Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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コスイギン ソ連首相 稀有なスケールの指導者

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

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6  ただ「人間として」行動したい
 初めての会見後、私は中国の周恩来総理と会い(七四年十二月)、アメリカではキッシンジャー国務長官と語りあった。(七五年一月)
 一民間人であるからこそ、利害にも立場にも体制にもとらわれず行動できる。ただ「同じ人間として」――立場と言えば、その立場だけを貫いて、私は世界の「平和への意志」を少しでも結集したかった。
 モスクワで、こんな歌を教えてもらった。
  ロシア人は戦争したいか 聞いてごらん
  この広い大地と白樺の林に
  その下に眠る兵士たちに
  
  ロシア人は戦争したいか 聞いてごらん
  ロシアの母たちに
  戦場で夫をなくした妻たちに
  父を失った子どもたちに
 「人間として」のこの思いを、だれが抑えられようか。だれに抑える権利があろうか。
 コスイギン首相の訃報に接したのは八〇年の暮れであった。その直前の十月に病気のため辞任されたばかりである。働き抜いた生涯だった。国民が心から悼む姿が、首相への信頼を裏づけていた。
 翌年(八一年五月)、墓参をした。ソ連軍のアフガン侵攻以来、モスクワ・オリンピックのボイコットなど世界的な反ソ・ムードであった。日ソ間も冷えきっていた。だからこそ、私は訪ソしようと決めた。二百三十人の多人数の交流団とともに。
 墓参の後、コスイギン首相の令嬢のグビシャーニ女史を表敬訪問した。勤め先の国立外国文学図書館であった。
 私は、「人間として」首相とお会いした。亡くなった後も、同じ思いで、ご家族に弔問がしたかった。
 女史は、首相が初会見の夜、私との語らいのことを喜んで女史に語っておられたと教えてくださった。「仕事のことを話すのは珍しいことでした」とも。
 そして「家族全員で相談し、池田先生にぜひ、父の遺品を受けとっていただきたいと決めました。それも父のかたわらで何か大きな役割を果たしてきたものを、とのことで選びました」。
 それはクリスタル製の荘重な花びんであった。首相が「社会主義労働英雄」として表彰されたさいの大切な品であった。また革装の二冊の本は、首相の最後の著作であり、逝去の瞬間まで書斎に置いてあったものという。
 「父の手の温もりがこもっています。父に代わって私が贈らせていただきます」
 涙をたたえて、そう言われた女史の姿は、永久に忘れられない。その女史も九年後に六十一歳で亡くなられた。
 年々歳々、時は流れ、時は走る。ソ連も世界も激変した。中ソの対立は終わり、冷戦も終わった。ソ連は「民主」への道を選んだ。
 今、私の耳朶には首相の力強い声が蘇ってくる。
 「二十一世紀は明るいとみてよいでしょうか」との私の問いに、こう答えられたのである。
 「私たちは、そう望んでいます!」
 あのとき、二十一世紀は、はるか四半世紀後のことであった。今、指呼の間に迫った。
 「ただ人間として」。世界は曲折をたどりながらも、人間主義の拡大に向かっていると私は見たい。
 日本はどうであろうか。日本は変わったであろうか。日本の二十一世紀は明るいであろうか。

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