Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新しき一年の旅立ち  

2004.1.6 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

前後
1  富士の如く我らは勝ちたり
 富士が見えた。
 「何ものをも恐れるな! 正義の魂を、断固として持ち続けてゆけ!」と、白雪を輝かせながら、富士は、永遠の力を持って、そびえ立っていた。
 永遠の勝利の王者そのものの英姿であった。
 二〇〇四年の正月、八王子の東京牧口記念会館から見つめた富士である。
 この一月二日、私は七十六歳の誕生日を迎えた。
 病弱のため、富士の如くに強くありたいと、常々、願い続けてきた私が、「一世紀の四分の三」の年齢を超えたことになる。まことに、妙法の功力は絶大である。
 新たな一年の旅路が始まった。今、私の胸中には、満々たる闘魂が燃え上がっている。
 共々に
   不二を見つめて
     勝ち戦
 その水は美しく澄んでいることであろう。空気は明るく、快いことであろう。
 正義の人間は、常に富士を仰ぐべきだと言い遺した哲学者がいた。
 富士は、常に「正義を注視せよ! 邪悪を厳格に打ち破れ!」と、無言にして、大声で叫んでいるように見える。
 信濃町の旧本部から、戸田先生と私は、師弟二人して、正月の富士を見つめたことがあった。先生は富士を指差し、確信を込めて言い放った。
 「学会は、宗教界の王者である。いな、世界平和に戦う王者なのだ。君たちよ、心を尽くして、立派に使命を果たすのだ。断じて負けるな! 最高の王であり、最高の智慧者である富士を仰ぎながら、語りゆくのだ」と。
2  また、一九五四年(昭和二十九年)の春三月のことであった。
 私は戸田先生から、「大作が立つ時が来た。大作よ、青年部の室長になれ。俺も少々、疲れた。一切、頼むぞ」と、直接の任命をいただいたのだ。
 ともあれ、戸田先生が、約三千人の同志と共に、第二代会長として立たれ、広宣流布の大進撃を開始して、間もなく満三年を迎えようとしていた。広宣流布の構想はすべて先生の胸中から発し、折伏弘教の波も、いよいよ十万の大波となってきていた。
 しかし、大躍進とはいえなかった。
 当時の学会は、すべてが、戸田先生の双肩にかかっていた。個人指導も御書講義も、青年たちの訓練育成、そして、地方への広布の展開も、すべてが先生の陣頭指揮で行われた。
 学会を「船」だとすれば、先生お一人で、船のスクリューと操舵を兼ねておられたようなものであった。
 御本尊を根本として、同志の信心のエンジンは回転を増していた。その勢いが確実にスクリューに連動し、正しく舵取りされてこそ、船は波を蹴って前進する。
 先生は、新しいスクリューをつくろうとされた。そして私に広宣流布の全責任を担うべき立場を与え、訓練してくださったのである。
 任命のその日、三月三十日の日記に、私は綴った。
 「一段、一段、学会の中核となって、広布の推進をせねばならぬ。
 これが、自己の使命だ。草花あり、花を咲かせる。これ使命なり。
 自己あり、妙法の流布をいたす。これ使命なり」(本全集第36巻収録)
 そして、仏と魔の大闘争に立ち上がる決意を込め、「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」と記した。仏法は、あくまでも勝負である。わが使命は勝つことなりと、私は生命に刻みつけたのであった。
3  五十年前のこの年、戸田先生は、年頭から青年部幹部の会合に出席し、「次代の学会は青年に託す!」と、烈々たる気迫で叫ばれた。
 私に対する毎朝の講義も続いていた。「勉強せよ、勉強せよ」と、先生のお声には、遺言の響きさえあった。
 そうしたなかでの、青年部の室長の任命であった。それは、創価の中核中の中核である。
 私は、「自分の成長が青年部の成長である。いな学会の前進である」と決心したのである。
 何があろうが、歯を食いしばって、一歩でも、二歩でも前に進むことだ。私は、毎日、寸暇を惜しんで御書を拝した。読書にも挑戦した。仕事も、学会活動も、全責任を持ちながら、戦い、走り回った。一日一日が激戦であり、勝負であった。
