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日蓮大聖人・池田大作

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フランス革命二百周年委員会 バロワン委… 世界に友愛を伝えたい

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
2  自由社会・平等社会から「友愛社会」へ
 お会いしたのは一九八七年(一月十八日)である。
 豊饒な大地の香りと、大理石の光沢と。両方を感じさせる大きな器の人物だった。
 「正しいと思うことは何でもやろう」という意欲が、全身から発散していた。
 「フランス革命・人権宣言二百周年記念委員会」の委員長として、世界を行脚しておられた。
 「フランス革命の理想は『自由・平等・友愛』です。しかし今、この順番は『友愛・自由・平等』でなければならないと思います。友愛があってこそ、自由も平等も生かされるからです」
 たしかに「自由」の美名のもとに、残忍な利己主義がはびこり、「平等」の旗のもとには、冷酷な抑圧が民衆を苦しめた。
 これらの失敗を超える「第三の道」。それが「友愛の社会」であると氏は説く。
 「人類よ! 愛しあえ。さもなくば未来はない」
 人権宣言二百周年(八九年)とは、氏にとって、このメッセージを世界にアピールする機会であった。
 そして氏は、世界に「友愛」を伝える旅に出た。それは氏が「人権の巡礼」と呼んだ旅であった。
3  最愛の娘の死を乗り越えて
 その少し前、最大の悲しみが氏を襲った。
 一人娘のヴェロニックさんが交通事故で亡くなったのである。八六年四月。二十二歳の若さだった。
 「娘よ、おまえは、おまえの母にとって、父にとって、兄弟、家族、友人たち、私たちすべてにとって、人生の太陽であった」
 「この地上で過ごしたわずかな時間を費やして、おまえは、私たちすべてに教えてくれた。人生とは陽気さであり、歓喜であり、微笑みであり、笑いだということを」
 「おまえは、人生とは友情であり、それを保ち、賛美するために、いつも気をくばっていなければならないということを、一瞬たりとも忘れなかった。おまえはどこにいても、喜びにあふれた一言、みんなのために適切で力強い必要な言葉を語った。それゆえ、私たちはおまえを愛した」(バロワン『愛の力 人類精神の啓発を求めて』高村忠成訳、潮出版社)
 嘆きは、底知れず深かった。
 突然、生活から太陽が消えてしまった。人生への信頼を、すべて打ち砕くほどの衝撃だった。
 氏の目の前に、最愛の人が横たわっていた。微笑みを浮かべているが、すでに冷たくなっていた。
 娘の何が、死神の憎しみを買ったというのか? 人間への愛にあふれすぎていたのか? 人生への愛に満ちていたゆえに、死神よ、娘が気にいらなかったのか?
 令嬢の死とともに、父の中で何かが死んだ。
 そして――何かが静かに生まれつつあった。
 父は思い出した。娘の最後の言葉を。「人と人を結ぶ絆になりたい」。次の世までも忘れ得ぬ、形見の言葉だった。
 娘のこの思いとともに……私は戦おう。そうすれば、私の中で、私とともに、娘は生きる!
 かけがえなき宝を喪った今、父に恐れるものは何もなかった。
 「私は一つの決心をした。おまえの名において、そしておまえのために、私はふたたび挑戦する、と。安らかに眠りなさい。父の最後の抱擁とともに」(同前)
 氏が「二百周年委員会」の委員長に任命されたのは、その数カ月後であった。(八六年九月)
 人生の時間は、ふたたび流れ始めた。
 地上には、愛する人と別れて以来、心の時計を止めたままで暮らしている人が無数にいる。しかし、バロワン氏は、そうするにはあまりに人生を愛していた。
 一九三〇年の生まれ。九歳のとき(四〇年六月)、ナチス軍がパリを占領した。
 郵便局で働く母も、警察官の父も、真っ先にレジスタンス(ナチスへの抵抗運動)に加わった。
 家庭には、「勇気」と「義務」という言葉が、空気のように、いつもあった。その雰囲気を、少年は胸深く吸いこんだ。
