Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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米デラウェア大学教授 ノートン博士 勇気があれば人助けができる

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
2  どの子も「伸びたい」と思っている
 ある小学校教師の体験を、うかがった。
 クラスに、授業にまったくついてこられない女の子がいた。毎日、ずっと下を向いたまま。顔に表情はなく、目もどんよりしている。動作もにぶかった。同級生も相手にしない。
 教師も何とかしようと思ったが、あきらめてしまった。「人間でも果物でも、二割か三割はクズが出るもんだ。しかたないよ」という同僚の暴言には、さすがに反発したが、心の底では、この子には勉強は無理かもしれないと思っていた。知能テストの点も、きわめて低かった。
 ところが、ある休み時間、その子が、プラスチックの図形を組み合わせるパズルをしていた。組み合わせて、うまく、一つの箱に納めるのである。窓から、そっと見ていたが、なかなかできない。
 手伝おうかと思ったとき、カチリと箱に納まった。そのとたん、何とその子が「ばんざい!! ばんざい!!」と立ち上がって叫んだ。顔は見たこともないほど喜びに輝いていた。
 「ああ、こんな顔を、この子はもっていたのか」「こんなにも、この子は、わかりたかったのか」と涙が出てきた。
 教師は、これまでの自分を反省した。「俺は教師じゃないか。プロじゃないか。卒業するとき、全員が『自分は、やればできるんだ』と自信をもって出ていけるようにするのが俺の仕事じゃないか。
 それを反対に、劣等感を植えつけてきた。『わからないのは、わからない子が悪い』と決めつけ、切り捨ててきた。毎日六時間も、わからない話を黙って聞いている子どものつらさを、何もわかってやらなかった」――。
 その教師は小学校時代から、ずっと優等生だった。だから、わからない子の焦りや恥ずかしさ、絶望感を体験していなかった。
 「わからないところを聞きなさい」と言われても、どこがわからないかわからない、みじめさを知らなかったのである。
 理屈では知っていても、そういう人間は「頭が悪い」んだから、しかたがないと思いこんでいた。
 「でも、そうではなかったんです。その子は、家でも、この子はバカだ、バカだと言われるというのです。両親とも有名大学の出身でした。
 『うち、かぞえてみたら朝から晩まで、毎日二十回はバカだって言われてるんや』。それじゃあ、自分はだめだって思うのは当たり前です。
 『よし、それじゃあ自分が、毎日五十回、いい子だ、いい子だ、よくやった、よくやったって言い続けよう。こびりついた心のしみを洗い落とすんだ』。そう決心しました」
 両親にも、態度をあらためてもらうよう話した。どんな小さなことでも、大げさなくらいに、ほめた。
 一年間の悪戦苦闘の末、子どもは、みちがえるように元気になった。なみたいていの苦労ではなかったが、自分なりのペースで、学ぶ喜びをつかんでいった。何より、やればできるんだという自信をもったことが大きかった。
 彼女はその後、大学を卒業し、今、薬剤師になっているという。
 「子どもは、ちょっとしたつまずきで自信を失いますし、ちょっとしたきっかけで爆発的に伸びます。その可能性を信じ抜けるかどうかが、こちらの勝負だと思います。
 テストの点というのは、決められたことを決められたとおりに、しかも早く答える能力を見るわけです。
 でも、なかには、『ゆっくり考える』子もいるし、自分の興味のあることには大人も顔まけの力を出す子もいるわけです。だれが本当に『頭がいい』のか、わからない。
 それを全部、点数だけで切り捨てて、自信を失わせ、せっかくの持ち味まで殺すのでは、何のために学校があるのかわかりません」
 そのとおりであろう。
 子どもは「伸びたくて、伸びたくて、たまらない」という希望の塊である。
 ノートン博士が言われる「一歩、自分で歩けた喜び」こそ、子どもの生命を象徴している。
 この喜びを牧口先生は「価値創造(創価)という幸福」と呼び、ノートン博士は「自己実現の幸福」と呼ぶ。
3  スモーク・ジャンパー
 ノートン博士が、この喜びを痛切に体験したのは、十七歳のときであった。
 博士は、「祖父も父も技術者」という家系に育ち、初めは両親の期待に沿ったコースを進んでいた。
 しかし、いつしか、それが自分が本当に生きたい人生ではないことを意識するようになった。
