Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

コスイギン ソ連首相 稀有なスケールの指導者

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  スケールの大きな指導者であった。
 コスイギン首相に、私は、ずばりと聞いた。
 「中国はソ連の出方を気にしています。ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」
 率直が私の身上である。それが相手への敬意だと信じている。
 「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」
 「それを中国の首脳に、そのまま伝えてよろしいですか」
 「結構です」
 クレムリンの首相執務室。会議用のテーブルの向こう側に、風雪に鍛えられた巌のような顔があった。当時、七十歳。
 一九七四年の九月十七日である。私の初の訪ソも最終日を迎えていた。十日間、私なりに、ソ連の人々の平和への悲願を全身で感じていた。その上での質問であった。
 この三カ月前、私は中国も訪れていた。北京では地下防空壕にも案内された。緊急避難用に市民がみずから営々と掘ったのである。
 浅い所で六メートル、深い所で十一メートル。地下には電話室、放送室、食堂などが備えられ、地下道は全市の街区と結びつけられていた。各家庭、学校からも地下街に通じる出入り口があるという。
 「私たちは侵略のために、こんな防空壕をつくっているのではありません。この地下壕は、モスクワまでは掘りません」
 中学校では、生徒たちが校庭の下の地下室づくりに励んでいた。戦争が子どもたちにまで影を落としている。痛ましかった。このままでは、かわいそうだと思った。
 中ソ対立の険しきころである。たがいに非難を投げあい、「ソ連との理論闘争は一万年でも続ける」との声まであった。
 一方、中国とアメリカ・日本の接近によって、ソ連の市民も危機感をつのらせていた。
 おたがいに、侵略の恐怖に、おびえていたのである。
 私は、この不信感を何とか変えたかった。ささやかなりとも「対話」への一石を投じたかった。
 中国は日本の軍国主義の犠牲となった。ソ連はナチスのファシズムの犠牲となった。
 幾百千万の死者。幾億もの悲劇。その万斛の涙は、次の世代が「平和」を楽しめないとしたら、いったい、何のために流されたのか。
 「中国は侵略主義ではないと思います」。私が言うと、コスイギン首相の目が光った。
2  断崖を歩き続けた人
 感情を、ほとんど顔に出さないことで有名である。三十四歳の若さで指導部に起用(一九三八年)されて以来、一貫して政府と党の要職にあった。
 スターリン時代は「つねに監視され、絶対に一人にはなれなかった」という。一歩、判断を誤れば、否、誤らなくとも、簡単に「粛清」された。生き延びてこられたこと自体が奇跡だった。
 「野心のなさ」と、「ずば抜けた実務能力」、何より「幸運」の結果だったとされている。断崖を歩き続けた人が用心深さを身につけたのは当然かもしれない。
 しかし、この日は、語るほどに、首相が打ちとけてくるのがわかった。
 ソ連の物価の話になったときである。「歩くコンピューター」と呼ばれた記憶力で、具体的な数字を挙げながら、物価の安定を説明してくださった。
 「ただし例外もあります。わが国でも値上げがありました。ウォツカとアルコール製品です。――しかし残念ながら、飲んでいます」
 部屋が笑いにつつまれた。笑うと、首相の厳しい顔が好々爺のように一変する。
 一徹なまでの真面目さと自制は、時に冷たさと誤解されたが、首相を知る人は皆、「温かい心の人だった」と言う。
 失脚した要人の家族に、陰で援助したこともあった。
 毎日十六時間も働く一方で、本来は家庭的な人でもあった。エジプトのアレクサンドリアに夫人同伴で訪れたさいには、船上でクラウデア夫人とダンスを楽しみ、その睦まじさに、エジプトの人々は驚きつつ、親しみをもったという。
 その数カ月後であった。六七年のメーデーの日。夫人は急病で危篤の床にあった。しかし首相は赤の広場で軍のパレードを閲兵しなければならなかった。一切の感情を巌の胸に畳みこんで、レーニン廟に首相は立ち続けた。――夫人の臨終には間に合わなかった。
 そういう人であった。
3  悲劇はもうたくさんだ
 中国との平和を望むという首相の言葉に、私は「真実」を直覚した。
 人間の真実の叫びをも、政治的発言として斜めに受けとめたり、党派性の枠からのみとらえる現代の風潮を、私は悲しむ。その賢しらな「精神の怠惰」を一掃しなければ、行き詰まった社会に希望への窓を開けることはできないのではないだろうか。
 いわんや、責任ある人の言は、私はそのまま受け取ることにしている。相手を信頼しなければ、実りある話などできないからだ。
 首相は真剣であった。
 「私たちは、平和を大切にし、戦争を起こさせないことを一切の大前提にしています」