 占領下、思い出の教師がいた。ヴォルテール高等中学時代のラテン語の先生。何と「人権宣言」をテキストに、条文を一つ一つ教えてくれたのだった。
 街は、重苦しい軍靴の響きに閉じこめられていた。そのなかで、「人は生まれながらにして自由であり、平等の権利をもち」「圧制への抵抗の権利をもつ」ことを熱っぽく語ってくれたのだ。
 そのとき、少年たちにとって、「人権宣言」は、ほこりにまみれた古文書ではなかった。今、ここに生きている「人間解放の叫び」であった。いかなる重圧も押しとどめられない「自由な生命の奔流」であった。
4  バロワン氏はアルジェリアなどで警察署長を務めた後、行政の道に進み、実業界でも活躍した。
 多彩でエネルギッシュな活動を貫く信条は、「個人を変えなければ社会は変わらない」であった。
 政界では、何かする前に「市民の声を聞き」「現場の住民に相談せよ」と説いた。そうできるために、行政担当者は自分自身を人間革命せよ、と。
 企業家としては「人間のための経済」を唱え、「消費者に奉仕し、その声を聞き」「ともに働く会社の仲間の声を聞け」と主張した。そうできるために、経済人は人間革命しなければならない、と。
 氏は歯がゆかったに違いない。世界は、これほどまでに科学が発達し、教育は普及し、万人の人生をすばらしくする条件は整っている。それなのに、何をいつまでも、いがみあい、世界の富を浪費しているのか!
 その心は、フランスの国民詩人と響きあう。ユゴーは書いた。「佛蘭西革命は完成して、人類の革命を始めることを理法として居るこの世紀」(一八七六年のジョルジュ・サンの葬儀での弔辞、神津道一訳、『ユゴー全集』10所収)と。
 氏は、私の小説『人間革命』も読み、会見の数年前から連絡をくださっていた。
 東京富士美術館での「フランス革命とロマン主義展」(八七年)が、二百周年記念行事の「世界第一号」に公認されたのも、私どもの文化運動への氏の共感の表れであった。
 東京でお会いできたとき、私が語る仏法の「人間革命」論を、大地が水を吸いこむかのように探求された真剣さが忘れられない。
 「池田会長、現代世界は、ますます悪化の方向へ進んでいるように思います。人間の生きる時間には限りがあります。だからこそ私は、人類の一員としての責任を果たす意味からも、二百周年の行事を『第三の千年』――三十世紀への幕開けとしていきたいのです」
 限りある命だから――その言葉の十九日後であった。氏の乗った飛行機が墜落した(二月六日)。西アフリカのカメルーンだった。
5  死よりも悪いことがある
 六月、私はパリを訪れた。夫人と子息を弔問し、ともに墓参した。
 ボージラール墓地の白い墓石が、雨に洗われて光っていた。
 「お父さまは偉大な方でした」。私は、ご家族に申し上げた。「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」の言葉も引いて語った。生き抜いていただきたかった。
 五十六歳。短い生だったかもしれない。しかし、人生には、死ぬことよりももっと悪いことがある。「生きていない」ことだ。
 氏は生きた。いつも、生き生きと生きていた。すべてを乗り越えて、さらに前へ進もうとしていた。氏は、いわば「前のめりに」倒れたのだ。その姿自体が、氏の勝利だったと私は思う。
 八九年、氏が「三十世紀への幕開け」にしたいと願った年は、劇的な「東欧革命」と「冷戦終結」の年となった。
 それは、だれもが力を合わせて未来を拓いていける、開かれた「友愛社会」への出発だったと私は見たい。
6  令嬢の死を機に書き始めた自伝を、氏は『愛の力』と名づけた。墜落事故は、その原稿を出版社に渡した数日後であった。
 原稿は、こう結ばれていた。
 「……さて、わが娘ヴェロニックよ、きみは幸運の星を手に入れる方法をよく知っている娘だった。さあ、私といっしょに、静かに最後のワルツを踊ってくれるね……」(前掲『愛の力 人類精神の啓発を求めて』)
 命果てようとも、志は残る。
 一体の父娘が願ったのは、「友愛の力」で“地球をもっとうまく回転させること”だった。地球の回転とともに、今も、父娘のワルツは続いているに違いない。

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