Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

佐藤栄作総理 日本の将来を語りあったノーベル平和賞受賞者

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  「池田さんは三十八歳ですか。私があなたの年のときは、何をやっていたかな」
 佐藤栄作総理は、回想するご様子であった。
 総理は当時、六十四歳。昭和四十一年(一九六六年)の一月八日のことである。
 総理就任後、一年二カ月がたっていた。
 総理は週末には鎌倉長谷の別邸で過ごす習慣であった。旧前田侯爵家の洋館で、総理になってから借用しておられるという。政界・財界の人は呼ばず、政治抜きで完全に静養するための場所とのことであった。
 鎌倉在住の文学者である川端康成、小林秀雄、今日出海氏などが時折、集ったという。今は鎌倉文学館になっている。
 招きを受けて、私がうかがったのは午後六時半。冬の日は、とっぷりと暮れていた。
 「よく来られましたね。覆面か何かしてこられたんですか」。総理流のユーモアである。
 東京からの道は多少、込んでいたがすばらしい夕焼けを見ながら車は走った。別邸の近くまでくると、秘書の大津さんが迎えの車を出してくださっていた。
 三方を山に囲まれた鎌倉には、山ひだに「谷」が多い。別邸は、扇形に開いた一つの谷が、うまく使われていた。おうかがいしたのは私一人である。
 佐藤総理は大きな応接間で一人、待っていてくださった。
 すぐに寛子夫人も出て来られた。にこやかで、見るからに聡明な、笑顔のきれいな方である。
 夫人と話していると、総理が笑いながら「おいおい、俺のほうと話すんじゃないのか。池田さん、こっちへ来てくれ」。本当に、気さくな方であられた。
 「『人間革命』読みましたよ。そのなかに厳しい言葉があった。総理よりも一庶民のほうが偉いと書いてある。厳しいもんだね」
 ちょうど第一巻が出たばかりだった。
 そのなかには戦時中、牧口初代会長が軍部の弾圧に抵抗して「私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることを嘆くのだ」と叫ぶシーンも書いておいた。
 日蓮正宗総本山が時の権力と結んで宗教的信条まで捨て去ってしまったことへの怒りである。
 総理も「創価学会は純粋ですね。気持ちが、きれいだ。純粋に国のためを思ってやっていることが、よくわかる」と言われた。
 六十四歳と三十八歳。親子ほども違う年齢であった。
 私は恩師戸田先生(第二代会長)から「偉大な人に会って勉強しなければならない」と遺言されていた。
 戸田先生は佐藤総理の実兄である岸信介総理と親交があった。その関係もあって、戸田先生が亡くなって、私が会長になったあと、総理になられた佐藤さんに、ごあいさつ申し上げたわけである。
 初めは世田谷のご自宅でお会いしたが、その日は来客が多かった。
 総理から「今度、時間をとって、じっくりと話しあいましょう」とのことで、鎌倉での一夜が実現したという経緯であった。
 日本の将来のこと、教育の問題、宗教の問題、国際問題と、話は広がった。政策次元の話はなかった。総理のほうでは、公明党へのアプローチを、という思いが、あるいは若干あったかもしれない。当時は、いわゆる「政教分離」宣言以前である。
 しかし、そういう話は、少なくとも、まったく出なかった。私も、実質的には党のほうに、すべてまかせてあったし、こまかい政局のことはわからなかった。
 三、四十分の会話のあとに、小さな食堂に移った。
 お手伝いさんも入れないで、夫人がみずから料理を運んできてくださる。何の邪魔もなく、二人きりで話が進んだ。
 総理も私も、あまり酒は飲めない体質である。もっぱら、お茶をいただいた。