 十六歳の夏、アイダホ州のプリースト・リバーで「スモーク・ジャンパー」を目にした。これは、山火事を消火するボランティア(奉仕活動)である。車が入れない山林の現場に、飛行機からパラシュートで降下する。
 火事が広がらないように、周囲の木を切り倒したり、溝を掘ったりする重労働である。危険なことはもちろん、若者を引きつけるような格好のよい仕事ではなかった。
 しかし、「何か人の役に立つことができないか」と漠然と考えていたノートン少年にとって、これは大きな啓示だった。
 翌年の夏休み、志願してスモーク・ジャンパーを体験した。初めは怖かった。しかし、何とか、やりとげた。
 「勇気さえ出せば、人助けができるんだ。自分の臆病と戦って、社会に尽くそう。それこそ、一番崇高な人生だ」と全身で感じた。
 その体験を博士は「ピーク(至高)体験」と呼ぶ。危険に身を置き、みずからの勇気を試すなかで、自分の可能性が大きく開かれていくのを感じたという。
 とくに、「これだけの危険を、くぐり抜けたのだ。ほかのことができないわけがない」という自信をもった。これが支えになった。
4  「池田会長、私は『オーバイトーリ』(桜梅桃李。桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李として開花するように、人間も自分らしく個性を開花・結実させよという仏法の人間観・教育観)の原理を尊敬しています」
 博士がそう言われたのは、軽井沢の長野研修道場であった。(九〇年八月十五日)
 博士が創価教育学を研究するきっかけをつくったベセル博士(米インタナショナル大学教授)も、ご一緒であった。
 窓の外では、豊潤な緑の木立が、風に葉うらを、さわさわとそよがせていた。
 私は申し上げた。
 「桜梅桃李――そのとおりです。その人その人を、また、その国その国を、おのおのの文化を、そのまま最大に尊重するのが仏法の心です。
 画一的な押しつけや、傲慢な権威、抑圧的な姿勢は、仏法とは対極にあるものです。また真の教育にも、あってはならないことです」
 “幸福への扉”には特徴がある。それは、外側からは開かず、内側からしか開かないことだ。
 人間の内側からの開花こそ、仏法がめざすものである。それはそのまま人間教育の目的であろう。教育(エドゥケーション)とは、「引き出す(エドゥケート)」ことに本義がある。仏法の精髄も、内なる善性を「開く」ことである。
5  「菩薩の行動」が自分の可能性を開く
 スモーク・ジャンパーで自信をつけた少年は、人に指示された生き方よりも、「自分の人生は、自分の内心の欲求どおりに生きるべきだ」という確信をもった。
 三十五歳で、転機が来た。建築技師の職を捨てて、哲学の研究へと大転換したのである。それは、まさに「冒険」であった。
 氏は、ボストン大学の大学院に入り、わずか二年間で哲学の博士号を取った。
 「スモーク・ジャンパーで得た『勇気』の賜でした。スモーク・ジャンパーは仏法で説く菩薩のような存在です。ジャンパーは皆、庶民です。しかし、人々のために行動することによって、それぞれがすばらしい可能性を開発しています」
 博士にとって、哲学の研究は、机上の観念ではなかった。「人々を、より幸福にするために手助けする学問」であった。
 博士にとって、自分だけ安全地帯にいて、人に命令したり、管理する人間ほど卑しい存在はなかった。そういう権威主義の教育者、政治家、聖職者にはつねに猛然と反対した。
 あるときは、日本に対して、こんな声を寄せてくださった。
 「創価学会は創立以来、抑圧的な権威に対するパルチザン(民衆抵抗組織)として戦っています。現在も、日本を五十年前、六十年前の権威主義の時代に逆行させようとする動きと戦っておられる。
 創価学会は、戦後日本の民主化を強力に進めてきた偉大な推進力です。私が言う“民主化”とは、人々の内発の力をはぐくみ、自立の心を磨く運動のことです。
 しかし、人々に自分の力で考え、自分の眼でものごとを判断するよう促す運動を権力は恐れ、嫌うものです。牧口初代会長も、卓越した思想のゆえに、権力に弾圧されました。牧口会長の教育思想の真髄は、子どもたちが、一切の外的な権威に盲従しないように、自立の心を育てることにありました。
 創価学会への今日の迫害も、民衆の自立の運動を嫌う勢力からの反動であると私は見ております。これはアメリカ人から見れば、よくわかることです。
 たしかに創価学会の内発的で世界的な運動は、日本の社会の理解の枠に収まらないのかもしれません。
 しかし、自分たちの枠に当てはまらないから異質と見たり、独善と決めこむのは筋ちがいと
 いうものです。むしろ、そのように決めこむ人々の閉鎖性と独善性こそが問題です」
 そもそも、人間を「幸福」へと開花させるために一切の努力がある。人間を幸福にしない教育、政治、宗教、学問。それらにいったい、何の意味があるのか――そう主張する博士には人間党の旗手の風貌があった。
