Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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周恩来 中国総理 二十世紀の諸葛孔明

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  周恩来総理の逝去の報を、私は関西で聞いた。
 くるべきものがきたとの思いで瞑目し、しばし、ご冥福を祈った。
 「さぞかし、お疲れだったでしょう、総理。今はただ、ゆっくりと、お休みください――」
 その日、昭和五十一年(一九七六年)の一月九日、私は会合のため、大阪から京都に向かった。そして京都の千人の同志とともに、ふたたび総理のご冥福を深く祈ったのである。(八日の逝去が翌日発表された)
 京都は、若き日の周総理が学んだ曾遊の地である。
 西京の嵐山。円山公園。
 二十一歳の周青年は、日本を去る前に、両所に立ち寄っている。大正八年(一九一九年)の春であった。
 嵐山は雨に煙っていた。両岸に青き松。雨は瀟々として続いていた。
 病める祖国を、どうすれば救えるのか? 活路を求めて、やって来た日本もまた、見かけの威勢のよさの陰に、希望なく、疲れはてた民衆の姿があった。
 中国を見下す国家主義の悪風も強かった。
 ――帰ろう! 中国へ!
 青年は顔を上げた。雨が上がると、万緑のなかに、ひとむれの桜が、あでやかに光った。そこだけに明かりが灯ったかのように見えた。
 円山公園は夜桜を楽しむ人たちで、にぎやかであった。園に桜は咲き満ちて、灯火に浮かぶ薄紅は、この世のものとも思えぬほど美しかった。
 「五十年前、桜の咲くころに、私は日本を発ちました」
 周総理の声が蘇る。その桜とは、ここ京都の桜であったにちがいない。
 「もう一度、ぜひ桜の咲くころに来てください」
 そう申し上げると、「願望はありますが、実現は無理でしょう」
 逝去の一年一カ月前であった。昭和四十九年(一九七四年)十二月五日である。
 あの日、すでに総理の体は、深く病んでいたのである。
 お会いしてすぐ総理は言われた。「二回目の訪中ですね。最初の訪中のときは、病気がひどい時分で、どうしても、お会いできませんでした」と。
 最初の訪中とは、その半年前であった。私が北京に到着した二日後の六月一日、総理はガンの手術のため入院されたのである。
 手術の二年前(七二年夏)、ガンが発見された。七三年には、激務のなか合計七十二日間、入院。七四年の初めから、病状は不安定になった。しかし仕事を休むわけにはいかなかった。
 毎日、十八時間も働く総理であった。連続三十時間におよぶこともあったという。
 四月には、とうとう酸欠状態におちいった。五月には、それが三回、続いた。そして、ついに手術に同意して入院されたのが六月一日であった。
 しかし総理は、そのような状況のなかで、私の初訪中のために万全の準備をしてくださっていたのである。
 私が好きな食べ物は何か。嫌いなものはあるか。タバコは吸うのか。生活上の習慣はどうか。ことこまかく人を介して尋ねてこられた。
 私は「もったいないお言葉です。そのお心だけで十分です。一切、特別なことはしていただかなくて結構です。すべて中国の皆さまのおっしゃるとおりにいたします」と伝えた。
 総理はそれでも、「少しでも安眠できるように」と、宿舎の私の部屋のカーテンを、光が漏れないものに、すべて取り替えてくださっていた。
 行く先々で、総理の「心」に出あい、総理の「心」につつまれての初訪中であった。
 私は九月にはソ連でコスイギン首相にお会いした。
 中ソ対立の激しい時代であったが、コスイギン首相は、胸中では周総理のことを傑物と認めておられた。周総理がいるかぎり、中国は何があろうと乗り越えていくであろうと見ておられた。
2  「丞相 病あつかりき」
 しかし――中国の大樹は病んでいた。
 六月の入院から逝去までに、十五回の手術。平均して四十日に一回である。そのうち七回は大手術であった。輸血は百回に達した。
 それでも総理は、病室を執務室に替えて、十億の民のために、わが身に鞭打って働いた。
 「まだ、耳も聞こえる。頭も働く」。総理は痛み止めの薬さえ断った。頭脳を明晰に保つためであった。歯を食いしばって激痛に耐えた。