 総理の好きな言葉は、ある作家の「君は君なり、我は我なり、されど仲よき」(亀井勝一郎編『武者小路実篤』筑摩書房)だという。小さな党派うんぬんのことではなく、立場は違っても、日本のために可能な限り力を合わせたいと真剣に考えておられた。
 「立場や党利党略にとらわれず、大事のためには結束する」という雅量を失った日本を憂えておられたようだ。
2  「物質万能」は心配
 「若い世代が、国の将来を思う心をなくしてしまった」と、いかにも残念そうであった。
 「敗戦以来、社会にモラルがなくなったね。青少年の非行も増えている。物質万能の考えの悪影響でしょう。欧米には宗教的モラルがあるが、日本人にはみずからを律するものがないので心配です」とも言われた。
 仏法者としての私に話を合わせたということではなかったと思う。海外の事情についてもくわしい総理であった。
 総理の在任中は、ちょうど「高度成長期」に当たっていた。
 総理は敗戦で打ちのめされた日本人が自信を取り戻すことを願いながら、あまりにも精神と文化の面が遅れていることを、ずっと心配しておられたようである。
 「文化国家をめざす」という戦後の初心を忘れるべきではないとも考えておられた。
 モラルという点では、政治家自身が範を示すべきだが、総理は「その点、今の政界はだめです。模範にならない。本当は、政治家にとって一番大事なのは、善人だということです。馬鹿正直といわれるくらいの正直者であっていい」という考えであられた。
 「教育が大事だ」ということも、いろいろ語りあった。そのころ、創価学園を開校する準備を進めていたこともあって、私の話を興味をもって聞いてくださった。
 また「創価学会には、世界の平和に尽くしていこうという、たくさんの青年がいます」とも、お話しした。「人材立国」という理念についても申し上げたと記憶する。
 さらに戦前と戦後ということについて、「戦前の日本は一等国だといって背伸びしていたと思います。民衆を犠牲にしながら、軍事力で何とか一等国の体面を保っていた。これからは、民衆自身が豊かになり、希望をもって、立派な平和国家、福祉国家の建設に参加していくことが大事だと思います」という私の意見も、静かにうなずきながら聞いてくださった。
3  師に仕えきった節義の人
 食事が終わると、「上の私の部屋に行きましょう」と総理。一緒に階段を上ると、途中に、吉田茂元総理と並んで写っておられる写真があった。
 「これが私の師匠です」。誇らしげに、きちっとした声で言われた。居ずまいを正すという感じである。偉い人だと思った。
 だれに対しても自分の師匠を誇りをもって紹介する。これだけで私は「この方は心から信頼できる」と深く思えた。
 「あなたの師匠は戸田さんですね」とも言われた。佐藤さんには、胸中に師を抱いている人だけがもつ厳たる風格があられた。
 いかなる世界であれ、師弟の関係が根本であろう。
 師弟関係があってこそ、人類の進歩はあるし、精神の継続性もある。師弟を忘れたら、自分中心になり、向上はなくなってしまうからである。
 佐藤総理は、池田勇人前総理とともに、「吉田学校の優等生」と呼ばれた。磊落な性格の池田前総理に比べて、佐藤さんの態度は生真面目に厳父に仕えるという感じだったと、知る人は語る。
 ともあれ、こうと決めれば、信念のままに一途な方であった。
 昭和三十年秋、保守合同のときも、合同への滔々たる流れに逆らって、師匠と行動をともにした。
 当時、吉田元総理の威光も衰え、自由党は「民主党との合同やむなし」との大勢であった。
 しかし、佐藤さんは吉田元総理と同じく、新党・自由民主党には入党しなかった。「師匠に殉じた」のである。