 ソ連軍のチェコ侵入(六八年)などの軍事行動にも首相は、いつも反対したと伝えられている。
 「核は全世界が滅びるほど十分あります」。かみしめるような口調であった。
 「ヒトラーのような人間が、いつ現れて、何が起きるとも限りません。そうなれば、地上の文明を守る手だては、ないのです。人類は遅かれ早かれ、核軍縮を決定するに違いありません」
 ある意味で、驚くべき発言であった。そのころまで「ソ連の核兵器こそ世界平和のために必要な保障である」というのが公式の見解であった。
 ヒトラーのような人間が……。会見で私は、「レニングラード(=現サンクトペテルブルク)攻防」にもふれた。ナチスの「皆殺し作戦」によって、九百日もの間、包囲された「人類史上最悪の戦い」である。
 三百万の市民の半数近くが、戦闘と飢えと凍えで死んだという。
 氷点下の寒さ。紙まじりのパンの支給が一日に百二十五グラム。明かりも通信手段も水道もない。水をネバ川に飲みに行くと、放置されたままの死体の臭いがした。夜となく昼となく、耳を裂く爆音が続いた。一日が何カ月にも思えた。
 家族が死んでも、墓地に運ぶ体力はなかった。床に横たわったままの亡骸を、夜のうちに、クマネズミが、かじった。
 そのネズミも食べた。愛していたペットまで食べた。人肉売りまで出現した。地獄があるならば、ここがそうだった。それでも人々は、ナチスと戦い抜いたのだ。
 私は、会見の四日前、レニングラードを訪問していた。
 ピスカリョフ墓地。二百の共同墓石には「一九四一年十二月」「一九四二年一月」と年月だけが記されている。死者は余りにも多く、その大半が名前すら、わからないのだ。
 碑には、刻まれていた。
 「だれ一人忘れることはない。何一つ忘れることはない」
 平和を願う絶叫であった。
 私は思わず口に出していた。
 「日本ではなぜ、こういうことを何も知らないのか!」
 ソ連は第二次大戦で二千五百万人とも言われる犠牲者を出している。人口の一割以上である。近しい人を亡くしていない人は、だれもいない。
 モスクワでの私の宿舎のカギ番の婦人も、話していると、ぽつりと言った。「私の夫も戦争で死んだのです」。やや太った、ロシア婦人らしい、人のよい彼女の悲しげな目が、今もまぶたに焼きついている。
 日本人だけが戦争の犠牲者だったのではない。いずこの民衆も、もう絶対に戦争だけはごめんだと、身ぶるいする思いで願っているのだ。
 その「平和への悲願」を、「国家」によって分断させてはならない。国境を超えて結集しなければならない。結集して「戦争」そのものを包囲するのだ。
 「日本人は、もっとソ連のことを知らなければなりません」
 私がレニングラードで受けた衝撃を告げると、首相は言った。「ちょうど、あのころ、私はあの町にいました……」
 首相は、それきり口をつぐまれた。それ以上、何か言うと、あふれてしまうものがあったからかもしれない。
4  少女ターニャの日記
 レニングラードは、首相の故郷である。市政の責任者まで務めた。大戦当時は、市民の疎開の担当という困難な任務であった。
 レニングラードの記念資料館で私は、「ターニャの小さな日記」を見た。
 七枚の小さな紙切れ。十一歳の少女の国語のノートだった。ロシア語のアルファベットの練習のページ。その字に合った文が書いてある。
 一枚目には、
 「Z ジェーニャは、一九四一年十二月二十八日昼十二時半に死にました」
 二枚目からは――。
 「B バーブシカ(おばあさん)は、一九四二年一月二十五日に死にました。三時に」
 「L リョーカ(弟)は、一九四二年三月十七日午前五時に死にました」
 「D デャーデャ(おじさん)のワーシャは、一九四二年四月十三日の夜中の二時に死にました」
 「D デャーデャのリョーシャは、一九四二年五月十日、午後四時に死にました」
 「M ママは、一九四二年五月十三日、朝七時半に死にました」
 「S サビチェワの一家は死にました。みんな死にました。ターニャは一人ぼっちになりました」
 後に、ターニャも疎開先で死んだという。
 そして、数限りないターニャがソ連にいた。中国にもいた。広島・長崎に、沖縄に、日本全国に、世界に、無数のサビチェワ家があった。
 首相が言われた。「まず戦争という考えを捨てなければいけません。無意味です。人間が戦争のための準備でなく、平和のための準備をしていれば、武装をせずに食糧を作れるのです」
 食糧問題について、私が「世界食糧銀行」の構想を述べたさいのことである。
 首相の持論は「軍備よりも経済を」であった。「ミサイルにパンが食い荒らされる」現状に抵抗した。
 就任直後には、市場メカニズムの考えを導入した「コスイギン改革」で社会に活気を与えた。しかし硬直化した権力機構によって、改革は葬られてしまった。
 コスイギン首相は、一切の幻想をもたない人であった。現実の大地に根をおろしていた。観念論や大言壮語を嫌った。形式的な会見や、儀式を好まず、時間を惜しんで働きたかった。