 あまりにも多忙極まる日々であり、私の弱い体は、重苦しい疲労が重なり、微熱はいっこうに下がらず、いつ倒れても不思議でない生命の状態になっていた。
 先生は、魔を断ち切るように厳しく言われた。
 「三障四魔との戦いだ。泣いて、御本尊を拝みゆく以外に打開はないよ」
 断じて、強くなれ!
 強く立て!
 強く生きるのだ!
 私は、色心の宿命を革命する思いで、猛然と怒濤に立ち向かっていった。
4  室長になったからといって、戸田先生から、こうしなさい、ああしなさいといった話は全くなかった。
 「まず、全部、自分たちで責任をもって考えよ」という先生の訓練であった。
 ある地方で、既成宗教から布教が妨害されたと聞けば、すぐ青年部が現地へ飛んだ。
 現場第一である。そして、同志が苦しまないよう、戦いやすくなるよう、また、広布の長い展望のうえから、電光石火のスピードで、あらゆる課題に手を打っていった。
 机上で小手先の策を練るのではない。自らが最前線に飛び込み、誰よりも苦労して、智慧を湧かせ、活路を開いていくのだ。
 戸田先生は、「あくまでも自己に厳しく、人びとを大きく包容していくことを常に心がけなければ、強力なる推進力となることはできない」と将軍学を教えられた。
 当時は、本当によく先生に叱られた。情報が遅いと言っては叱られ、何かの対応について、また怒られる。直接、関係ないことでも、どうなっているかと叱責された。
 すべて、青年部が広宣流布の責任を担えとの、ありがたき厳愛の指導であったのだ。
 一人立つ――師の深き期待に応える大道は、この一念を定める以外にない。
 わが青年部の戦友もまた、自分のいるその場所で、断固として、勝利の全責任を担い立て! 広宣流布の激戦が行われているところなら、どこにでも駆けつけ、逆転の突破口を切り開け!
 私は、その模範の開拓者になって、戦い進んだ。そして、新しき勝利と拡大の渦を巻き起こしていったのである。
5  任命から一カ月余が過ぎた五月には、「青年部五千人の結集」を行った。そのわずか半年後には、倍増の「一万人の大結集」も実現した。
 翌年(一九五五年)、日蓮宗(身延派)との「小樽問答」でも勝った。「札幌・夏の陣」でも日本一の弘教を敢行した。
 一九五六年(昭和三十一年)の「大阪の大法戦」では、一支部で一万一千百十一世帯の折伏という不滅の金字塔を打ち立てた。
 続く「山口の開拓指導」も勝った。学会員を苛め、信教の自由を侵すような勢力と戦った「夕張炭労事件」でも、私は勝ってきた。
 さらに、第三代会長に就任した翌年には、国立競技場を埋め尽くした「精鋭十万の大結集」を達成した。これには、日本中が驚き、幾多のマスコミが走った。
 私は、この大結集を、青年部の室長としての決着点と決めていた。私は、満天下に完勝の旗を悠然と打ち立てたつもりだ。
 楽な戦いは一つもなかった。誰もが「難しい」「無理だ」と後込みする激戦ばかりであった。しかし、偉大なる師匠の弟子として、断じて負けるわけにはいかなかった。
 一つひとつが「壁を破る」戦いであった。「邪悪を打ち破る」戦いであり、「正義を打ち立てる」戦いであった。「創価の使命と偉力を示しきる」戦いであった。
 今度は、わが本門の弟子である青年部諸君が、誇り高く立ち上がる時だ。
 若き英雄の君よ、広宣流布の法戦にあって、わが支部の勝利の″青年室長″たれ!
 同志が信頼する、わが地区の″青年室長″たれ!
6  富士は、いつも、見る者に安心を与える。勇気を奮い立たせ、すがすがしい気持ちにさせる。富士と対話すると、皆、元気になる。
 偉大なる広布の同志はかくあれ――と、私は祈り願うのみだ。
 この一年、絶対に一人も残らず、わが使命の地域で、わが人生の舞台で、後悔なき前進を、そして歓喜の太陽を浴びながら、完璧な勝利の金字塔を打ち立てていただきたいのだ。
 あの富士の如くに!
 わが広々とした胸中に!

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