 バカだと言われたが、「ぼくは大バカ者の道を歩む」と言い放った。しかし、同志が去っていくことは非難しなかった。現実政治としては自民党に所属することが生きていく道だったからである。「大バカは一人いればいいんだ」とも言っておられる。
 そして石橋内閣のもとで、吉田さんとともに入党するまでの一年二カ月、足かけ三年の間、孤立無援の無所属を通したのである。
 いいときはつき、悪いときは離れる――離合集散の絶えない政界にあって、佐藤さんの信義と節操は光を放っていた。
 その前年のいわゆる造船疑獄も、佐藤総理の死後、真相がだんだん明らかになってきた。
 どうやら、恩師の党を守った結果、泥をかぶったということらしい。吉田総理が、ある政治家との約束で借金を肩代わりすることになっており、その手伝いをしているうちに、政治的駆け引きに利用され、標的にされたと、うかがった。
 自分が逮捕されるかという前夜でさえ「何もやましいことはしていない」と熟睡していた佐藤さんであった。
 寛子夫人によると、そんな佐藤さんが、朝まで輾転として一睡もできなかった日があったようだ。
 それは第五次すなわち最後の吉田内閣が総辞職(昭和二十九年十二月七日)する前夜であった。
 師の苦衷を思い、どうしても眠れなかったのであろうか。
 師を思う心は厚かった。
4  人気よりも仕事を
 佐藤さんが総理になられたとき、師匠は「一国を支配するものにとって、人気が出ることも大切だが、一方、人気なんか気にせず国のゆくすえを考えて、じっくり仕事をしなければなりません。この二つを兼ね備えるのは理想だけれども、あなたが総理になったら、後のほうしかできないだろうね。あなたは黙って仕事するほうだからねえ。またそれでいいんですよ」と言ったという。
 弟子を知るは師匠に如かず。これだけ知ってもらっていることは、ありがたい師匠であった。
 佐藤総理が大磯を訪ねると、吉田さんは「やあ、総理。ようこそ」と羽織袴で出迎え、どうしても上座に座らせようとした。
 「先生、とんでもございません」と固辞する総理に「あなたは一国の宰相ですよ」と譲らなかったという。
 公私のけじめをつけ、筋を通す。そういう折り目正しさも、恩師から学んだことであった。
 吉田さんの座右の銘は「正心誠意」。とくに、国際信義の大切さを口を酸っぱくして教えられた。
 ――鎌倉の洋館は、一番上の階に総理の寝室があった。「こっちへどうぞ」「よろしいんですか」「いいんですよ」
 総理は「昼間であれば、この方向に由比ケ浜の海岸が見え、大島が見えるんです」と言いながら、窓を開け、私に説明してくださった。
 そしてベッドに寄りかかるようにして話をされた。
 「戸田さんは立派な方ですね。学会の力、組織は、すごいですね。われわれも見習わないといけない」。総理は、戸田先生より一歳年下であった。
 「池田さんは、まだ三十八歳ですか。私があなたの年のときは、何をやっていたかな」。何か、感慨をこめたご様子であった。
 総理はもと鉄道省の官吏であられる。大学を出て以来、鉄道の道一筋であった。
 しかし出世は、はじめ「急行」ではなく「各駅停車」であった。地方勤めが十年も続いた。
 郷里の人から「佐藤の三男は切符切りをしている」とも揶揄されたという。同輩は先にみんな偉くなっていく。
 夫人の伯父の松岡洋右氏(後に外相)が、見かねて、東京への転勤を鉄道省の上層部に依頼したらしい。それを聞いて、佐藤さんは烈火のごとく怒った。「おれは人に頼んで転勤運動をするなど大嫌いだ!」
 生涯、自分を売りこむような生き方を好まなかった。チャンスに恵まれないときは、じたばたせず、時来れば一気に飛翔するのが男らしい身の処し方だという信念である。
 入省十二年、三十五歳でようやく本省に戻り、鉄道省の監督局に勤める。三十八歳のときは局の鉄道課長であられたようである。
 四十三歳のときである。大阪の鉄道局長にとの辞令が下った。実質的な左遷であった。
