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日蓮大聖人・池田大作

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オザル トルコ共和国大統領 「橋」を架ける人

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  トルコのオザル大統領の口ぐせは、「あなたは慣れきってしまっている!」だったという。
 何か新しく行動しようとしても、「今までは、こうだったから」と、古いやり方や考えにとらわれて、動こうとしない。そういう人たちに、この言葉を連発しながら、心の殻を打ち破っていったのである。
 大統領の外交の信条は「ダイナミックに、オープンに」。
 首相時代には、キプロス問題で関係がこじれていたギリシャを、トルコ首相として三十六年ぶりに訪問。同じく、イタリアを五十六年ぶりに訪問した。
 平和のための旅だった。ゆえに、危険な旅だった。
 しかし「トルコの東西の懸け橋に」との決心で動いた。
 内政では、経済の自由化を進め、大胆に社会機構を改革。国民生活の向上に挑戦した。
 “壁”に出あうたびに、あの口ぐせで激励した。
 前進すれば、反動の波は必ず起こる。
 一九八八年、銃弾が“改革者”を襲った。首都アンカラでの集会だった。
 演説中の首相を極右の一人が撃った。演壇まで十メートル。二発の弾丸のうち一発がマイクに当たった。一発は首相の右手の親指をかすめた。とっさに身を伏せた。
 会場は大混乱である。犯人と警護との銃撃戦になり、負傷者が続出。犯人が捕えられ、やっと騒ぎが収まった。すると首相は直ちにふたたび演壇に立ち、スピーチを堂々と続けた。
 「いかなる威しにも私は屈しない!」。断固たる決心の姿に、聴衆は感動したという。
 オザル大統領の胸中に燃えていたのは、「祖国を、この状態のままではすますものか」という、トルコへの愛であった。
 「開かれたトルコ」として国際交流を活発化した。それは西洋の偏見との戦いであった。
 トインビー博士も、しみじみ言われていたが、トルコはじめイスラム世界に対して、西洋は抜きがたい固定観念をもってきた。
 しかし、「聖戦」と呼ばれた十字軍ひとつ取っても、攻められたイスラム世界から見れば、野蛮な略奪以外の何ものでもなかったのである。
 当時、文明の程度も、イスラム世界のほうが、はるかに高かったと言われている。
 西洋社会で迫害されたユダヤ民族も、イスラム世界では、伝統的に「信教の自由」が認められていたという。
 オザル大統領は、あの、にこやかでオープンな人柄をもって、西側との相互理解に挑戦した。
 「友好の人」であった。
 「橋を架ける人」であった。
2  人をくつろがせる人格者
 お会いしたのは、九〇年の秋。(十一月十五日)
 私はデクエヤル国連事務総長と会見したあと、その足で、オザル大統領との会見に向かった。
 親日国であるトルコのなかでも、きわ立って親日家の大統領は、ふくよかな大人の風格であった。
 「紳士とは、人をくつろがせる人である」という言葉がある。大統領との打ちとけた会話は自然に、ご夫妻のロマンスに移った。
 「ある日のことです。他のカップルの結婚披露宴があり、彼女も出席することになっていました。私は、そこで結婚を申し込もう、と決めました。しかし、いざとなると、どうしても勇気が出ない。内気だったんですね。そこで、お酒の力を借りまして、やっとこさ度胸を出したんです」
 ところが、彼女が来るのを待つ間、やむを得ず他の女性と踊っていた姿を、彼女に見られてしまった。「怒って、踊ってもくれないんですからね」――大統領の“告白”はユーモラスであった。
 聞いているだけで、ほっとするような話しぶりである。
 今の時代、偉ぶった人間を、賢い民衆は、だれも尊敬しない。ありのままの人間らしい姿に、人々は親しみを感じ、尊敬するものだ。
 また国と国の関係といっても、「ああ、同じ人間なんだな」という共感を広げることが、友好の根本であろう。
 その意味で、大統領の人格は、「橋を架ける人」にふさわしかった。
 お生まれは、アナトリア(小アジア)の東、緑なすマラテヤの町。かつて、東西を行き交う隊商が憩った町である。
 人類初の「鉄の王国」ヒッタイトの栄華の遺跡――その名も「獅子の丘」が残る。
 私より一歳年長であられた。
 トルコ共和国の出発(二三年)から四年後の生誕である。
 共和国の建設者であるケマル・アタチュルク初代大統領のもとで、祖国は怒涛の前進を続けていた。トルコ革命である。
 それはトインビー博士が、“西洋における「ルネサンス」と「宗教改革」「科学革命」「フランス革命」「産業革命」を一代で成し遂げようとした”と驚嘆した偉業であった。
 オザル大統領との語らいでも、ケマル初代大統領の名言が話題になった。
 「若者よ! 人生は戦いの連続だ。だから、人生には二つのことしかない。勝つか、負けるかだ。われわれが、君たちトルコの青年に期待し、託す使命とは、『つねに勝者たれ』ということなのだ」
3  この世には二種類の人間が
 共和国の建設の前、オスマン・トルコ帝国は「病める大国」と呼ばれ、列強が食い荒らそうと狙っていた。その意味で、東の大国・中国に似ていた。
 問題は、長い間に、人々が圧迫に慣れ、我慢することに慣れてしまっていたことであろう。
 トルコの父(初代大統領)は、その性根を叩き直そうとした。
 叫ぶのだ、立つのだ、われらの栄光を燦然と輝かせるのだ――。
 彼は誇らかに言った。
 「この世にあるのは、圧迫されるのに甘んずる人間と、甘んじない人間の二種類です。そして、トルコ人は後者に属します!」
 トルコには、こんな、ことわざがあるという。
 「語れば、責められる。黙れば、腹が煮えくり返る」
 どちらかしかないのならば、叫びに叫び抜いて、攻撃を押し返し、喝采を叫ぼうではないか!
 この烈々たる気迫が、オザル大統領の行動にも脈打っていたのではないだろうか。
 “われらの真実”を世界に伝えたいと、みずから『ヨーロッパの中のトルコ』を著して、トルコがいかにヨーロッパと世界の文明に貢献してきたかを実証する戦いもしておられる。
 トルコ民族は、不屈の民である。紀元前から、ユーラシア大陸を縦横に交差し、歴史の絨毯に鮮やかな絵模様を残してきた。
 あるときは、草原の道に君臨し、あるときは忍従の服属に耐え、あるときは最先端の技術者となり、あるときは遊牧の業をも捨てて、土地に同化して生きのびた。
 トルコの民は「変化」を恐れなかった。新しき時代へ「打って出る」ことを恐れなかった。だからこそ、あの広大な地域に広がり、数千年を超えて生き抜けたのだ。
 イスタンブール。世界史を凝縮したかのような、この町を私が再訪したのは九二年(六月)である。三十年ぶりであった。
 オザル大統領は、病後の療養中であり、私の名代として長男が療養先まで、お見舞いにうかがった。表敬訪問を大変に喜んでくださり、長時間にわたって、さまざまなおもてなしをしてくださった。
 アンカラでの私の写真展にも、わざわざ長文のメッセージを送ってくださった。
 訃報に接したのは、十カ月後である。あの豊頬の温顔が浮かび、私は瞑目して合掌した。
 イスタンブールのボスポラス海峡は、アジアとヨーロッパを結ぶ。海峡の二つのボスポラス大橋は別名「ユーラシア大橋」である。
 オザル大統領は、両方の橋の建設に参加しておられる。
 生涯、「橋を架ける人」であった。
 東洋と西洋に。
 自然と文明に。
 伝統と近代に。
 そして何より、人と人との心の海峡に。

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