 それだけに、ソ連の機構の不合理が、骨身にしみていたことと思う。ある意味で「ペレストロイカ」の先駆者であった。
 「あなたの根本的なイデオロギーは何ですか」
 首相の問いに、私は即答した。「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」
 「その原則を高く評価します。この思想を私たちソ連も実現すべきです」
 ゴルバチョフ書記長の出現の十一年前であった。
5  非難の「北風」より、友好の「太陽」を
 度量の広い「聞く耳をもった人」だった。心はつねに「よりよき何かを」と開かれていた。
 私は日ソ関係についても、忌憚なく語った。
 「日本人は、ソ連に親近感をもっておりません。ロシア文学やロシア民謡には親しんでいますが、一方で、今のソ連には“こわい国”との印象をもっています。これは、おたがいに不幸です。たがいに、もっと理解しあわないといけません。
 そのためには、政治や経済だけの交流では、真の友好はありません。また親ソ派と呼ばれる方々との交流だけでは十分ではありません。
 では、どうするのか。もっと幅広い民間交流、人間交流、文化交流を活発に進めていく以外にないのではないでしょうか」
 温かい相互理解の雰囲気ができてくれば、国家間の複雑な問題も、解決の糸口が見えてくるはずである。
 まず友好の「太陽」を昇らせることだ。
 たがいに非難の「北風」をいくら繰り返し吹きつけても、旅人はマントを脱いで胸襟を開くどころか、ますますマントを固く押えてしまうだろう――。
 私の提案を、首相は不快な顔もせず、聞いておられた。
 やがて大きくうなずいて、言われた。
 「賛成です」
 張りのある大きな声であった。この瞬間から、私どもとソ連との文化・教育交流の多彩なる、うねりが始まったのである。
 首相とは翌年(七五年)の五月、第二次訪ソでも会見した。ちょうど、デンマークの女王が
 訪ソされており、多忙な首相であったが、「時間をつくりました」と笑顔で迎えてくださった。
6  ただ「人間として」行動したい
 初めての会見後、私は中国の周恩来総理と会い(七四年十二月)、アメリカではキッシンジャー国務長官と語りあった。(七五年一月)
 一民間人であるからこそ、利害にも立場にも体制にもとらわれず行動できる。ただ「同じ人間として」――立場と言えば、その立場だけを貫いて、私は世界の「平和への意志」を少しでも結集したかった。
 モスクワで、こんな歌を教えてもらった。
  ロシア人は戦争したいか 聞いてごらん
  この広い大地と白樺の林に
  その下に眠る兵士たちに
  
  ロシア人は戦争したいか 聞いてごらん
  ロシアの母たちに
  戦場で夫をなくした妻たちに
  父を失った子どもたちに
 「人間として」のこの思いを、だれが抑えられようか。だれに抑える権利があろうか。
 コスイギン首相の訃報に接したのは八〇年の暮れであった。その直前の十月に病気のため辞任されたばかりである。働き抜いた生涯だった。国民が心から悼む姿が、首相への信頼を裏づけていた。
 翌年(八一年五月)、墓参をした。ソ連軍のアフガン侵攻以来、モスクワ・オリンピックのボイコットなど世界的な反ソ・ムードであった。日ソ間も冷えきっていた。だからこそ、私は訪ソしようと決めた。二百三十人の多人数の交流団とともに。
 墓参の後、コスイギン首相の令嬢のグビシャーニ女史を表敬訪問した。勤め先の国立外国文学図書館であった。
 私は、「人間として」首相とお会いした。亡くなった後も、同じ思いで、ご家族に弔問がしたかった。
 女史は、首相が初会見の夜、私との語らいのことを喜んで女史に語っておられたと教えてくださった。「仕事のことを話すのは珍しいことでした」とも。
 そして「家族全員で相談し、池田先生にぜひ、父の遺品を受けとっていただきたいと決めました。それも父のかたわらで何か大きな役割を果たしてきたものを、とのことで選びました」。
 それはクリスタル製の荘重な花びんであった。首相が「社会主義労働英雄」として表彰されたさいの大切な品であった。また革装の二冊の本は、首相の最後の著作であり、逝去の瞬間まで書斎に置いてあったものという。
 「父の手の温もりがこもっています。父に代わって私が贈らせていただきます」
 涙をたたえて、そう言われた女史の姿は、永久に忘れられない。その女史も九年後に六十一歳で亡くなられた。
 年々歳々、時は流れ、時は走る。ソ連も世界も激変した。中ソの対立は終わり、冷戦も終わった。ソ連は「民主」への道を選んだ。
 今、私の耳朶には首相の力強い声が蘇ってくる。
 「二十一世紀は明るいとみてよいでしょうか」との私の問いに、こう答えられたのである。
 「私たちは、そう望んでいます!」
 あのとき、二十一世紀は、はるか四半世紀後のことであった。今、指呼の間に迫った。
 「ただ人間として」。世界は曲折をたどりながらも、人間主義の拡大に向かっていると私は見たい。
 日本はどうであろうか。日本は変わったであろうか。日本の二十一世紀は明るいであろうか。

1
1