 しかし、人の運命はわからない。戦後、これが幸いした。順調に出世していなかったために、占領軍による公職追放を免れたのである。早くから枢要の地位にあったなら、その後の活躍はなかったかもしれない。
5  生死の境にあって
 敗戦の前後、佐藤さんは重い病床にあった。原因不明の高熱のため、生死の境を彷徨った。
 国の運命も、自分の生命も危機であった。
 断崖を見つめながら、佐藤さんは「自分の今までの生き方に、はたして間違いがなかったか」と考えたという。
 そのころ、パール・バックのエッセーを読んだ。
 「いかなる場合でも、大衆の歩む道というものは、自ら大道をなしている。良識ある大衆の歩む道はまちがいないものである。そこが民主主義のよさだ」(山田栄三『正伝 佐藤栄作』上、新潮社)と書いてあった。
 それに感銘し、「これからは、ものの考え方を変えなければならない。それは生き方を変えることである」と決めた。そして大衆の中に生きる政治家を志したのである。
 やがて吉田総理の知遇を得て、議員バッジなしで、第二次吉田内閣の官房長官に抜擢された(昭和二十三年)。四十七歳。
 いかに当時とはいえ、破天荒の人事だった。佐藤さんの政治家生活は、そもそもの初めから、吉田さんなくしてはなかったと言えそうである。
 佐藤総理の部屋で、夜はふけていった。さぞ、お疲れになったであろう。訪問して三時間半がたっていた。
 「総理、そろそろ失礼させていただきます」
 「悪いね。きょうは、本当によく来てくださった」
 寛子夫人に見送っていただいたが、今思えば、お土産を何一つ持参していかなかったことが悔やまれる。
 ともあれ、子どもほどの若い私を誠意をもって遇してくださったことを、私は一生涯、忘れることはできない。
6  師の悲願を完遂
 その後、総理の在職中は、お会いする機会がなかった。
 総理の座にあること、七年八カ月。史上最長である。
 「沖縄返還を見るまでは」という一念であられたと思う。この沖縄返還も、当初は専門家筋でも「実現する」とは思っていなかったのではないか。総理がそれを口にしたとき、佐藤政権の「焼身自殺」とまで冷笑されたのである。
 結果論として、もっといいやり方があったという批判はあるだろうが、戦争によって失った領土を戦争によらずして取り戻すこと自体が、歴史上、例外に属する。
 吉田総理は講和条約において、沖縄と小笠原は日本に「潜在主権(Residual Sovereignty)」があることを明記させた。この一語によって、将来の返還の可能性を何とか残したのである。
 佐藤総理は師匠の深謀と必死の努力を生かし、やり残した仕事を立派に完成させたともいえよう。
 師匠が亡くなった報を、総理はフィリピンで聞いた。昭和四十二年の十月のことである。
 ぼうぜんとして涙にくれ、直ちに連絡して「国葬」の手筈を整えた。戦後、前例のないことであり、反対も少なくなかったが、「最高の栄誉で報恩を尽くしたい」という総理の気持ちが多くの人の胸を打った。
 取って返して、総理は羽田から大磯に直行された。冷たくなった恩師の顔にふれ、手をさすって、愛弟子は唇を噛みながら嗚咽した。
 その翌月の訪米で、小笠原返還と沖縄の「両三年以内の返還」が決まった。祝賀にわくワシントンの日本大使公邸には、恩師の遺影が飾られていた。
 佐藤さんに最後にお会いしたのは、ノーベル平和賞を受賞された直後である。(昭和五十年二月十二日)
 佐藤さんから、信濃町の私のうちに来て、真っ先に「賞」をお見せしたいという連絡があった。
 しかし自宅は小さいし、佐藤さんご夫妻をお迎えするには、まことに申しわけなく思い、自宅の近くの光亭という、しゃぶしゃぶのお店でお会いすることにした。