 大学でも、人柄を慕って、学生たちが人生の相談にやってきた。博士は学生を下に見なかった。
 ゆえに学生たちは自由に何でも語ることができた。水が上に向かっては流れないように、自分を見下す相手には、人は本当の話はしないものである。
 博士は「学生の身になってみる」という基本に徹しておられた。
6  にぎやかな死
7  九五年、博士に突然、ガンの宣告が下された。そのときにはもう、なすすべはなかったようである。
 後に、メアリー夫人が語ってくださった。
 「死が迫ったことを知った夫に、一抹の不安があったことは確かです。ガンによる痛みが精神を弱めてしまうかもしれない、自分の哲学を揺るがせてしまうかもしれない、と。
 しかし痛みのつけ入るスキはありませんでした。死に直面した彼は、かつてスモーク・ジャンパーとして自身の恐怖を克服した体験を思い出していたのかもしれません。
 死を迎えた彼のふるまいは、優雅でさえありました」
 ある友人が博士に「ガンと戦うのだ。勝つのだ」と励ますと、博士は「私は、すでに勝っているよ」と微笑まれたという。
 「私(夫人)が『死ぬのが怖くありませんか』と聞くと、穏やかに言いました。
 『私は、死を孤独や静寂とは思っていない。私の胸には、多くの友人がいる。池田先生、そしてソロー、エマーソン、ソクラテス、プラトン。
 私は、そうした啓発に満ちた人格を友に、“にぎやかな死”を迎えようとしているんだ。
 だからまったく恐怖など感じない。死もまた、新たな世界への冒険にすぎない』と。
 夫にとって『冒険』とは自分自身への挑戦でした。何が起きるか予測できて、未来に何の心配もないような『安逸な環境』から、あえて自分を引きずり出す生き方です。
 その挑戦をしてこそ自分の可能性がわかり、何をなすべきかがわかるのです。
 夫は『なすべきことはすべてなした。私はつねに自分自身であり続けた。人生から学びたいものを学び取った』と満足していました。そして、新たな勇気をもって、未知の“死”に立ち向かっていったのです」
 六十五歳であった。
 博士は、通常の学者のコースとは違った道を歩まれた。
 だからこそ、その分、「人生」の内奥に深く入っていかれたのかもしれない。博士の学問は体験、人格と一体であった。
 博士が尊敬した牧口会長も同じであった。苦学の人であり、帝大も出ていなかった。
 創価教育学説を発表するにあたっても「小学校長風情が教育学なんどと、世界的大学者でも容易に企てないことを……おこがましくはないか、生意気千万な」と妬まれ、役人からは「ふん、そんな研究は職を去て、隠居仕事にでもやったらどうだ」と蔑まれた。
 しかし何を言われようと牧口先生は「入学難、試験地獄、就職難等で一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思うと、心は狂せんばかり」(『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社)とのあふれる愛情から、「全ての子どもを幸福にする教育」を追究されたのである。
8  「どんな劣等生でも必ず優等生に」
 それは、「将来、幸福になる」だけでなく、「今、学ぶ幸福を満喫させる」ための教育技術であった。いわば練達の「教育道」である。
 私の恩師戸田先生が牧口先生と邂逅したときに言った「私は、どんな劣等生でも必ず優等生にしてみせます」という言葉に、すでに創価教育の真髄があったと言えまいか。
 それは、「劣等生なんて、後からつくられたものだ。考える基本をしっかり教えれば、だれでも優等生になるのだ」という確信であった。
 人間の可能性への不屈の信頼であった。
 「桜梅桃李」と対極にある「画一主義」「序列主義」「切り捨て主義」への怒りの炎であった。
 ノートン博士は言われていた。
 「世界で一番ひどい言葉。それは『いつか、この知識が必要になるから』と言って、子どもの関心を引き出すこともなく、押しつけることです。食欲もないのに口に詰めこまれるの
 は悲劇です。学ぶ喜びを与えるべきです。『初めて歩けた日』のあの顔の輝きを失わせてはならないのです」
 そのための挑戦を、博士は創価の運動に見いだされたのである。
 訪問した創価学園でも「生徒一人一人の目が輝いていて感動した」と言っておられた。
 「創価(価値創造)という名前が私は大好きです。学会との出あいは、私の最高の誇りです」
 博士は死の床にあっても、贈られた創価大学のバッジを最期まで胸から離されなかった。

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