 文化大革命の混乱のさなかであった。倒れるわけにはいかなかった。総理が、人民が、無数の同志が命を賭けて築いた新中国が、四人組の野望に破壊されようとしていた。
 策謀、暴力、密告、強奪、人身攻撃。
 無数の人々の悲鳴が総理のもとに殺到した。病める身で、総理は可能なかぎりの救済の手を差し伸べた。彼らに対抗できる人は、他にだれもいなかったのである。
 「やつさえいなければ」――四人組は一番の邪魔である周総理を倒すために、あらゆる黒い手段を使った。
 連日連夜の「批林批孔」のキャンペーンも、表向きは林彪と孔子への批判だったが、じつは孔子とは周総理のことであった。
 彼らは、総理の治療をも妨害した。
 あるときは、輸血の途中に電話をかけてきて、「すぐに取り次げ。絶対に待てない」と脅した。薬で眠りについたばかりの総理は起こされて、輸血を中断して応じなければならなかった。
 わざと治療中にやってきて「今すぐ会いたい」と治療をやめさせ、会ってみると無駄話だけして帰っていった。
 肉体的にも精神的にも総理を消耗させようとしていたのである。
 私がお会いしたのは、そんな嵐のなかの周総理であった。
 この十二月ごろには、攻撃はいちだんと激しかった。年明けの七五年一月、十年ぶりに開かれる全国人民代表大会を機に、四人組は権力の中枢を完全に握ろうとしていたのである。
 そうなれば、一切は手遅れになる。
 総理にとって、なすべき課題は山ほどあった。なしうる時間は、もうわずかしか残されていなかった。
 丞相、病あつかりき――心を焦がし、身を尽くす苦心孤忠を知る人は、ただ夫人の鄧穎超女史だけであった。
3  医師団の反対を押し切って
 会見は急に決まった。
 あるいは総理は、病状の好転を待っておられたのかもしれない。しかし快方に向かわないまま、私の滞在の最終日が来てしまった。
 北京市内の国際クラブでの答礼宴も終わりに近づいたころである。中日友好協会の廖承志会長が小声で「池田会長、ちょっと、お話があります」と耳打ちされた。別室について行くと、「周総理が待っておられます」と言う。
 私は辞退した。「いや、いけません。お体にさわります。私は行くわけにはいきません。お心だけ、ありがたく頂戴いたします」
 真の病状は知るよしもなかったが、その日の午前、鄧小平副総理とお会いして、総理のご病気がかなり重いと、うかがっていたからである。
 私の返事に廖会長は「これは困った」という顔をされた。総理の命に背くことなど思いもよらないと言う。
 私は「わかりました。それでは、二、三分だけ。ひと目お会いしたら、失礼をさせてください」と言って、いったんホテルに戻り、出発したのである。
 十五分か二十分ほど走っただろうか、車が止まったのは、想像以上に質素な建物であった。総理が入院中の病院(三〇五病院)だったことを後から知った。
 後日、夫人の鄧穎超女史が日本の友人に語った回想をうかがった。
 「あのとき、恩来同志は、池田先生に会いたがっていました。しかし、恩来同志の健康管理をしている三〇五病院の医師団は、全員が反対しました。『総理、もし、どうしても会見するとおっしゃるなら、命の保証はできません』と。
 恩来同志は言いました。『池田会長には、どんなことがあっても会わねばならない』。医師団は、どうしてよいかわからなくなり、私のところへ相談に来たのです。会見をあきらめるよう、私から恩来同志を説得してほしい、と。
 私は、答えました。『恩来同志が、そこまで言うのなら、会見を許可してあげてください』。そうして、あの夜の出会いがあったのです」
 あまりにも深い、ご夫妻のお心であった。
 寒い日であった。通訳の林麗韞さんが私の妻に、「それでは寒いでしょう」と、ご自分のコートを貸してくださったほどである。
 それなのに、あの夜、玄関を入るや否や、そこに総理は立って待っていてくださった。
 私は近寄った。「よくいらっしゃいました」。総理は私の手を強く握ってくださった。まばたきもせず目を見つめられた。
 この上なく鋭く、それでいて限りなく優しい目であった。この目が見落とすものは何もないという目であった。総理の全身からにじみ出る何かがあった。
 相見ぬうちから、会っていた。心では、お会いしていた。心に映じていたとおりの方であった。