 平和賞委員会による授賞理由には、非核三原則、日韓基本条約、沖縄と小笠原諸島の返還のほか、インドとパキスタン、マレーシアとインドネシア間の和平への努力なども挙げられていた。
 受賞の報に、佐藤さんは「日本人は元来、平和を愛好する民族である。これが世界に理解され、代表としてその栄誉を受けるのは甚だ光栄である」と語った。
 また「吉田さんももらわなかったノーベル賞を、私がいただくとは、何か相済まぬ気持ちがする」とのコメントは、いかにも律義な佐藤さんらしかった。
 しかし日本国内では受賞を素直に喜ぶ空気は少なかった。むしろ平和賞委員会の不明を言い立てる声が多かった。
 いずれにせよ、日本人の頭とグローバル・スタンダード(世界的基準)は、あまりにもかけ離れていたと言えまいか。国際社会との違いが浮き彫りになった、いい機会だったが、その落差を冷静に分析するよりも、「世界のほうが間違っている」という論調が多かったようである。
 その日は、寒い日だった。私と妻で、ご夫妻を迎えた。
 お二人とも、お元気そうで、食事も「おいしい、おいしい」と喜んでくださった。元総理はグリーンのネクタイ。髪がいくぶん長髪になり、それが若々しく見えた。
 オスロでの平和賞授賞式のあと、佐藤さんは「どうしてもソ連に行きたい」と主張してコスイギン首相に会われた(昭和四十九年十二月十七日)。日ソ関係の打開が念頭にあったのであろう。
 「領土問題の話はしなかったが、何とか糸口がつかみたかった」と言っておられた。
 「コスイギン首相が言ってました。『日本に帰ったら、創価学会の池田会長に、よろしく伝えてください。この間、有意義な会見をしたばかりなんです』と」
 私は会見(九月)の模様をお話しし、コスイギン首相に対し「いわゆるソ連ロビーの人だけでなく、各階層の大勢の日本人と会ってほしい」「日本人は、ソ連を『こわい国』と思っている。これを変えなければいけない」と言ったことも伝えた。
 佐藤さんは「よく言ってくださった。民間交流が大事です」と賛同してくださった。
7  「日中国交への尽力に感謝します」
 中国で周恩来総理、鄧小平副総理に会った話をし、中国を大切にしたいと言うと、佐藤元総理は「そのとおりです。日中国交回復、よくやっていただきました」。大きな声だった。「中国との国交に尽力してくださり、感謝します」とも言われた。
 この点、意外に思う方もおられるかもしれない。世間では佐藤政権は台湾一辺倒と見られていたからである。米中接近のニクソン・ショック以来、日本の朝野は手のひらを返したように、中国へ中国へと靡いたが、佐藤総理は台湾支持を変えなかった。
 蒋介石総統が戦後、日本人の帰国を速やかに認め、賠償金も取らなかった事実に深く恩義を感じておられたのである。「怨みに報いるに徳をもってせよ」とした総統に対し「恩に報いるに恩でこたえねばならない」と。
 その一方で、日中国交正常化は早くから総理の念願であった。
 就任以前、中国との国交を自分の政権のテーマにしようとされたこともあったのである。「日本が米中の仲立ちをしたい」とも考えておられた。しかし沖縄返還を至上課題とする以上、アメリカとの関係を最優先せざるを得なかったのであろう。
 ともかく、その胸中は「私が台湾に信義を尽くしておいたから、次の人はやりやすいでしょう」という言葉に尽くされている。
 後継者が自由に新しい選択ができるような道をつくるという心情であった。佐藤内閣にとって打撃になり、何と批判されても、「信義を尽くしたという歴史を残しておく」と人知れず決心しておられた。
 それに関連して、米中国交の立役者であるキッシンジャー氏が、私に「外交上の秘密のため、結果的に日本の『頭越し』ということになってしまった。今思えば、もう少し、手際よくできたと思う。あの傑出した佐藤総理に対し非礼をわびたい」と言っておられたことも記しておきたい。
