは叫んだ。
 「困難が大なるほど、価値はますます大である」(同前)
 どこよりも大きな試練に打ち勝ったからこそ、偉大なる中部が完成されたのだ!
 ″砦の人びと″には、崇高なる理想があった。
 「各民衆の協和へ向かって進み、人間の統一へ向かって進む」(同前)
 我らも同じだ。我らの熱と力こそが、暗き社会の闇を破り、赫々と照らしゆくのだ。
 チリの民主化の哲人指導者エイルウィン元大統領は、私との対談において、明確に論じられていた。
 「宗教が人間の精神性の向上を促して、道徳的克己や人間同士の理解や団結や平和の意義を高めている限り、政治の質を向上させることに明らかに貢献しています」(『太平洋の旭日』本全集第108巻収録)
 哲学なき現代に求められるのは、まさに宗教による人間性の開花であり、現実界への活力の漲る貢献である。わが中部の同志たちの誠心誠意の献身には、地域社会から、絶大なる信頼と感謝が寄せられている。
  大中部
    堅塁城は
      不滅なり
   功徳の鎧の
     同志は凛々しく
7  「韓国のガンジー」と尊敬された独立の父・安昌浩アンチャンホは言った。
 「責任感のある人が、歴史の主人である。責任感のない人は、歴史の客である」(任重彬『島山安昌浩』明知社、韓国語版)
 広宣流布の責任感が、いずこにも増して深く強く光る陣列が、頼もしき中部である。
 なかんずく中部の広布の母たちは、いかなる労苦も惜しまずに、走り続けておられる。
 「善が偉大であればあるほど、それを成し遂げるための労苦も偉大である」(Григорий Сковорода, Сочинения в двух то мах, Том2, Мысль)
 これは、「ウクライナのソクラテス」と謳われた十八世紀の哲学者スコボロダの箴言であった。
 そして中部の皆様は、米国のキング博士のこの闘魂を、忘れないでほしいのだ。
 「忍耐強い攻撃と、正義という名の兵器を毎日のように使って、その悪を攻め続けなければならない」(『黒人の進む道』猿谷要訳、サイマル出版会)
 これぞ大中部の心意気だ。攻撃こそ最大の防御なのだ。
 ここに、堅塁の堅塁たる所以がある。
 今や、大中部は、全世界の創価の同志が仰ぎ見る、勝利の一番星となった。
 わが大中部の友よ!
 勇気と行動の先駆けの光を、二十一世紀の大空に放ってくれ給え!
 一番星が光り始め、今日も壮大な星々の物語が幕を開けるように、我らが中部の大勝利の完勝の物語を始めてくれ給え!
 中部、中部、わが中部よ!
 厳然と、戦い、勝ってくれ給え!
 皆の心に、勝利の希望を与えてくれ給え!

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