 「まず記念撮影しましょう」。撮影の準備が、もう整っていた。私ども訪中の一行と撮影の台に並ばれた。
4  「大衆の中で、大衆とともに」の心が共鳴
 じつは総理は、会見の十年ほど前から、人を介して丁重な伝言をくださり、私への連絡を続けてくださっていた。高碕達之助氏、有吉佐和子氏など日中友好の先達の方々を通してである。
 総理は「創価学会は民衆の中から立ち上がった団体である」ということに着目しておられた。「大衆の中で、大衆とともに」が総理のモットーでもあられた。
 学会が戦時中、日本の軍国主義者に抵抗し弾圧された歴史も重視しておられたのであろう。総理の焦点は「国家主義を超えられる相手であるか否か」であった。
 日中友好についても総理は、どこまでも民衆を根本に考えておられた。
 紙の上の約束だけなら、いったん事あれば吹っ飛んでしまう。「民衆と民衆が心から理解しあい、信頼しあう関係になってこそ本当の中日友好はなる」というお考えであった。
 私が昭和四十三年(一九六八年)の日中国交正常化提言で訴えた基本も、まったく同一である。両国の民衆こそが実像であり、「国家と国家」ではなく「民衆と民衆」の視点に立たなければ現状の打開はないという一点であった。
 提言に風圧は激しかった。「宗教団体の指導者が、なぜ“赤いネクタイ”をするのか」とも書かれた。
 そうしたなか、政治家の松村謙三氏は私に「ぜひ一緒に中国へ行きましょう」と強く勧めてくださった。七〇年三月のことである。
 私は「ありがたいお話ですが、私は宗教者であり、創価学会は仏教団体です。国交を回復するのは政治の次元でなければできません。したがって、私のつくった公明党に行ってもらうよう、お願いしましょう」と答えた。
 氏は「池田会長と、公明党のことは全部、周総理にお伝えします」と言われた。
 周総理が公明党を信頼して、日中国交の大切な橋渡しの使命を託してくださったことは、党の創立者の私にとって永遠の誉れである。
 撮影が終わると、「どうぞ、こちらへ」。そう言って先に立って歩かれる。後ろから見ると、総理の背中が薄くなっているのが、人民服の上からもわかった。
 ただ気力だけで立っておられる――私は総理がお疲れにならないように、私と妻だけが会見の部屋に入ることにした。部屋は飾り気がなく、目を気づかってのことか、照明も弱かった。
 対話のさいも、お疲れにならないよう、私から話すことは、なるべく控えた。
 総理の話は多岐にわたったが、一貫していたのは、二十一世紀をどうするかという熱き心であった。あのとき、総理の思いはただ「自分なきあと」の一点に向けられていた。
 「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です。すべての国が平等な立場で助けあわなければなりません」
 残された四半世紀で、アジアと世界の平和へ確固たるレールを敷きたい、そして二十一世紀の中日の友好を断じてなしとげてほしい――私はすべてを「遺言」と受け止めた。
 かつて総理は言われた。
 「土地は南北をとわず、人は肌の色にかかわりなく、世界中みな兄弟姉妹なのです。その時になれば、帝国主義は存在せず、世界は大同の世の中となります。ただ、二十一世紀にならないと、目にすることができないでしょうね。わたしは見られない」「しかし、若い人たちには目にする希望があります」(『周恩来選集』外文出版社)
 私にも「あなたが若いからこそ、大事につきあいたいのです」と言われた。このとき、総理七十六歳。私は四十六歳。
 「中国は、決して超大国にはなりません」とも言っておられた。
 総理の信条は「もし中国が将来、超大国になり、世界で覇権を求めるようなことがあれば、世界の人民が立ち上がって、中国の人民と手をつなぎ、これを打倒してほしい」ということであった。
 「今の中国は、まだ経済的に豊かではありません」とも。その言葉の裏には、中国は、決してこのままではいない、これからの中国は違いますという深い決意があられたと思う。
 会見の翌月には、総理は二十一世紀へ「四つの現代化」の根本路線を発表された。愛する民を断じて裕福にしたい――総理の政治的遺言であった。
5  巨視眼のスケール 顕微鏡の繊細さ
 歴史を見通す巨視眼。人の心のひだまで見抜く顕微鏡の眼。総理は両方を備えておられた。「二十世紀の諸葛孔明」と私は言い続けてきた。