 元総理とは、この夕べも、日本の未来について意見を交換したが、お祝いの席でもあり、終始、なごやかな雰囲気だった。
 佐藤さんは公式の場では口数も少なく、堂々たる体格もあいまって威圧的に見えることがあった。しかし実際にお会いすると、応対は柔らかで、情の濃やかな方だった。一切弁解しない人格者だったので、なおさら誤解も多かったのではないだろうか。
 「保守反動」というようなレッテルや、つくられた虚像が、ひとり歩きした面も大きかったと思う。
 しかし、私が知る限り、佐藤さんは「戦争は絶対にいけない」という強い思いを腹中に置いておられた。
 愛国者であったが、他国への尊敬の念も強く、「傲慢な国家主義や島国根性は絶対に間違いだ」と信じておられた。
 佐藤さんには、人を尊敬する心の広さがあった。しかるべき人であれば、政敵にも敬意を払った。
 小さなことにこだわらず、肝心かなめの大どころをつかんでいる方であった。
 光亭での食事を終えて、ご夫妻を車まで見送った。
 後で、奥さまから「無口な主人が本当によく、しゃべりました。『池田会長がひと回りもふた回りも大きくなって、日本のために頑張ってくださっているのがうれしい』と言っていました」という、温かな愛情こもるお手紙を、いただいた。
8  「私生活は質素に」
 その三カ月後であった。佐藤元総理が倒れた。六月三日、逝去。
 うかがったところによると、佐藤家の蓄えは、周囲が驚くほど少なかったという。「これが八年も総理をやった人の財産か」と。それでも佐藤家では、故人の信条を尊重し、香典も一切受けなかった。
 佐藤さんは、疑獄事件の後、ことさらに厳しく身を律しておられた。総理になったときも、一切祝儀は受けず、かえって「祝いを返すとは何ごとか」と怒りを招いたことがあったのは有名な話である。
 政治家は私生活を質素にすべきだという厳しい考えをもたれていたようだ。
 田舎から出てきたお手伝いさんが、総理邸のあんまり質素な生活に失望し、華やかな暮らしへの夢が壊れて、一週間で帰ってしまったこともあるという。
 日本には珍しい大型の指導者であった。「平凡にして非凡なる人」「日本の憲政史上の巨星」という人も多い。
 強運の人と呼ばれたが、それだけの「徳」のある方であった。よく不遇の人に陰で手を差し伸べておられたようである。
 死後、そういう人々から、思いがけなく「お世話になったんです」と聞かされて、奥さまも驚き、感激することが、しばしばだったという。
 信義の人であった。自分が少しでも世話になった人には、とことん恩返しをした。その分、人を裏切るような人間は許さなかったとうかがっている。
 昭和五十六年暮れ、私の妻は女性週刊誌の企画で寛子夫人と対談した。気取らない、明るく、さっぱりした気性の方だった。その夫人も昭和六十二年に亡くなられた。
 八王子に東京牧口記念会館ができたとき、私は佐藤ご夫妻の「夫婦桜」を、記念庭園に、妻と二人で、そっと植樹させていただいた。
9   今日は明日の前日
 佐藤さんのモットーは「今日は明日の前日」であった。これを著書の題名にもしておられる。
 今日という日を「昨日の翌日」ととらえるよりも、むしろ「明日の前日」ととらえて、未来を積極的につくっていこう、という意味だったと思う。
 事実、総理は、一国の指導者として、「国民の未来」への責任を、ずっしりと一身に受けとめておられた。
 最高責任者の孤独に、じっと耐えておられた。
 ときに、あまりにも理不尽な攻撃もあったが、歴史の審判を信じ、毀誉褒貶を達観しておられた。
 目先のことではなく、自分の死後のことを考えて仕事をしておられた。
 お会いするたびに「日本の将来が」「日本の将来が」と繰り返しておられた佐藤先生の太い声が、今でも懐かしく思い出される。

1
1