 みずからはトップに立たず、ただ重荷を背負った。
 百戦不撓の闘将であり、それでいて物腰やわらかな名外交官であり、具体的実務に長けた行政官であり、それらすべてが責任感に発していた。
 乱世の中国を、太平の世に転じ、さらに繁栄の中国へと転じきっていく――歴史の大転換の「回転軸」が総理であった。総理は、わが身を軋ませながら、一切に耐え抜いた。
 自分の栄達など眼中になかった。ただ人民のためであった。そのためだけに全身全霊を捧げきっておられた。
 「中日平和友好条約の早期締結を希望します!」
 鋭き声であった。私は「総理のご意思は必ず、しかるべきところに伝えます」とお約束した。
 平和条約でなく平和友好条約を、と明言された。一九六九年六月に同条約を私が小説『人間革命』で主張してから、五年がたっていた。実現したのは、この四年後である。
 会見の間じゅう、私は、総理の計り知れぬ気迫を一身に感じていた。このまま、一時間でも二時間でも語り通してしまいそうな強靭な精神力であった。
 私は、何度も時計を見て、廖会長をうながした。会長は、そのたびに「まだいい、まだいい」と合図をされる。結局、会見は約三十分におよんでしまった。
 おいとまするさいにも、総理が、あのお体で、わざわざ玄関まで見送ってくださったことを私は忘れない。
 一期一会。最初の出会いが最後の語らいとなった。
 私は総理に、記念に一枚の絵画を贈った。総理は、それまでの絵と取り替えて、部屋に飾ってくださったという。
 総理とお会いした翌年(一九七五年)の春、新中国初めての留学生を、創価大学に迎えた。総理が日本に留学されたとき、大学で学ぶ機会を得られず、苦労をされた。そのご苦労に、何かのかたちで私は報いたかった。
 留学生は六人。彼らと創大生に私は提案した。「“桜の咲く日本に行きたいが、行けそうもない”という総理の思いをくんで、日中の学生でキャンパスに桜を植えよう。これを友好の第一歩として、世々代々に続く友情を、生涯かけて、はぐくんでいこう」
 その年の十一月、「周桜」の植樹がなされた。
6  感動の「最期の言葉」
 周総理の訃報が世界を駆けたのは、それから二カ月後のことである。冷たく横たわる総理の胸には、バッジが付けられたままだった。「人民に奉仕する」と刻んであった。
 手術台の上からでさえ、あえぎあえぎ、一地方の炭鉱労働者の健康について指示を出す総理であった。
 大人に己なし。胸には、いつも人民のことしかなかった。
 総理の最期の言葉は、医師団への「私のところでは、もう何もすることがない。ここで何をしているのか。ほかの人たちの面倒を見てあげなさい。あの人たちのほうが、私よりもっと君たちを必要としているのだ……」であった。
 逝去の報に、大の男までが声をあげて泣いた。総理は人々の父であり、母であった。ほかのだれが、われわれのことを、これほどまでに思ってくれようか。
 民の慟哭は中国の山河をも震わせた。寒風が、むせび泣きつつ天地を駆けた。総理を偲ぶ声は、四人組が抑えても抑えても、全土から沸き上がった。
 四月の清明節。日本の彼岸にあたる。天安門広場には、大勢の人々が集まり、総理への追悼の花輪を捧げた。それも四人組の指示で撤去されてしまった。しかし取り払われても、取り払われても、なお新しい花輪をつくり、人々は広場に集まった。
 「敬愛する周総理、あなたへの花輪は私たちの心の中にあります。だれも持ち去ることはできません」
 四人組が総理を攻撃すればするほど、人民の怒りはふくれあがっていった。われらの総理を誹謗することだけは許せない――悪人を打倒せよという声は奔流のごとく、もはや抑えることは不可能だった。
 死せる総理が、生ける四人組を駆逐し始めていったのである。
 人民への愛。それが総理のすべてだった。ただ、そのためだけに、心身を磨り減らし、命を削り続けた生涯であった。
 一九六二年、日本の部落解放同盟の代表が中国を訪れたときのことである。団長は、総理が多忙な時間を割いてくれたことに、心から感謝した。すると総理は、こう言われたという。
 「何をいいますか。日本の中でいちばん虐げられ、いちばん苦しんでいる人たちが中国に来てるのに、その人たちと会わない総理だったら、中国の総理ではありませんよ」(上杉佐一郎対談集『人権は世界を動かす』解放出版社)
 総理にとって「人民」とは、中国だけの「人民」ではなかったのだ。
 日本の賠償問題でもそうであった。日本の侵略による中国の死傷者数は三千五百万人、経済的損失は直接・間接を合わせ、六千億ドルともされている。
 仮に、その一部でも日本から賠償が得られれば、荒廃した祖国の復興にどれほど役立つことか。終戦直後の中国では「日本の重工業の再建を許さないよう生産設備を撤去し、その七割を中国に運んで中国の産業をおこしたい」という意見も強かった。
 しかし総理は言われた。「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民を苦しめることになる」
 事実、日本は、かりに五百億ドルの賠償を払うだけでも、五十年はかかっただろうと言われている。もちろん、今日の経済発展はなかったであろう。この深き恩義を、日本人は絶対に忘れてはならない。いわんや、経済力に傲って、恩人の国を尊敬できないなどというのは、言語道断であろう。
7  桜が結ぶ永遠の友誼
 総理の逝去の二年後、北京で鄧穎超女史にお会いした。それは、総理の“分身”との語らいであった。
 女史は、にっこりとして言われた。「私は来年、『桜が満開のころに』日本へ行きたいと思います」。総理の“願望”を果たしに行きますよという意味であった。
 約束どおり、女史は来日された。国賓扱いである。総理が京都の桜に別れを告げてから、ちょうど六十年目の春であった。(一九七九年四月)
 あいにく、その年の桜の開花は早く、東京の桜は、春嵐にほとんど散ってしまっていた。そこで、せめてもの思いをこめて、私は八重桜と、創価大学の「周桜」「周夫婦桜」、そして留学生の元気な姿を収めたアルバムを、迎賓館で女史にお見せした。
 「これは私たちの友情を象徴するものです」と、喜色を満面に浮かべて喜んでくださった。
 「周夫婦桜」は、一対の桜である。じつは、ご夫妻の住まいの庭に、かつて二本の桜があったが、一本が枯れてしまった。「二本の桜のもとで、一緒に写真を撮り残さなかったことが心残りです」と、女史からうかがっていたのである。私は、心に心で応えたかった。
 以来、女史とはいくどとなく、お会いした。最後は、北京のご自宅にうかがった折である。(九〇年五月)
 部屋には、私がお贈りしたご夫妻の絵が飾られていた。
 「私は、この部屋で、外国の友人を迎えるたびに、この絵を見せて、周総理の思い出や、総理と池田先生との友情のことを紹介しています。私の一生のなかでも、こんなすばらしい贈り物はありません。総理も、さぞかし喜んでいることでしょう」
 このときも「周桜」「周夫婦桜」のアルバムをお見せすると「ずいぶん、大きくなりましたね……」と感慨深げであった。
 別れ際、思いがけなく、総理愛用の「象牙のペーパーナイフ」と、女史愛用の「玉製の筆立て」を贈ってくださった。
 このような貴重な品をいただくわけにはいきませんと申し上げると、女史は言われた。
 「私は、生前の総理の池田先生への心情をよく知っておりますので、お贈りすることにしました。これをご覧になって、総理を偲んでください。先生と総理の友情の形見として……」
 女史は、これが最後になることを知っておられたのであろう。
8  総理ご夫妻の勝利
 中国の古言にいわく「人と交わるには 心で交われ 樹に注ぐには 根に注げ」
 心を大事にし、人の心をとらえる――総理は真の政治を知っている方であった。
 あの声、あの眼差し、あの気迫。風雪に、なおも進まんとする“東洋の丈夫”の姿を、私は今も、ありありと思い出す。
 逝去のあのとき、周総理は、敵の包囲網の中で亡くなった。しかし、最後に勝ったのは総理であった。
 改革・開放へ、心血を注いで国内の状況を整え、米中・日中をはじめとする国際環境をも切り開いて――逝かれた。
 そして今、中国は、百年にわたる屈辱と苦難の歴史をはね返して、栄光の二十一世紀へと巨歩を運び始めた。総理が命と引き換えに敷いたレールの上を。
 総理は勝った。艱難辛苦の赤誠が勝った。
 西の大空を仰げば、総理ご夫妻の晴れやかな笑顔が浮かぶ。
 創価大学の「周桜」の碑は、中国のほうに向けて建ててある。

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